何か、するのにいちいち「命がけ」でやるつもりだ、という人は、口には出さないけれども、案外多いのかもしれない。
些事であればあるほど、こういう覚悟で、取り組んでいる人がいるとすれば、それは本当にいい仕事になるだろう。
ロシアのウクライナ進攻は、人間とは何だろうか、明らかに攻める側と攻められる側に分かれた戦争であるが、否応なく命がけの「できごと」が今、展開されている。
普通に考えて、ロシアに「正義」があるとは思えないが、プーチンの頭の中には、どうしてもひくことのできない事情があるのだろうか。彼があるべきと思う「我が国」の現状には我慢がならないのだろうか。
その実現のためには、自分の命だけではなく、国民の命をかけてでもなしとげなければならないものなのだろうか。
しかしながら、客観的にみて、こんな戦争を誰が望むだろうか。兵器産業の資本家はホクホクかもしれないし、戦争があって、大儲けできる人々がいることも確かなことだし、人類の戦う本能が満足されるということもあるのかもしれない。
現実に命をかけた戦いが行われていて、この決着はどうなるか、見えていない。ロシアが勝ち続けることは、戦いがやむ事態を招来するとは思えない。ロシアが負けるまで、この戦争は続くと思う。
そうなれば、ロシアが、というよりプーチンが負けるときに、いよいよ核を使ってしまうかもしれない。使い方にもよるが、本格的な核戦争となれば、これはいよいよ人類の滅亡となる。
ロシアのない地球なんて意味はない、などとプーチンが言っているらしいが、プーチンがいなくなれば、ロシア国民がそうとは思わない可能性が強い。
彼がたとえ核のボタンを押そうが、それは直接核ボタンでないとすれば、最後の最後のひとが、ボタンをおさなければ、いいのであるが、世界の核ボタンの最後の人々が、示し合わせて、絶対にボタンを押さないようにしようと、決意していたら、人類はまだ生存できる。
独りのとんでもない人間のために、多くの人々が生存の望みを絶たれるのを許してはならない。人が集まれば、悲劇がおこり、喜劇があり、様々なことが起こる。すべてが心地いいものだけではない。
だが、生きるということには、すばらしい喜びもある。人類の歴史は、このような事件で、終幕とするには、まったく割にあわない。
人類はこの問題をどう解決するのか、「命がけ」で考えなければならない。