ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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文芸誌「新潮」の日韓中小説競作プロジェクトを読む(下) 日本を追っておもしろくなくなる? 韓国の純文学

2011-06-17 20:17:47 | 韓国の小説・詩・エッセイ
1つ前の記事の続きです。)

 韓国作品は、中国に比べ心理描写が繊細で、よくも悪くも文学っぽい。<文学は面白いのか(仮題)>というサイトの評に私ヌルボも同感したのは、キム・ヨンスのレトリックには、(作家紹介にあるカフカというよりも)村上春樹の影響がうかがわれるということ。
 チョウ・ヒョンは、2008年「東亜日報」の新春文芸に当選したということは、純文学の王道で登壇したわけですが、この「ゴッホとの一夜」は、時は22世紀(?)、体外離脱した実験者の意識がプルキネ次元を通じて連結された世界は、実は並行宇宙で、以後タイムトラベルの技術が発達、イエスが十字架に架けられる場面を見たり、モーツァルトの音楽会に参席もできる等々・・・、日本だとこの作品はレッキとしたSFですね。
 この韓国ではこの10年くらいの間で急速に多様な小説ジャンルが登場してきたので、まだSFやミステリー等々各ジャンルの受け皿が整ってないのかな?
 パク・ミンギュの作品も、(今は懐かし)サイバーパンクというやつじゃないの? この作品も読みづらさでは「ニューロマンサー」レベルか。昨年の李箱文学賞受賞作「朝の門」はSFではありませんが、どうも今までの韓国文学の概念を打ち破るぞ、という意識過剰で(?)、力が入りすぎてる感じを受けますが・・・。

 日本の作品がおもしろくないのは、90年代以降の芥川賞作が念頭にあるので予測通り。ミニマリズムがさらに先鋭的(?)になってるようで、たとえば柴崎友香の作家紹介(佐々木敦)にはこう書かれています。

 劇的な展開が殆ど無く、作者と同世代の人々の「日常」をおおらかな筆致で描く柴崎友香の作品は、ともすればストーリーテリングへの配慮をやり過ごし、社会的な問題意識とも懸け離れた、とりわけ二〇〇〇年代に入ってから頻出してきた、呑気で安穏な「何も起こらない」小説(と思われているもの)の代表格として遇されてきた。しかし・・・・ネガティヴな感情の滲出を・・・意識的無意識的に退けて、・・・「今、ここ」の微かな幸福を捉えようとする、・・・このささやかで毅然とした「日常」に対する戦闘意欲こそが、柴崎友香を、凡百の他の若い小説家から決定的に違えているのだと思う。

 柴崎の原作と知らずに観た映画「きょうのできごと」はそれなりに好印象をもちました。しかし、この芥川賞候補作(!)「ハルツームにわたしはいない」はどーもなー・・・。上掲の<文学は面白いのか(仮題)>でも指摘されてましたが、駅構内で新幹線の領収書を失くしたと友人が言った矢先、一男性が落とした領収書を偶然「わたし」が見つけて指さすと、拾った友人「おおっ、ビンゴや」と二人して喜び、って、そらよくないよなー。
 「わたしが見ているものを、目の前にある世界を、ここに、そこにある世界を、あるように書きたい」という柴崎さんの言葉があるブログで紹介されてましたが、目の前だけでなく、その向こう側の人間も「風景」の構成物じゃなくて生身の人間なんだからちゃんと想像力を働かしてくださいねー、と言いたくなります。
 この作品が昨年第143回芥川賞の候補作になったんですからねー。

 ストーリー性がないといえば江國香織「犬とハモニカ」も同様。成田空港にそれぞれいろんな事情を持った人々が下りたって来たところでおしまい。芝居だったら主な登場人物がそろって、さあこれからどんな物語が始まるのかな、と期待を持たせたところで幕が下りるという感じで、たぶん中国だったら、お客さんたち「金返せー!」と騒ぐんじゃないかな。
※大分前の豊崎由美との対談で大森望は次のようなことを語っていました。

大森:江國さんの短篇って、だいたい30枚くらいなんですよ。だからなかなか枚数がたまらなくて、担当編集者は困ってるみたいだけど。「どうしても30枚で終わっちゃうんだよねえ」って。まあ、ストーリーを排除して書けるのが、そのくらいの枚数ってことなんだろうけど。


※音楽でいえば、ストーリーにあたるのがメロディーラインでしょう。最初にミニマル・ミュージックの代表というべきライヒの作品(→YouTube)を聴いた時は、メロデイーなしの単調なリズムの繰り返しの微妙な変化に、新鮮な驚きを感じましたが・・・。

 今日本でたとえばチョン・イヒョンを知ってる人は1000人中でも何人もいないと思いますが、逆に韓国の読書を趣味とする人の間で江國香織を知らない人はないでしょう。長い間約20年遅れで日本の後を追ってきた韓国の社会が、近年かなり日本に接近してきているということでしょうか。

 日本の作家の中で1人だけ抜群におもしろかったのが町田康「先生との旅」。「日本中世におけるポン引きと寺社権門」なんてテキトーな題で「即位式」の講演を引き受けた「私」、推挽してくれた初対面の先生と名古屋駅で落ち合ってタクシーで会場に向かうのですが・・・。
 この作家特有の文体とディーテイルの可笑しさ、最後にオチまでついて笑えます。
 しかし、町田康の次のような文章は韓国語では一体どう訳すんでしょうねー?

・その瞬間、私は、なんかしてけつかんのじゃど阿呆、と思った。
そんなポコペンな、と怒り狂おうかな、と一瞬は思ったがよくよく考えれば向こうはお旦でこっちは芸人、家と言われれば言わなくちゃしょうがないので向鉢巻きで熟考した。
・人々が様々な方向に向かいて交錯、互いに譲り合わなければ激突することが必定なれど、そのような意識を持たぬ者の多い構内を、うわうわうわ。あ。痛て。わっぴゃぴゃん
一度「子音と母音」で確認したいと思います。(よくわかりませんが、中国語への翻訳も大変そう・・・。
 主人公の名前の間穵田考も何と読むんだか。マアツダコウ? ホントに翻訳者泣かせ。いや、これを訳しきるのが翻訳者の醍醐味?

 これまで長々と書いたように、(主にストーリーテリングの)おもしろさの順番では中国→韓国→日本の順ですが、これは作家だけでなく、現代の3国それぞれの社会のダイナミズムの差の反映であり、またそこで生活をしている人々のこれまでの体験の質の違いの反映でしょう。
 たとえば今3ヵ国の60歳の人が自分の半生を語るとして、聞いておもしろそうなのはやはり中国→韓国→日本の順になるのではないでしょうか? 
 今の日本人の多くは、(幸か不幸か)語るに値する人生を生きていないし、社会全体も70年代以降ずっとマッタリ状態。だから、何か物語を背負っていそうな在日の友人に「うらやましい」と言ったりする日本人もいるそうで・・・。ホントにそんな社会になっちゃってるんですかね。

付記。これまでの18作品を読んで気づいたのは、国際結婚だの、海外出張だの、という国境を越えた人物が登場する作品が国を問わず3分の1程度あること。作家たちが「国際」を意識した結果か、フツーにそういう時代になってるのか? たぶん後者、ですか?
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文芸誌「新潮」の日韓中小説競作プロジェクトを読む(上)  断然おもしろいのは中国!

2011-06-17 20:15:07 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 「毎日新聞」で4月4日から毎週木曜日連載してきた<新世紀 世界文学ナビ>。先週「韓国編」が終わり、昨日から「中国編」に。第1回は蘇徳(スードォ)という29歳の女性作家。私ヌルボは初めて知った名前です。記事は→コチラ
 ナビゲーターの桑島先生、彼女の作品「エマーソンの夜」について決定的なネタバレ書いちゃってて、これは作者&翻訳者にメイワクですよ。・・・って、ご自身が訳されてるわけね、なーんだ。
 ・・・ということはおいといて、記事にもあるように、この蘇徳さんも本ブログ先々週の記事でちょっとふれた東アジア文学フォーラム2010と、その前の同2008に連続して参加してるんですね。ということは、次回以降もこれに参加した作家たちが主に取り上げられるのかも・・・。

 さて、日本・韓国・中国の文学交流といえば、私ヌルボ、近年はめったに月刊文芸誌を手に取ることもなくなったのですが、たまたま「新潮」6月号にこの3国の作家たちの小説競作プロジェクトが載っていることを教えられ、読んでみました。
 韓国の文学と人文を扱う季刊誌「子音と母音」(イルム出版社)と、中国の文芸誌「小説界」(上海文芸出版社)との提携の下に文學アジア3×2×4と銘打って始められたプロジェクトで、実は昨年の6月に第1回がスタートしていて、以後第2回が昨年12月号、そして今回の号が第3回なんですね。

      
      【韓国の季刊文芸誌「子音と母音」は1100ページで、この厚さ!(7㎝)】

 3ヵ国の作家が、毎回に割りふられたテーマに沿って各2人ずつ短編を掲載し、それを4回続ける、ということで3×2×4ということです。
 これまでのテーマは、第1回=「都市」、第2回=「性」、第3回=「旅」でした。
 この機会に、ざっと3国の文学の現況を概観してみるかなと思って、第1回と第2回の掲載号は図書館で借りて約1週間で3×2×3の計18編を読んでみました。
 作家・作品は以下の通りです。

第1回 2010年 6月号 テーマ「都市」
日本①島田雅彦「死都東京」 
韓国①イ・スンウ「ナイフ」
中国①蘇童「香草営」
日本②柴崎友香「ハルツームにわたしはいない」
韓国②キム・エラン「水の中のゴライアス」
中国②于暁威「きょうの天気は」

第2回 2010年12月号 テーマ「性」
日本③河野多惠子「緋」
韓国③チョン・イヒョン「午後4時の冗談」(訳:金明順)
中国③葛水平「月明かりは誰の枕辺に」(訳:桑島道夫)
日本④岡田利規「耐えられるフラットさ」
韓国④キム・ヨンス「4月のミ、7月のソ」(訳:崔真碩)
中国④須一瓜「海鮮礼賛」(訳:堀内利恵)

第3回 2011年 6月号 テーマ「旅」
日本⑤江國香織「犬とハモニカ」
韓国⑤チョウ・ヒョン「ゴッホとの一夜」(訳:金明順)
中国⑤叶弥「もう一つの世界で」(訳:垂水千恵)
日本⑥町田康「先生との旅」
韓国⑥パク・ミンギュ「ロードキル――Roadkill」(訳:渡辺直紀)
中国⑥徐則臣「グスト城」(訳:上原かおり)

※韓国作家中、キム・エラン、チョン・イヒョン、キム・ヨンスについては上記の「毎日」のシリーズでも取り上げられ、パク・ミンギュについては本ブログ昨年3月8日の記事で紹介しました。

 さて、全体を通しておおよそいえることは、中国の作品がおもしろくて、日本の作品がおもしろくないこと。
 ただし、これは必ずしも文学としての評価とは一致しませんので、あしからず。
※たとえば長塚節「土」のように感動的なまでに「おもしろくない小説」もあります。この件については昨年11月12日の記事に書きました。

 中国の小説が「おもしろい」理由は、ストーリーが「この先どうなるんだろう?」という興味津々の展開になっていること。于暁威の「きょうの天気は」は、刑務所から仮釈放された男、今一緒に歩いている兄貴分はまた良からぬことを企んでいる。自分は兄貴には逆らえない。しかし今度捕まるとホントにヤバい。どうしよう・・・、という話。
 それから変貌しつつある社会の中で、俗世間の人たちのくり広げる悲喜交々の人間臭い話の魅力ですね。たとえば蘇童の「香草営」。患者たちの評価も高い梁医師は病院の近くに女性薬剤師との密会の場として家を借りたのだが、なんか変な物音が・・・、という話。
 また、精霊とか幽霊等、現代でも「唐代伝奇」「聊斎志異」等の世界がちゃんと受け継がれているようです。以前鄭義の「神樹」や莫言の作品を読んだ時にも思ったのですが・・・。
 それぞれにおもしろかった中国作品中で、とくに1つあげると須一瓜「海鮮礼賛」。主人の留守中にテレビドラマに熱中したり、盗み食いもひどい家政婦の少女がカワイイ。

<(下) 日本を追っておもしろくなくなる? 韓国の純文学>に続く
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