ヌルボ・イルボ    韓国文化の海へ

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チョン・イヒョン「マイ スウィート ソウル」を読む =孤独な都会の<甘さ>=

2011-05-19 21:40:55 | 韓国の小説・詩・エッセイ
 「毎日新聞」に連載中の「新世紀 世界文学ナビ 韓国編」の7回目はチョン・イヒョンでしたね。彼女は1972年生まれ。先週の記事で、年齢の若い順から並べているのかな?と思ったのが見当違いでした。記事は→コチラです。
 この記事でも紹介されているマイ スウィート ソウル」(講談社)、私ヌルボも読みましたよ。翻訳本の方ですが・・・。

 読みっぱなしになっていたので、今回はこの本の感想に絞って書きます。

     

 主人公は雑誌の編集者31歳独身女性ウンス。ソウルで一人暮らしをしています。
 ・・・と、こんな設定の小説を韓国一の発行部数を誇る「朝鮮日報」が連載を始めたのも、いろいろ考えての上でしょう。若い層、それも女性の関心を集めるため。あるいは、伝統的な購読者である熟年男性をつなぎとめるため?
 案の定、この小説は若い女性から圧倒的に支持され、ドラマにもなりました。
 そして「韓国」の、「若い」、「女性」という作者や主人公とは全然かけ離れた、「日本」の、「オジサン」の、「男性」である私ヌルボにとっても興味深く、またとても楽しめる本でした。

 新聞連載小説の必須条件は、まず次回への期待感がかきたてられること、でしょう。
 次の条件は、読者が自分に即して感想や意見を語れること。
 さらに次の条件は、時代を半歩先取りしていること。つまりトレンディ、ですね。
 「マイ スウィート ソウル」は、これらの必須条件を十分充たしています。
 次回への期待感。具体的にはまず、主人公ウンスは一体どの男を結婚相手に択ぶんだろう、という興味ですね。
 登場人物を作者がとても巧みに肉付けしているので不自然な印象は受けませんが、候補の男性三人はみごとに図式的です。

 男A=七歳年下で若さと男性的魅力があり、自分を愛してくれている。
 男B=年上の男性で、地位・財産があり安定している。 
 男C=気心の知れた親友で何でも話せる。

 三人については作中でウンス自身分析しているように皆マイナス面もしっかり(?)あります。おそらく多くの女性読者は、自分なら誰を択ぶかを考えもし、朝の職場で話題にもしたでしょう。熟年の男性なら、「Aにいっとき傾いても、どうせBだろう」と予測したり、三人の欠点(「若いのに遊び暮らしている」とか・・・)をあげつらって「ケシカラン」と激したり・・・・。そんな感想・意見をいろいろ語り合って盛り上がれる。二つ目の条件にかなってますね。
 図式的といえば、ウンスの女友だち二人も同様で、

 女友だちA=30代に入っても、職をなげうって夢に挑戦する。
 女友だちB=現実的に考えて結婚の道を択ぶ。

 ウンスは(そして読者も)そのはざまで考え悩むのです。
 しかし、物語の結末は伏せますが、人生そんなに甘くはないのですね。。

 「時代の半歩先」を行っている点も、「流行に後れてはいけない」若い女性だけでなく、「最近のことも知ってるんだぞ」とちょっと自慢したい熟年男性にとっては読まれる要素です。
 小説にあるように、ソウルはホントに「過剰な街」です。古いものから最新のものまで。格安のものから超リッチなものまで。食べ物だけとってみてもメウンタンやビビンバなどの韓国料理のほかに、ハンバーガーはもとより、フェーやマグロのような物まで好んで食べる時代になっています。
 知識・教養も多様かつ重層的になっています。
 学校で教わった詩人柳致環の「岩」から、古典の分類に入ったミケランジェロ・アントニオーニの映画。民主化闘争の残光という感じの「動物園」の歌『道で』や崔勝子(チェ・スンジャ)の詩。そして日本の漫画『20世紀少年』等々・・・・。

 この小説を読んだ日本人女性は、「なんて私たちとこんなに共通点が多いのだろう」とか、「どこの国でも同じなんですね」と驚きの感想をブック・レビューに記していました。
 しかし、若い彼女たちは知らないのでしょうが、決して「どこの国でも同じ」でもないし、韓国も昔から日本と共通点が多かったわけではありません。

 日本は1960年代が学生運動の時代で、「シラケ」という流行語とともに始まった70年代以降は、それまでとうって変わって、文学も音楽も、すべてが明るく、そして軽くなりました。
 韓国の場合は80年代が民主化闘争の時代。それが90年代、文民政権の成立頃から急激に変わってきました。
 その変化は、端的にいえば伝統的なシステムの崩壊が進み、表面的には軽やかで明るく見える中で、個人の孤絶化が進行していったということでしょう。
 日本の純文学は、70年代以降、田中康夫や村上龍、村上春樹等が登場し、吉本隆明から吉本ばななの時代に変わります。都会の若者を描いた小説が主流になりました。
 ところが都会で暮らす人々の自由を保証する「匿名性」は両刃の剣でもあります。

 以前韓国人の先生から「韓国だと、一人で食堂で食事をしているとヘンだと見られる」という話を聞きました。この小説の登場人物の1人も言います。「俺って、映画館とかマンガ喫茶、銭湯やゲーセンだったら、どこでもひとりで行けるんだけど、レストランだけは、ダメなんだ」。レストラン以外はすでにOKになっているというわけです。たぶんレストランも何年か後には「お一人様」をふつうに見かけるようになるでしょう。今の日本のように。
 作品中には、主人公と同じアパートの、やはり一人暮らしの女性が襲われたが、発見されたのは事件の三日後、というたぶん実際にあったらしい出来事が物語られています。
 またワンルームに帰った主人公ウンスは電気をつけた時孤独感に捉われます。

 「社会を構成する最小単位は、家族だと教わった。だが、この世のなか、無数のひとり世帯があることは、教科書に出てこない。彼らにとって、社会の最小単位は自分自身なのだ」とウンスは考えます。
 伝統的世界の中の確固たる位置を占めていたはずの母も、今や決して安定した存在ではないようです。
 一昨年韓国では申京淑のベストセラー「オンマをお願い」をはじめ「オンマ・シンドローム」がまき起こりました。急速な社会の発展変化の中で、ふと思い出した郷愁のような感情のあらわれかな、とヌルボは考えたのですが、伝統的な世界が崩壊していく中で、母をも「個」として認識されるに至ったと見る方が正しいかもしれない、とこの小説を読んで思いました。
 ウンスのお母さんも、携帯の待ち受けにテ・ジナのド演歌を使っている旧世代ですが、悩みながらも自身の人生を生きようと考え、行動するようになっています。

 つまり、このような小説が書かれるようになった21世紀の韓国と、1970年代の日本の文学状況と通底するものがあるということです。

 訳者の清水由希子さんは、主人公と同年代の女性にとって「痛い小説」であると記しています。
 軽い虚無と心地よい軽さ。しかしマジに考えると、「軽い」ではすまされない厳しい生活や将来への不安があり、心地よさを味わうべくもない現実に直面している。ウンスは、そんな数多い都市の若い世代の1人です。
 ・・・とはいうものの、悩みを抱え孤独感や不安感に襲われ、なんのかのと言いながらも、ウンスは、さして離れてもいない親の家に戻ろうとはしないのです。
 ソウルの、今の生活を捨てようとはしません。そこが「私の」、「甘い」、「ソウル」たるゆえんなのでしょう。

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