投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 3月11日(水)12時48分7秒
村上源氏は源俊房(1035-1121)の子孫の俊房流と、俊房の弟・顕房(1037-94)の子孫の顕房流に大きく分かれますが、俊房流は永久元年(1113)の「永久の変」(鳥羽天皇暗殺陰謀事件)で没落し、顕房流が嫡流となります。
永久の変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%B9%85%E3%81%AE%E5%A4%89
源具親の父・師光は井上宗雄氏により天承元年(1131)生まれと推定されていますが(『平安後期歌人伝の研究』、p453)、俊房の孫なので出生の時点で既に公家社会での立身出世は殆ど期待できなかった人ですね。
そして歌人としてそれなりに活動はしましたが、井上宗雄氏の「八 師光」が、
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源師光は寿永百首家集の一人であり、平安末期花壇における地位も一応注意すべきであり、更には歌人宮内卿の父としても一顧されてよい点がある。その生涯と業績とをやや詳しく辿ってみる。
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と始まっているように(p452)、「歌人宮内卿の父としても一顧されてよい」程度の存在です。
また、同様に源具親も、「歌人宮内卿の兄としても一顧されてよい」程度の存在ですね。
ただ、この父子は結構な財産家で、森氏が言われるように「関白藤原実頼や右大臣藤原実資が住んだ名第小野宮の地の伝領者としても知られて」います。
藤原実資(957-1046)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E8%B3%87
小野宮第は中世において著名だっただけでなく、その伝領の過程が女性史的観点から興味深いので、高群逸枝以来、現代の歴史研究者にとっても相当に有名な邸宅ですね。
ま、それはともかく、1131年生まれと推定され、「千五百番歌合の判者となっているから、多分建仁三年(一二〇三)までは生存していた」(『平安後期歌人伝の研究』、p453)師光の子の具親が何年生まれかというと、これははっきりしません。
具親の経歴、そして歌人としての活動については井上著に説明がありますが、森氏が井上氏の研究を整理した上で若干の検討を加えておられるので、そちらを引用してみます。(p81以下)
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二、歌人源具親の活動
源具親は後鳥羽院に見出されてその側近歌人のひとりとなった。『源家長日記』に、
具親と云人侍り、右京権大夫入道師光の子也、仁和寺
のほとりにかすかなるさまにてすみ侍りしが、召出さ
れてやがて兵衛佐になされ侍りしを父の入道の涙もか
きあへずよろこばれしこそことはり也と見え侍りし
とあり、後鳥羽院が「仁和寺のほとりにかすかなるさまにて」住んでいた具親を召出して兵衛佐に任じ、父師光はこれに感激して感涙に咽んだという。年代的には後鳥羽院歌壇がスタートする、建久末・正治ころ(一一九〇年代末)のことであろうか。具親は正治ころから歌人として活動がみえ、建仁元年(一二〇一)七月には和歌所寄人に加えられるのである。ちなみに同二年十一月に左兵衛佐任官が確かめられる。
ところで、「かすかなるさまにて」という表現からは具親が世間から忘れ去られた存在であったような印象を受けるが、具親はすでに建久八年(一一九七)に能登守に任じていた。『玉葉』同年三月二十日条に、
以能登国、中将〔九条良輔〕猶子源具親、<師光入道子云々、>
との任官記事がある。また『公卿補任』建久八年条の藤原隆保項に拠ると、隆保は上階して能登守を辞し源具親を任じたとある。隆保は能登知行国主となったらしい。藤原隆保は自身の分国の国司として具親を任じたのであるから、具親と何らかの関係があったとみられるが、詳細は不明である。また『玉葉』に拠れば、具親は九条兼実の息良輔の猶子となっていたとあるが、良輔は文治元年(一一八五)の生まれであり、正治ころから歌人として活動する具親との猶子関係が成り立つかどうかはなはだ疑問である。具親の生年は不明だが、九条良輔より年下であったとは考えにくいであろう。井上氏は年齢関係から判断して、この猶子関係に懐疑的である。私も具親を良輔の猶子とするのは誤りであると思う。『玉葉』本文に何らかの錯誤が存在すると考えられる。
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小野宮第は南北を大炊御門大路と冷泉小路、東西を烏丸小路と室町小路に囲まれた場所にあるので、具親が住んでいたという「仁和寺のほとり」は別邸ですね。
また、藤原隆保は「隆」の字から四条家の人かなと思いましたが、『尊卑分脈』と『公卿補任』を見たところ、藤原隆季(1127-85)の息子で、四条隆房(1148-1209)の同母弟ですね。
長寛三年(1165)叙爵でありながら、『公卿補任』に初めて登場するのは三十二年後の建久八年(1197)ですから、ずいぶん遅い感じがします。
ただ、仁安三年(1168)「備前権守<介歟>」、嘉応二年(1170)「因幡守(元〔兄カ〕隆房秩満替)」、安元二年(1176)「正五下(御賀行幸賞。父卿譲)」、治承二年(1178)「去守(秩満。次〔以カ〕隆清任之)」、元暦二年(1185)「従四下(父卿造進仏頂堂賞譲之)」、建久七年(1196)「能登守(申可造進七条院御所之由)」、建久八年(1197)「従三位(今日造進御所御移徙也。仍被行賞)」などとあって、さすがに富裕で鳴らした四条家の一員だなあと思わせますね。
藤原隆季(1127-85)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AD%A3
村上源氏は源俊房(1035-1121)の子孫の俊房流と、俊房の弟・顕房(1037-94)の子孫の顕房流に大きく分かれますが、俊房流は永久元年(1113)の「永久の変」(鳥羽天皇暗殺陰謀事件)で没落し、顕房流が嫡流となります。
永久の変
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B8%E4%B9%85%E3%81%AE%E5%A4%89
源具親の父・師光は井上宗雄氏により天承元年(1131)生まれと推定されていますが(『平安後期歌人伝の研究』、p453)、俊房の孫なので出生の時点で既に公家社会での立身出世は殆ど期待できなかった人ですね。
そして歌人としてそれなりに活動はしましたが、井上宗雄氏の「八 師光」が、
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源師光は寿永百首家集の一人であり、平安末期花壇における地位も一応注意すべきであり、更には歌人宮内卿の父としても一顧されてよい点がある。その生涯と業績とをやや詳しく辿ってみる。
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と始まっているように(p452)、「歌人宮内卿の父としても一顧されてよい」程度の存在です。
また、同様に源具親も、「歌人宮内卿の兄としても一顧されてよい」程度の存在ですね。
ただ、この父子は結構な財産家で、森氏が言われるように「関白藤原実頼や右大臣藤原実資が住んだ名第小野宮の地の伝領者としても知られて」います。
藤原実資(957-1046)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%AE%9F%E8%B3%87
小野宮第は中世において著名だっただけでなく、その伝領の過程が女性史的観点から興味深いので、高群逸枝以来、現代の歴史研究者にとっても相当に有名な邸宅ですね。
ま、それはともかく、1131年生まれと推定され、「千五百番歌合の判者となっているから、多分建仁三年(一二〇三)までは生存していた」(『平安後期歌人伝の研究』、p453)師光の子の具親が何年生まれかというと、これははっきりしません。
具親の経歴、そして歌人としての活動については井上著に説明がありますが、森氏が井上氏の研究を整理した上で若干の検討を加えておられるので、そちらを引用してみます。(p81以下)
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二、歌人源具親の活動
源具親は後鳥羽院に見出されてその側近歌人のひとりとなった。『源家長日記』に、
具親と云人侍り、右京権大夫入道師光の子也、仁和寺
のほとりにかすかなるさまにてすみ侍りしが、召出さ
れてやがて兵衛佐になされ侍りしを父の入道の涙もか
きあへずよろこばれしこそことはり也と見え侍りし
とあり、後鳥羽院が「仁和寺のほとりにかすかなるさまにて」住んでいた具親を召出して兵衛佐に任じ、父師光はこれに感激して感涙に咽んだという。年代的には後鳥羽院歌壇がスタートする、建久末・正治ころ(一一九〇年代末)のことであろうか。具親は正治ころから歌人として活動がみえ、建仁元年(一二〇一)七月には和歌所寄人に加えられるのである。ちなみに同二年十一月に左兵衛佐任官が確かめられる。
ところで、「かすかなるさまにて」という表現からは具親が世間から忘れ去られた存在であったような印象を受けるが、具親はすでに建久八年(一一九七)に能登守に任じていた。『玉葉』同年三月二十日条に、
以能登国、中将〔九条良輔〕猶子源具親、<師光入道子云々、>
との任官記事がある。また『公卿補任』建久八年条の藤原隆保項に拠ると、隆保は上階して能登守を辞し源具親を任じたとある。隆保は能登知行国主となったらしい。藤原隆保は自身の分国の国司として具親を任じたのであるから、具親と何らかの関係があったとみられるが、詳細は不明である。また『玉葉』に拠れば、具親は九条兼実の息良輔の猶子となっていたとあるが、良輔は文治元年(一一八五)の生まれであり、正治ころから歌人として活動する具親との猶子関係が成り立つかどうかはなはだ疑問である。具親の生年は不明だが、九条良輔より年下であったとは考えにくいであろう。井上氏は年齢関係から判断して、この猶子関係に懐疑的である。私も具親を良輔の猶子とするのは誤りであると思う。『玉葉』本文に何らかの錯誤が存在すると考えられる。
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小野宮第は南北を大炊御門大路と冷泉小路、東西を烏丸小路と室町小路に囲まれた場所にあるので、具親が住んでいたという「仁和寺のほとり」は別邸ですね。
また、藤原隆保は「隆」の字から四条家の人かなと思いましたが、『尊卑分脈』と『公卿補任』を見たところ、藤原隆季(1127-85)の息子で、四条隆房(1148-1209)の同母弟ですね。
長寛三年(1165)叙爵でありながら、『公卿補任』に初めて登場するのは三十二年後の建久八年(1197)ですから、ずいぶん遅い感じがします。
ただ、仁安三年(1168)「備前権守<介歟>」、嘉応二年(1170)「因幡守(元〔兄カ〕隆房秩満替)」、安元二年(1176)「正五下(御賀行幸賞。父卿譲)」、治承二年(1178)「去守(秩満。次〔以カ〕隆清任之)」、元暦二年(1185)「従四下(父卿造進仏頂堂賞譲之)」、建久七年(1196)「能登守(申可造進七条院御所之由)」、建久八年(1197)「従三位(今日造進御所御移徙也。仍被行賞)」などとあって、さすがに富裕で鳴らした四条家の一員だなあと思わせますね。
藤原隆季(1127-85)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E9%9A%86%E5%AD%A3
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