投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年 4月 1日(月)22時26分29秒
『増鏡』に最初に四条貞子(北山准后)が登場するのは康元二年(1256)、娘の公子(東二条院、1232-1304)が後深草天皇に女御として入内する場面です。
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時なりぬとて人々まう上り集まる。女御の君、裏濃き蘇芳七、濃き一重、蘇芳の表着、赤色の唐衣、濃き袴たてまつれり。准后添ひて参り給ふ。みな紅の八、萌黄の表着、赤色の唐衣着給ふ。出車十両、みな二人づつ乗るべし。一の車、左に一条殿<大きおとどのむすめ>、右に二条殿<公俊の大納言女>、二の左按察の君<准后の妹>、右に中納言<実任のむすめ>、三の左に、民部卿殿、右別当殿、その次々くだくだしければとどめつ。御童、下仕へ、御はした、御雑仕、御ひすましなどいふものまで、かたちよきをえりととのへられたる、いみじう見所あるべし。
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/6923413073fbd722365aa088e6a8b51d
ということで、「准后添ひて参り給ふ」とあるだけです。
次に登場するのが二十九年後、弘安八年(1285)の「北山准后九十賀」の場面ですが、「第十 老の波」の殆ど半分を占めるほど膨大な分量のこの場面の中で、貞子に割り当てられた部分は実は僅少です。
即ち、貞子は冒頭で娘の大宮院(1225-92)と一緒に紹介されるのですが(井上宗雄、講談社学術文庫『増鏡(中)全訳注』、p288以下)、
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今年、北山の准后九十にみち給へば、御賀の事、大宮院思し急ぐ。世の大事にて、天下かしがましく響きあひたり。かくののしる人は、安元の御賀に青海波舞ひたりし隆房の大納言の孫なめり。鷲尾の大納言隆衡の女ぞかし。大宮院・東二条院の御母なれば、両院の御祖母、太政大臣の北の方にて、天の下みなこのにほひならぬ人はなし。いとやんごとなかりける御宿世なり。昔、御堂殿の北の方鷹司殿と聞えしにも劣り給はず。
大方、この大宮院の御宿世、いとありがたくおはします。すべていにしへより今まで、后・国母多く過ぎ給ひぬれど、かくばかりとり集め、いみじきためしはいまだ聞 き及び侍らず。御位のはじめより選ばれ参り給ひて、争ひきしろふ人もなく、三千の寵愛ひとりにをさめ給ふ。両院うち続き出で物し給へりし、いづれも平らかに、思ひの如く、二代の国母にて、今はすでに御孫の位をさへ見給ふまで、いささかも御心にあはず思しむすぼほるる一ふしもなく、めでたくおはしますさま、来し方もたぐひなく、行末にも稀にやあらん。
古の基経の大臣の御女、延喜の御代の大后宮、朱雀・村上の二代の国母にておはせしも、初め出でき給ひて、ことにかなしうし給ひし前坊におくれ聞え給ひて、御命のうちはたえぬ御嘆き尽きせざりき。九条の大臣師輔の御女、天暦の后にておはせし、冷泉・円融両代の御母なりしかど、めでたき御代をも見奉り給はず、御門にも先立ち給ひて失せ給ひにき。
御堂の御女上東門院、一条・後朱雀の御母にて、御孫後冷泉・後三条まで見奉り給ひしかども、みな先立たせ給ひしかば、さかさまの御嘆きたゆる世なく、御命あまり長くて、なかなか人目を恥づる思ひ深くおはしましき。これもみな一の人にて、世の親となり給へりしだに、やうをかへて、さまざまの御身のうれへはありき。ただ人には大納言公実の御むすめこそ、待賢門院とて、崇徳・後白河の御母にておはせしかど、それも後白河の御世をば御覧ぜず、讃岐の院の御末もおはしまさず。されば今のやうに、ただ人の御身にて三代の国のおもしといつかれ、両院とこしなえへに仰ぎささげ奉らせ給ふは、前の世もいかばかりの功徳おはしまし、この世にも春日大明神をはじめ、よろづの神明仏陀の擁護あつく物し給ふにこそ、有難くぞ推しはかられ給ふ。
http://web.archive.org/web/20150909231957/http://www015.upp.so-net.ne.jp/gofukakusa/genbun-masu10-kitayamajugoto-omiyain.htm
とあるうち、主役であるはずの貞子について述べているのは最初の方、「昔、御堂殿の北の方鷹司殿と聞えしにも劣り給はず。」までで、残りは母親・貞子の九十賀開催を主導した娘の大宮院がいかに素晴らしい女性であるかの賞賛に費やされています。
また、貞子について記載された部分も系図を見れば分る情報だけで、貞子本人の人柄や事蹟には触れていません。
そして、西園寺での三日に亘る儀式・遊興の初日(二月三十日)の最初の方に「西の廂に、これも屏風をそへて、繧繝二帖、錦のしとねに准后ゐ給へり。同じ廂に、東二条院渡らせ給ふ」(p296)という具合に、貞子の居る場所が示された後、貞子に関する記述は全然ありません。
結局、丸一日続いた音楽や舞、そして高僧の説法が全て終わった後、初日の記述の最後に「楽人・舞人も退きぬる後、大宮院・准后の御台参る。陪膳権中納言、役送実時・宗冬・実躬・信輔・俊光など仕うまつる」(楽人・舞人も退出した後、大宮院・准后の御食膳をさし上げる。お給仕は権中納言、役送は実時・宗冬・実躬・信輔・俊光らがお勤め申した)(p302)とあるだけです。
要するに貞子は儀礼の初日に確かに会場にいて食事をしただけ、より正確に言えば食事を提供されたけれどもそれを食べたかどうか分らない、ということになります。
ついで翌三月一日になると、後宇多天皇・春宮(伏見)・後深草院・亀山院に食事が提供され、音楽・舞・和歌の披講・蹴鞠となるのですが、貞子に関する記述は全くありません。
いたのなら前日同様、食事が提供されるはずですから、いなかったと見るのが自然ではないかと思います。
後宇多天皇は一日に帰り、翌三月二日、両院・春宮は妙音堂で音楽を、ついで広大な池に船を浮かべて朗詠などを楽しみます。
そして、「暮れ果つる程に、釣殿へ御船寄せて、降りさせ給ひぬ。春宮こよひ帰らせ給へば、御贈り物に和琴一つ奉らせ給ふ。まことや、准后にも、恵果和尚の三衣、紺地の錦につつみて、銀の筥に入れて参る。いづれも大宮の院の御沙汰なり(日の暮れたころに、釣殿へ御舟を寄せてお降りになる。東宮は今夜御帰還なので、御贈物に和琴を一張奉りなさる。そういえば、准后にも恵果和尚伝来の三種の法衣を、紺地の錦に包んで銀の箱に入れてさし上げる。どれも大宮院の思し召しである)」(p323)ということで、大宮院が春宮に贈り物をしたついでのように准后にも贈り物をしたとの記述がありますが、二日の行事も准后が参加していないのは明らかです。
結局、貞子は三日連続の行事のうちの初日にいただけと考えるのが自然かな、と思います。
※追記
「要するに貞子は……」以下は誤解だったので、4月8日の投稿で訂正しました。
こちらを修正ないし削除すると一連の投稿のつながりが分かりにくくなるので、そのままにしておきます。
「北山准后九十賀記(実冬卿記)」に基づく訂正
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/cd36a67d5a658a5be7505e76110ae31e
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