投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2020年 8月13日(木)10時37分33秒
>筆綾丸さん
>小川宮(1404~25)という狂人
細かいことですが、小川宮については石原比伊呂『北朝の天皇』の書き方が少し気になりました。(p122)
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称光天皇については似たような奇行がいくらでも確認される(詳しく知りたければ、各種通史類を紐解いていただきたい)。ただし、後小松「王家」における個性的な男子は称光だけではなかった。称光には小川宮という弟がいたが、こちらはこちらで悪目立ちする人物だった。
小川宮については、プレゼントされた子羊にいきなり暴行しはじめるという、動物虐待のエピソードが有名であるが、彼にはドメスティックバイオレンスの前科もある。それは応永二七年(一四二〇)正月のこと。折しも正月儀礼真っ盛りのシーズン。この日も「御薬」という儀礼(お屠蘇のようなもの)があって、それが始まろうとするタイミングで、なぜか小川宮は、突如として妹を蹂躙しだしたのである。史料に「蹂躙」と書かれていて、それ以上の詳細はわからないのだが、髪を引っ張り、引きずり回して足蹴にする、といったイメージだろうか。そこに居合わせていた母親の日野西資子以下はただ「啼泣」するだけだったという。ちなみに啼泣とは涙を流して泣くことである。
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「プレゼントされた子羊にいきなり暴行しはじめる」とありますが、実際には撲殺なので、異常さの度合いがずいぶん和らげられていますね。
また、「御薬」は「お屠蘇のようなもの」で間違いではありませんが、それなりに厳重な儀礼です。
供御薬儀(みくすりをくうずるぎ)
「くうずるぎ」
この供御薬儀において小川宮は妹を「蹂躙」した訳ですが、これも石原氏はずいぶん慎重な解釈をされていますね。
比較のために久水俊和氏の『中世天皇葬礼史』を見ると、
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後小松天皇の困った二人の息子
足利将軍家による強力な支援により、後光厳流流儀の牙城を築きあげ、盤石かに見えた後光厳流「天皇家」だが、後小松天皇の病弱な二人の息子から歯車が狂い始める。後小松には、光範門院資子との間に躬仁(のち実仁)王と諱不明の小川宮と呼ばれる二人の息子がいた。
躬仁は、親王宣下を受けた翌年に父後小松の譲位を受け即位し、称光天皇となった。しかし、称光は病弱でありながら暴力的という、名君とはほど遠い人物であった。近臣や女官たちをムチで打ち付けたり、弓矢で射たりとやりたい放題の乱暴者であり、そのうえ被害妄想癖もあり、懐妊した女房の密通を疑ったりもした。【中略】
しかし、残念ながら皇子を儲けることはなく、生来の病弱さから体調を崩し、年を追うごとに悪化していった。
そこで、弟小川宮を皇太弟とすることで、後光厳流「天皇家」の継承策を図った。だが、小川宮も兄に劣らず粗暴であり、後見役の勧修寺経興も困り果てるほどであった。ちなみに、勧修寺邸は小川殿ともよばれており、小川宮の名はこの小川殿にて養育されたことによる。
称光と小川宮の兄弟仲は険悪であり、兄がかわいがっていた羊を頼み込んで譲り受けたはいいが、即座に撲殺するというという【ママ】エピソードがその不仲を物語る。また、酒癖も悪く、正月に泥酔し、妹を犯しにかかり、母資子たちから引っ剥がされるという失態も演じている。さらには、どうやら女官との女性関係のもつれから、またもや泥酔して童か女性に変装し、武器を携え内裏に乱入しようと企て、後見役の経興と父後小松を困らせている。
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ということで(p133以下)、普通は「蹂躙」を久永氏のように解釈しているのではないかと思います。
ま、どっちにしろ、ろくでもない兄弟であることは間違いありません。
ところで、小川宮の死去の状況はかなり怪しいですね。
この点、石原氏は、
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小川宮の精神もやはり不安定だった。そして身体も虚弱だった。妹をしばき倒した日からおおよそ五年後の応永三二年(一四二五)二月十六日、小川宮は夜になって突然苦しみ出した。医師が大慌てで駆けつけたが、そのときはすでに手遅れで、そのまま帰らぬ人となった。わずか二二歳。後小松は二人の息子に何かと苦労させられ、そして先立たれたのである。
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としています。(p122以下)
しかし、「身体も虚弱だった」というのは何か史料的な根拠があるのですかね。
羊のエピソードといい、僅か十七歳で泥酔して妹を「蹂躙」しようとしたことといい、小川宮は身体的には無駄に元気一杯だったような感じがします。
久水氏は、
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ところが、小川宮は立太子を翌月に控えながら、応永三十ニ年(一四二五)二月に二十二歳の若さで急死する。乱暴者ではあったが、兄とは違い病弱ではないことから、さんざん手を焼かされた後見役の経興による毒殺が疑われるほどであった。
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とされていて(p134)、まあ、証拠はありませんが、確かに状況的には極めて怪しいですね。
積極的に殺そうとするかどうかはともかく、小川宮が死んでくれてよかった、と思った人は多かったでしょうね。
>Librétto とは、一体、何語なのか。
>山川出版社は、日本史には強いけれども外国語には弱い、ということかな。
山川の「世界史リブレット」シリーズにも「Librétto」とあるようですね。
一般的にはともかく、教科書の世界では山川の存在は傑出していますから、どのような認識でいるのか、気になりますね。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
羊たちの沈黙(映画) 2020/08/11(火) 13:27:08
小太郎さん
『戦国時代の天皇』を入手しました。
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雅親は、結果として最後の勅撰和歌集になった『新続古今和歌集』が編まれた際、二十代前半で五首の入集を果たしていた。同集に入集した者のなかで最も遅くまで生きたのは雅親であったから、雅親は最後の「勅撰歌人」(勅撰和歌集に詠歌が収められた歌人)だといえる。(10頁~)
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中世史に詳しい人でも、最後の勅撰歌人は誰ですか、と問われて、はい、飛鳥井雅親です、と答えられる人は少ないでしょうね。
小川宮(1404~25)という狂人の注に、「称光の飼養する羊をもらいうけながら即時に撲殺」(16頁)とありますが、どうでもいいようなことながら、称光天皇は羊のミルクを飲んでいた、ということなんですかね。あるいは、羊の鳴き声を楽しんでいた、と。
蛇足
日本史リブレットのカバー表にLibréttoとあって、e の上にアクサン・テギュが付いてますが、イタリア語 libretto はフランス語になってもアクサン記号は付きません(英語は勿論のこと、スペイン語やポルトガル語でも同じです)。つまり、Librétto とは、一体、何語なのか。山川出版社は、日本史には強いけれども外国語には弱い、ということかな。
追記(訂正後)
散らし書き『正親町天皇の年賀状』(58頁)は、解読文と対比させながら、どうにか全文を読むことができました。
ただ、著者は文末(下図の最後)を「かしく」と読んでますが、これは「かしこ」ではないでしょうか。
『後土御門天皇女房奉書』(45頁)において、上図の文末と下図の文末の相違を見れば、そうなるように思われます。著者は上図と下図の文末をともに「かしく」と読んでますが、上図は「かしこ」、下図は「かしく」ではないでしょうか。
なお、散らし書き『後奈良天皇消息』(61頁)は、解読文と対比させても、半分くらいしか読めませんが、文末(下図の最下段)は「かしく」で、『後奈良天皇消息』(65頁)の文末も「かしく」ですね。
追記の追記
上の追記は、たんに私が無知なだけで、この時代の消息・奉書等の文末はすべて「かしく」であって、「かしこ」などありえない、ということでしょうか。
小太郎さん
『戦国時代の天皇』を入手しました。
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雅親は、結果として最後の勅撰和歌集になった『新続古今和歌集』が編まれた際、二十代前半で五首の入集を果たしていた。同集に入集した者のなかで最も遅くまで生きたのは雅親であったから、雅親は最後の「勅撰歌人」(勅撰和歌集に詠歌が収められた歌人)だといえる。(10頁~)
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中世史に詳しい人でも、最後の勅撰歌人は誰ですか、と問われて、はい、飛鳥井雅親です、と答えられる人は少ないでしょうね。
小川宮(1404~25)という狂人の注に、「称光の飼養する羊をもらいうけながら即時に撲殺」(16頁)とありますが、どうでもいいようなことながら、称光天皇は羊のミルクを飲んでいた、ということなんですかね。あるいは、羊の鳴き声を楽しんでいた、と。
蛇足
日本史リブレットのカバー表にLibréttoとあって、e の上にアクサン・テギュが付いてますが、イタリア語 libretto はフランス語になってもアクサン記号は付きません(英語は勿論のこと、スペイン語やポルトガル語でも同じです)。つまり、Librétto とは、一体、何語なのか。山川出版社は、日本史には強いけれども外国語には弱い、ということかな。
追記(訂正後)
散らし書き『正親町天皇の年賀状』(58頁)は、解読文と対比させながら、どうにか全文を読むことができました。
ただ、著者は文末(下図の最後)を「かしく」と読んでますが、これは「かしこ」ではないでしょうか。
『後土御門天皇女房奉書』(45頁)において、上図の文末と下図の文末の相違を見れば、そうなるように思われます。著者は上図と下図の文末をともに「かしく」と読んでますが、上図は「かしこ」、下図は「かしく」ではないでしょうか。
なお、散らし書き『後奈良天皇消息』(61頁)は、解読文と対比させても、半分くらいしか読めませんが、文末(下図の最下段)は「かしく」で、『後奈良天皇消息』(65頁)の文末も「かしく」ですね。
追記の追記
上の追記は、たんに私が無知なだけで、この時代の消息・奉書等の文末はすべて「かしく」であって、「かしこ」などありえない、ということでしょうか。
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