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「このたびは助太郎様御討死、まことにご祝着に存じあげまする」

2018-08-04 | 松沢裕作『生きづらい明治社会』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2018年 8月 4日(土)11時45分51秒

松沢裕作氏の『自由民権運動―〈デモクラシー〉の夢と挫折』(岩波新書、2016)から始まったプチ地方史探究、深井英五との接点もある程度分かったので、そろそろ終わりにしたいと思います。
自由民権運動の研究者には左翼的傾向の強い人が多く、秩父事件や群馬事件に関する文献をまとめて読んでいると、現在の価値観で過去を裁く押しつけがましさに、ちょっと鬱陶しい気持ちになることも多いのですが、そんな中で見つけた『復刻 下仁田戦争記』は一服の清涼剤ですね。
前回投稿で少し紹介した水原徳言の「戦記随想」もなかなか味わい深い文章です。
その冒頭は次のようになっています。(p75以下)

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 元治元年十一月十六日。
 高崎の郊外、片岡村小祝神社にお詣りする母娘づれがいる。祈願を終った二人が鳥居外に待たせておいた駕篭のところに戻ってくると、小坂山から中山峠に続く道を走ってくる早打ちの駕篭が見えた。
 あるいはと思いながら目をこらすと予想した通り、それは昨夜から今暁にかけて下仁田に攻め入った高崎勢の戦況を知らせる使者だった。駕篭でも二人に気がついて近よると、
「直次郎様はご無事、お引きあげ…」
と叫ぶように言いながら駆け去って行った。母娘はほっとしたように顔を見合わせている。

 この二人は、三番手の軍を率いて今朝この道を下仁田に向った深井八之丞景忠の妻ゆい子と娘のたい子である。浪士追討のため高崎藩で編成した軍は三隊で、一番手は会田孫之進周幸、二番手は浅井隼馬貞幹が率いている。
 一番手には景忠の長男、深井助太郎景命が働武者として加わり、二番手には次男の直次郎景員が大砲方に参加、父子三人、それぞれ三隊に分れて下仁田に向った。三番手の出発を見送ると間もなく、既に浪士軍と激戦があり結果は高崎勢の苦戦、多数の討死者を出したという知らせがきていた。
 一家三人を戦場に送った母娘が、じっと家の中にあって次の知らせを待つことに耐えられなくなり、こうして駕篭を仕立てて小祝神社まで行ったのは、少しでも戦場に近いところへという気持ちがあったのだろう。二人の心にかかっていたのは次男の直次郎で、嘉永二年十月の生れ、満で十五になったばかりの少年である。早駕篭の使者もそれを察して知らせてくれた。
 お詣りの甲斐があったと思って母娘は家に戻ったが、直次郎の無事を喜び、兄の助太郎についての不安は持たなかった。助太郎はすでに一家の中心として期待されるたのもしい青年だったからである。しかしその助太郎は乱戦の中で両足を打たれて動けなくなり、胸にも銃弾を受け、敗走する味方に置き去られて切腹した。こうした犠牲者の氏名がわかったのは夜になってからであった。
 追手の升形から勇んで出て行った部隊が、痛ましい敗軍の姿に変って戻ってきたのは翌、十一月十七日、申の下刻、夕方の五時頃である。血のにじむ姿もあり、すでに戸板の上で死骸となっている者もあった。
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まあ、高崎藩も軍備の改革を全く怠っていた訳でもないのですが、財政が厳しいこともあって多分に旧式であったことは否めず、天狗党との戦いでその不備が露呈されてしまった訳ですね。
それにしても、

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 高崎に柩が運ばれてきて、犠牲者の家は悲嘆にくれている。そういう悲しみの家に弔問客が訪れると、門のところで大きな声で、
「ご祝着に存じまする…」
というものだったそうである。それを聞いて家族の者は、涙を拭いて玄関に出る。
「このたびは助太郎様御討死、まことにご祝着に存じあげまする」
 こんな挨拶をしたものだと、これもその頃十一歳だった助太郎の妹たい子の話。
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と聞くと(p85)、さすがに驚きますね。
水原も続けて、

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 武士という身分は戦いに討死するところに本懐があった筈だから「祝着」なのだろうが、二百五十年も平和が続いた後の幕末に、そんな形式が生きていたところが封建制の恐ろしさだと感じる。
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と感想を述べています。
コメント
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