学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

「平価切下げ」と「陛下切下げ」

2016-07-14 | 天皇生前退位
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 7月14日(木)22時12分36秒

筆綾丸さんも言及されている昨日のNHKニュースを発端に、俄かに天皇退位・譲位をめぐる報道合戦が勃発していますが、宮沢俊義の『憲法と天皇─憲法二十年(上)』(東大出版会、1969)に「天皇退位論」という小論が載っていますので、冒頭部分を紹介してみます。(p127以下)

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 一昨年〔一九四六年〕の暮のことであった。
 皇室典範が貴族院に上程されたとき、南原繁東大総長は、質疑演説の中で、天皇退位の必要を説いて、なみいる議員に、にがい顔をさせた。もっとも、単刀直入に「天皇は退位すべきだ」と真正面からいったのではなく、「その御代において、わが国有史以来の大事がひきおこされたことについて、上御祖宗に対し、また下国民に対して、最も強く精神的・道義的責任を感じさせられるのは、陛下であろうと拝察する」といったぐあいの、遠まわしな表現を使ってはいたが、それにもかかわらず、「祖国再建の精神的礎石は、国民の象徴たる天皇の御進退にかけられている」とか、「いま混乱と変革の只中に、歴史的転換の大業を見届け給うことにより、いつの日にか、国民の道義的精神生活の中核として、天皇おんみずからの大義を明らかにし給はんことは、心ある国民のひとしく庶幾うところであろう」とかいう言葉により、そういう意味をはっきりいいあらわした。
 南原総長が、ここで、天皇退位の可能性─というよりは、むしろ、必然性─を強調し、それに備えるために、皇室典範に適当な規定を設けるべきことを主張したのに対し、幣原国務大臣は次のような意味の答弁をした(いま速記録が手元にないので、記憶によってだいたいの意味をしるす)。

「どうしても退位しなくてはならないという事情が生じたら、そのときにはまた皇室典範を改正すればいい。生じうるあらゆる場合のことを、はじめから規定しておく必要はない。たとえば、国家財政非常の場合に、平価切下げを行なう必要が生じうるからといって、はじめから平価切下げのことを規定しておく必要はない。その必要が生じたときに、法律を改正して平価切下げをやればいいのである」。

 つまり、いまから退位のことを規定しておく必要はない。その必要を生じたら、そのときに、国会で法律を改正し、ヘイカ切下げをやればいいじゃないか、というのである。「平価切下げ」が「陛下切下げ」に通じるところに、幣原大臣得意のだじゃれが含まれていたのであろうが、なにぶん相手は、天皇退位の爆弾質疑を政府に投げつけ、「大臣返事は、な、な、なんと!」とりきみかえっていたときだったので、だじゃれを解するだけの精神的余裕はなかったようである。
 南原総長の意見に対して、貴族院では、あまり賛成者はなかった。この際、退位など口にすべきでないという空気がつよかった。いやしくも、東大の総長の地位にある者が、そういうことをいうのは、けしからん、とふんがいした議員もいた。そして、結局、退位の規定は設けないことにきまった。
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原文には<ヘイカ>、「平価切下げ」の<平価>、「陛下切下げ」の<陛下>の三ケ所に傍点が振ってありますが、戦前だったらこれだけで不敬罪に問われかねない際どい冗談ですね。
現在の天皇退位論は、御高齢の今上陛下の健康状態を考えると御公務の負担が大変だから、といった比較的穏やかな事情を前提としての議論ですが、かつての天皇退位論は天皇の戦争責任論と結びついた、極めて厳しい議論だった訳ですね。
宮沢も南原繁を<天皇退位の爆弾質疑を政府に投げつけ、「大臣返事は、な、な、なんと!」とりきみかえっていた>と評するなど、なかなかシニカルです。
宮沢のこの論文はけっこう面白いところが多いので、後でもう少し紹介してみます。

>筆綾丸さん
>氷川神社の神主が後二者の委託を受けて併せ勧請し祭ったのか。

私も神道の儀礼関係は全く門外漢ですが、斎主は複数の神社関係者の中で当該儀式を中心になって執行した人であって、他に地元諏訪神社の神主はもちろん参加しているでしょうし、伊勢神宮からも神主が出張しているのじゃないですかね。
また、その場合、それぞれの神社で分霊(?)の手続きを済ませているのだと思います。

※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。

武蔵の艦内神社 2016/07/13(水) 18:03:09
前後と関係がなくて恐縮ですが、吉村昭『戦艦武蔵ノート』(岩波現代文庫)で、呉の海軍工廠における武蔵の竣工式(昭和17年8月5日)に関して、次のような記述があります(143頁~。なお、「三、(三)軍艦旗掲揚式」、「四、雑件」、「受領書」は省略します。艤装員長は初代艦長有馬馨のことで、また、武蔵は三菱の長崎造船所で造られたので、長崎諏訪神社はいわば産土神の如きものに相当します)
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  第二号艦竣工式実施要領
一、式場   第二号艦
二、開始日時 八月五日〇九〇〇
三、式次第
 (一)祭事
   (イ)祓詞
   (ロ)大麻行事 塩水行事
   (ハ)降神行事(警蹕)
   (ニ)献饌
   (ホ)斎主祝詞奏上
   (ヘ)斎主玉串奉奠
   (ト)監督長玉串奉奠
   (チ)艤装員長玉串奉奠
   (リ)造船所長玉串奉奠
   (ヌ)撤饌
   (ル)昇神行事(警蹕) 一同起立
 (二)授受式
   (イ)造船所長ハ監督長立会ノ上艤装員長ニ引渡書ヲ渡ス
   (ロ)艤装員長ハ造船所長ニ受領書ヲ渡ス
  (略)
 この引渡式には、有馬大佐の発案で、武蔵国の一の宮である埼玉県大宮市の氷川神社から神主が特に招かれ、祭事がすすめられた。むろん神主には、「武蔵」のことについて絶対に他言せぬよう注意した。艦内神社におさめられた御神体は、この氷川神社以外に伊勢神宮、長崎諏訪神社のものがおさめられた。
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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E8%94%B5_(%E6%88%A6%E8%89%A6)
斎主は氷川神社の神主が務めたので、艦内神社に氷川神社の祭神(須佐之男命等)が祭られるのは当然として、長崎諏訪神社の祭神(建御名方神等)と伊勢神宮(おそらく内宮)の祭神(天照大神)は何時祭られたのか。氷川神社の神主が後二者の委託を受けて併せ勧請し祭ったのか。長崎諏訪神社と氷川神社はともかくとして、なぜ伊勢神宮が出てくるのか。何が言いたいかと言うと、祭事における降神・昇神の神(霊)とは、そもそも誰(の霊)なのか、ということなのです。須佐之男命等や建御名方神等は、あらずもがなの附属物にすぎず、主体はあくまでも天照大神だ、ということなのか。一号艦(大和)竣工式の祭事でも、同様に、降神・昇神行事があったはずですが、その時の神(霊)とは誰(の霊)なのか。この場合の神(霊)とは総論的なもので、個別の神(霊)を意味しない、ということなのか。単純な祭事のようでいて、実態はよくわかりません。
昭和19年10月24日、武蔵は何の戦績も残さずにシブヤン海に沈みますが、沈没時、艦内神社の祭神はどうしたのだろう、という疑問が湧いてきます。沈没の瞬間、フッと飛び立って東シナ海上空を天翔け日本本土に舞い降りたのか。あるいは、潔く武蔵と運命を共にして海底の藻屑となり果てたのか。軍艦が沈むとき、軍艦旗や御真影が運び出されるという話はよく聞きますが、艦内神社はどうしたのか、祭神はどうしたのか、という話は残念ながら聞いたことがありません。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%84%E3%81%9A%E3%82%82_(%E8%AD%B7%E8%A1%9B%E8%89%A6)
自衛隊の「いずも」の竣工式(2015年3月25日)において、武蔵の時のような「祭事」は行われたのかどうか。

http://news.livedoor.com/article/detail/11747193/
この番組を暇潰しに見ていたのですが、「神武天皇以来の伝統を持った憲法を作らなければいけない」は驚きました。どんな憲法なのか。

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160713/k10010594271000.html
今上陛下は、「神武天皇以来の伝統を持った憲法」には反対されると思われます。
コメント
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