投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2016年 3月24日(木)10時56分8秒
結局、「網野氏が外交官になったら大成したのでは」は鈴木沙雄氏(元朝日新聞論説委員)のエッセイを読んだ私の感想だったのですが、後にソ連大使になった秀才中の秀才と肩を並べる存在だった訳ですから、やはりまんざら冗談でもないですね。
ま、潜在的な可能性としてはそういう方向があったとしても、
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彼は尋常科四年ごろから歴史に関心を持ち、文科一年の大成寮時代は、ニーチェ、ヘーゲル、ランケ、マイネッケなどをドイツ語や翻訳で読んでいたというが、勤労動員中、一九四五年五月二十五日の空襲で校舎も寮も全焼してしまい、戦後、一高の明寮を仮校舎に授業が再開されると、二年生だった四五年十月ごろから旧友の生松敬三君(中央大教授、倫理、マックス・ウェーバの原典を全部読んだ。84年没)らと歴史研究会を始めました。そこへ復員したばかりの五年先輩の永原慶二さん(一橋大名誉教授、04年7月没)、吉谷泉さん(以上42年3月文乙卒)、潮見俊隆さん(42年9月文乙卒、東大社会科学研究所長、96年没)、一年上の柴田三千雄さん(45年3月文甲卒、東大名誉教授、近世フランス史)がやってきて、世間で注目される前の石母田正、藤間生大、松本新八郎、大塚久雄、丸山真男諸先生の論文が面白いよと勧めました。彼は東洋史をやりたいと思っていましたが、永原さんに「日本史はもっと面白いぞ」と言われて日本史に決め、石母田『中世的世界の形成』が三年生の時に出たことが、中世史を専攻するきっかけとなったということです。
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といった環境の中で網野君は学問に邁進し、同時に共産党にも入って学生運動にも邁進する訳ですね。(p189以下)
さて、後に読売新聞グループの最高権力者となった「ナベツネ」こと渡辺恒雄氏は高等科から東京高校に入った人で、氏家斉一郎氏とともに網野君の共産党での同志ですが、世間的にはあまり評判が良くないこの人の自叙伝は、実際に読むとけっこう面白いですね。
特に渡辺氏が共産党に入った理由、そして離党した経緯は非常に筋が通っていて、自ら信ずる理想・正義を堂々と主張したけれども、それが当時の共産党に受け入れられなかったからやめました、というだけのことで、いわゆる「転向」に多く見られる陰湿さはありません。
知的な能力では網野君と同等だった渡辺恒雄氏や氏家斉一郎氏は、共産党を離れた後、マスコミ・ビジネス・政治の世界でもまれて多種多様な権力者を観察し、自らも権力者の道を歩む訳ですが、その頃、網野君は何をやっていたかというと、俗世間を離れてひたすら古文書の世界に沈潜していた訳ですね。
ま、それがなければ後の広汎な著作活動も社会的活躍もなかったはずですが、反面、そうした浮世離れした生活の結果が相生山の「生駒庵」でもある訳で、失ったものも大きかったように思います。
歴史研究者の多くは古文書への沈潜を誇らしく感じるでしょうが、いつまでも少年の心を忘れない子供のような大人、妖精・ティンカーベルと共に冒険の日々を送る永遠の少年、ピーターパンになる可能性も大きいですね。
結局、「網野氏が外交官になったら大成したのでは」は鈴木沙雄氏(元朝日新聞論説委員)のエッセイを読んだ私の感想だったのですが、後にソ連大使になった秀才中の秀才と肩を並べる存在だった訳ですから、やはりまんざら冗談でもないですね。
ま、潜在的な可能性としてはそういう方向があったとしても、
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彼は尋常科四年ごろから歴史に関心を持ち、文科一年の大成寮時代は、ニーチェ、ヘーゲル、ランケ、マイネッケなどをドイツ語や翻訳で読んでいたというが、勤労動員中、一九四五年五月二十五日の空襲で校舎も寮も全焼してしまい、戦後、一高の明寮を仮校舎に授業が再開されると、二年生だった四五年十月ごろから旧友の生松敬三君(中央大教授、倫理、マックス・ウェーバの原典を全部読んだ。84年没)らと歴史研究会を始めました。そこへ復員したばかりの五年先輩の永原慶二さん(一橋大名誉教授、04年7月没)、吉谷泉さん(以上42年3月文乙卒)、潮見俊隆さん(42年9月文乙卒、東大社会科学研究所長、96年没)、一年上の柴田三千雄さん(45年3月文甲卒、東大名誉教授、近世フランス史)がやってきて、世間で注目される前の石母田正、藤間生大、松本新八郎、大塚久雄、丸山真男諸先生の論文が面白いよと勧めました。彼は東洋史をやりたいと思っていましたが、永原さんに「日本史はもっと面白いぞ」と言われて日本史に決め、石母田『中世的世界の形成』が三年生の時に出たことが、中世史を専攻するきっかけとなったということです。
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といった環境の中で網野君は学問に邁進し、同時に共産党にも入って学生運動にも邁進する訳ですね。(p189以下)
さて、後に読売新聞グループの最高権力者となった「ナベツネ」こと渡辺恒雄氏は高等科から東京高校に入った人で、氏家斉一郎氏とともに網野君の共産党での同志ですが、世間的にはあまり評判が良くないこの人の自叙伝は、実際に読むとけっこう面白いですね。
特に渡辺氏が共産党に入った理由、そして離党した経緯は非常に筋が通っていて、自ら信ずる理想・正義を堂々と主張したけれども、それが当時の共産党に受け入れられなかったからやめました、というだけのことで、いわゆる「転向」に多く見られる陰湿さはありません。
知的な能力では網野君と同等だった渡辺恒雄氏や氏家斉一郎氏は、共産党を離れた後、マスコミ・ビジネス・政治の世界でもまれて多種多様な権力者を観察し、自らも権力者の道を歩む訳ですが、その頃、網野君は何をやっていたかというと、俗世間を離れてひたすら古文書の世界に沈潜していた訳ですね。
ま、それがなければ後の広汎な著作活動も社会的活躍もなかったはずですが、反面、そうした浮世離れした生活の結果が相生山の「生駒庵」でもある訳で、失ったものも大きかったように思います。
歴史研究者の多くは古文書への沈潜を誇らしく感じるでしょうが、いつまでも少年の心を忘れない子供のような大人、妖精・ティンカーベルと共に冒険の日々を送る永遠の少年、ピーターパンになる可能性も大きいですね。
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