学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

ブログと掲示板タイトルのプチ変更のお知らせ

2012-03-07 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月 7日(水)11時34分9秒

3月12日にブログと掲示板のタイトルを「被災地の神社・寺院へ行こう」とし、説教くさい部分は削除・修正しようと思っています。
瓦礫処理の問題は残っていますが、被災地では概ね瓦礫は撤去され、損傷した道路も本格的な復旧工事が着々と進み、交通事情は急速に改善されていますね。
沿岸部の宿泊施設はまだまだ不十分ですが、これもひと頃に比べれば相当増えています。
今まではそれなりに覚悟がないと被災地に行けませんでしたが、岩手・宮城・福島県は観光キャンペーンに力を入れており、そこで紹介されているコースを廻るなら、安全面での不安はもはやないですね。
ボランティアが必要とされている分野は残っていますが、経済的な効果からすれば、普通の人が普通に観光するのが被災地の復興に一番役に立ちます。
普通の人が被災地近辺のホテル・旅館・民宿に泊まり、食事し、お土産を買って帰るのが地元経済復活の特効薬ですね。
私のサイトはあくまでマニアックに神社・寺院にこだわりますが、コツコツ調べた成果を蓄積して、マニアックな人が被災地を旅行するのに役立つサイトにしたいと思っています。

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玉野

2012-03-07 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月 7日(水)10時40分38秒

こちらは飯舘村に隣接する相馬市の玉野地区です。
相馬市立玉野小学校の敷地内には円筒形のリアルタイム放射線測定装置があり、私の訪問時には一時間あたり0.539マイクロシーベルトと表示されていました。
この円筒形の装置は福島県が全県の小中学校に設置しているもののようで、他の市町村でも見かけます。
デジタル表示が見えるように撮影したので、上の屋根のような部分が何だか分からなくなっていますが、これは黒い太陽電池パネルですね。
玉野の状況は鋳物加工工場を営む大橋芳広氏のブログで詳しく知ることができますが、昨年4月30日の記事には

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小佐古内閣参与
東大大学院教授は29日、菅直人首相宛てに辞表を提出した
政府の場当たり対応やで事態収束を遅らせている
又、放射能影響予想ネットワークシステムも運用できる環境に有ったが活用されていなかった
・・水素爆発時に高濃度の放射線が阿武隈山系の飯館村や玉野までも汚染される事は予測できたはず、
今更非難しろとは余りにも対応が遅く馬鹿げている。
小佐古教授は学校の校庭で年間20ミリシーべルトについて
原発作業者でさえ年間20ミリシーベルト浴びるのは極めて低いと
子供が被爆する率は非常に高く20ミリは危険だと話す・・・
これは学校の校庭だけの話で帰宅後に自宅の庭で遊んでいて高濃度の放射線を浴びる事は
想定されていない。
次世代を担う福島県・玉野の、子供達を守らないと・・・。
政府は何かとんでもない事を隠している

http://blog.livedoor.jp/farm_an/archives/2011-04.html
http://blog.livedoor.jp/farm_an/

とあります。
小佐古氏の発言は山村に襲いかかった情報の大津波だったようですね。
神経衰弱気味の会見の後、小佐古氏は自己の行動についてきちんとした説明をしていないのではないかと思いますが、私はずいぶん罪作りな人だなと思っています。

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6269
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筆甫

2012-03-07 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月 7日(水)10時12分11秒

>筆綾丸さん
『中世尼僧 愛の果てに』はタイトルを見ただけで内容が想像できるような気がするのですが、マタタビを見せられたらアマゾンに注文しない訳にはいかないですね。

>筆甫
私も不思議な地名だなあと思っていたのですが、検索したところ、筆甫で農業を営んでいる方の「山のなか農園」というサイト内に、

---------
地名の由来はいろいろあり、大正時代に作られた村歌の一節に、
  『三百余年のその昔、政宗公が名づけたる、
       筆のはじめ(甫)の名も高し、これわが郷の誉れなり』 とあり、
伊達のお殿様が初めて太閤検地を行った場所とされる説もあるが、丸森町史
には「ひつほ」という言葉はそれ以前から使われていたようです。また学説に
よるとアイヌ語が語源ではともいわれていますが定かではありません。

http://www.geocities.jp/yamanouen/hudematuri.htm

という説明がありますね。
後で『丸森町史』や平凡社の『宮城県の地名』などを見てみます。
理想の農園を求めて筆甫地区に移住してきた都会育ちの人も多いようですが、放射能の問題で大変な状況ですね。

ひっぽUIターンネット
http://hippoui.web.fc2.com/

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副霊山

2012-03-05 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月 5日(月)17時15分43秒

3月3日(土)、宮城県伊具郡丸森町の筆甫(ひっぽ)から福島県相馬市玉野を経て飯館村に入り、虎捕の山津見神社に参詣後、臼石から国道399号線を南下して、飯樋・長泥を通り、浪江町の南津島まで行ってみました。
筆甫・玉野は飯舘村に隣接し、放射線量が高いとされている地域ですね。
写真は玉野内の副霊山地区です。

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副霊山開拓記念碑

碑文

 戦後の開拓事業は敗戦日本祖国再建の為国策の一環として緊急開拓が叫ばれ開拓事業に着手、民族生存の基となる食糧増産が開始された。
 伊達郡霊山村の有志である若者達が先遣隊として、昭和二十一年この地に踏み入りその後外地からの引き揚げ者など入植した同志百二十二名の拓友一同は一心同体 相互扶助の精神で生命の限りをつくして山野に開拓のくわを降ろし風雪五十年の厳しい自然条件と戦いながら幾多の変遷を経て高冷地農業の悪条件を乗り越えて新しい村づくりに努力して今日の繁栄をみるに至りました。
 この期にあたり拓友一同の方々と相諮り副霊山開拓事業を記念し、開拓の碑を建立しこの偉業を永く後世につたえるものである。

  平成八年九月二十九日
 副霊山開拓記念碑建設委員会

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6265


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北里大学三陸キャンパス

2012-03-03 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月 3日(土)10時12分33秒

震災後、北里大学海洋生命学部は相模原キャンパスに移り、三陸キャンパスは5年間閉鎖だそうですが、5年後に本当に戻れるのですかね。
三陸鉄道南リアス線の三陸駅がある越喜来漁港周辺から崎浜漁港に向かう県道209号線(崎浜港線)の沿線と三陸キャンパス周辺には小奇麗なアパートが沢山建っていて、おそらく北里大学の学生相手だったのでしょうね。
今は被災者と復興工事関係者が居住しているようです。
写真は上2枚が小壁漁港の続きです。

http://www.kitasato.ac.jp/access/sanriku/index.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6263

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大船渡市越喜来

2012-03-03 | 東北にて
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2012年 3月 3日(土)10時08分16秒

3月1日(木)、天気が良さそうだったので気仙沼市に行ってみたのですが、途中まではポカポカ陽気だったものの、沿岸部は霧が出ていて非常に寒かったですね。
岩手県花巻市に一泊し、2日(金)は釜石市・大船渡市・陸前高田市を廻りましたが、雪になってしまって、結構大変でした。
写真は大船渡市越喜来(おきらい)の小壁漁港です。
北里大学海洋生命学部キャンパスから3キロメートルほど離れたところにある本当に小さな漁港で、集落はもともとなく、漁師さんは近くの崎浜などから通っていたようです。
去年の7月11日に訪問して以来ですが、春の訪れを感じさせる写真が撮りたかったのに、厳冬の風景になってしまいました。

2011年7月11日の様子
http://chingokokka.sblo.jp/article/51167272.html
http://chingokokka.sblo.jp/article/51168435.html

※写真
http://6925.teacup.com/kabura/bbs/6262

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