学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

綱沢村と松尾村

2010-06-20 | 中世・近世史

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月20日(日)03時01分20秒

西会津町の真福寺のことが気になっていたので、再度訪問したところ、先日の疑問はあっさり解決しました。
石段を上がって本堂の左にポツンと普通の墓があり、それが昭和二年造立の長谷川清左衛門の墓でした。
先日もその存在には一応気づいていたのですが、特別な印象を与えるものでもなかったので、しっかり見ていませんでした。
改めて観察すると、その表面には「誠高院殿治徳明賢清大居士」、右側面には「昭和二 丁未 年旧四月八日 営 松尾部落」、左側面には「元和五 己未 年 八月廿一日亡 男 長谷川清左衛門」とありました。
非常に立派な戒名であり、普通だったらよっぽどお布施を出さないと、こんな戒名はつけてもらえないでしょうね。
四月八日、お釈迦様の誕生日にわざわざ造立している点も注意すべきなんでしょうね。
ついで旧綱沢村にも行ってみましたが、こちらは谷川沿いのあまり日当たりが良くなさそうな集落で、鉄火を取った青津次郎右衛門の墓のある興国寺も小さな寺でした。
更に鉄火裁判が行われた野沢本町の諏訪神社にも行きましたが、ここは高い杉の木立の中の落ち着いた良い神社でした。
さて、町内の図書館で清水著『日本神判史』に紹介されていた角田十三男「『新編会津風土記』に見られる西会津に起きた山境争いの鉄火裁判」(『西会津史談』第2号、1999年)を閲覧したところ、

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一、事件の発端
 綱沢村・松尾村(現西会津町)との山野の境は不明確であった。特に綱沢山麓の横沢地区で通称「日影平」は、両村とも自分の村に帰属すると、お互いが長年に渡って利用して来ていた。
 ところが、元和五年(一六一九)一月二三日、綱沢村の村人が「日影平」で木々の伐採をしていたところ、松尾村の村人が来て中止を命じ、無理やり鉈を奪い取った。翌二四日、これを綱沢村に奪い返されたことに端を発し、やがて二月九日松尾村が「大勢の村人が集まって、法螺貝を吹鳴らし、采(さい)を振り回し」ながら山の境界「横沢谷」を踏み越えてきた。これを見た綱沢村は、最初二名の使いを現場に派遣したが帰って来ないので、更に三名を出したところ松尾村は、その使者達をも散々に打擲し、その使者の内、二名は今日・明日にも死亡するかもしれない怪我を負った。
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とあります。
どうも人口が多くて土地も豊かな松尾村の方が、最初、勢を頼んで相当強引なやり方をしたようですね。
綱沢村は会津藩に提訴し、藩では円満な解決を図るため、検使を「日影平」一帯に派遣して調査したものの、裁定を下すことはできず、結局、次のような経過をたどったそうです。

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 このため会津藩は、これが解決策として同年七月に松尾・綱沢両村に対して
①いままで調査したが両村の境目は明らかにならない。この上は、「鉄火之可為勝負」によって理非を決することになり、敗者は「御成敗」を受けることになる。
②然し、双方とも山林に乏しくないのだから、藩としては「山境目令指図候て此通ニ境目相立」と論所の「日影平」を立入禁止区域と決めるからそれに従う方法もある。
という中世的な鉄火裁判と「山境目令指図」とする近世的な調停案の二つを提示した。
 然し、松尾・綱沢両村は、この藩の調停案には納得せず、最終的に「敗者は御成敗」の処分も覚悟の上、神判「鉄火取り」の裁きによって理非を決定する方法を選択したのである。
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立入禁止区域云々の部分、解釈が正しいのか良く分かりませんが、とにかく、負けた側が「御成敗」されることについては、両村の代表者は事前に了解していた訳ですね。
まあ、「御成敗」は納得していたとしても、首・胴・足を斬られて、自分の体で境界線の役目を果たすことまで納得していたかどうかははっきりしませんが。
このあたりの、現代人にとってはかなり残酷な感覚は、まだまだ戦国の気風が残っていた、ということなのでしょうか。
ちなみに角田論文に付記された地図によると、首・胴・足塚は鳥屋山(とやさん)の西方、磐越自動車道の鳥屋山トンネルの北側に点在しています。

鳥屋山
http://www.asahi-net.or.jp/~qy5s-sozk/toya/toya.htm

コメント
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