学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

西会津町の松尾山真福寺

2010-06-14 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2010年 6月14日(月)07時29分46秒

『日本神判史』の「はじめに─残酷すぎる伝説─」に次のような記述があります。

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 一方、負けた側の松尾村の清左衛門は、その後どうなったのだろうか。近江の事例では負けた角兵衛側の伝承は何ら残されていなかったが、この会津の事例は敗者の側の伝承が強烈である。まず『新編会津風土記』によれば、鉄火裁判に負けて、その場でショック死してしまった清左衛門の遺体はバラバラに切り刻まれ、その遺体は新しく決定した両村の境界線上に首・胴・足を三ヶ所に分けて埋められ、以後、その三つの塚が両村の境界の目印にされたという。何とも信じがたいグロテスクな話である。しかし、この話は現在もこの地域の人々のあいだで語り継がれており、現に綱沢山の山腹にはいまも高いところから順に清左衛門の足塚・首塚・胴塚が点在しており、その順番が通常の首→胴→足の順番になっていないのは、鉄火裁判の敗者への懲らしめとしての意味があったという話も地元ではまことしやかに語り伝えられている(斉藤氏は、この理解には懐疑的である)。また、現在、松尾村の真福寺と綱沢山の三つの塚の上には昭和二年(一九二七)の銘文のある長谷川清左衛門の供養碑が建てられている(写真参照)。これは、大正末年に松尾村で村の肝煎がなぜか若死にする例が相次いだおり、ある村人の夢枕に長谷川清左衛門の霊が現れ「こうなったのは、村のために死んだ私を弔わないからだ」と訴えるということがあり、これをきっかけに清左衛門の供養のために造立されたのだという。
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昨日、山形からの帰りにこの記述を思い出して、ちょっと寄ってみようと思い、「真福寺」という寺名の記憶だけを頼りに磐越自動車道の西会津インターを降りて探してみたのですが、私のカーナビには登録されていなくて、探すのにけっこう苦労しました。
そして実際に訪問してみたら、最近無住になったのか、少し荒れていましたね。
墓地など、草茫々でした。
不思議なのは清水著に「長谷川清左衛門の墓(福島県耶麻郡西会津町松尾、真福寺内)」とのキャプションつきで載っていた立派な石造物が見当たらなかったことで、寺の上方の「松尾神社」のあたりまでそれなりに丁寧に歩いてみたのですが、所在場所自体が分かりませんでした。
付近には草に覆われた空き地(休耕田?)がけっこう多かったので、あるいは清水氏訪問時には地元の人が「東京の有名な大学の先生が来るそうなので、草を刈っておこうか」てな感じで綺麗にしたのかな、などと思ってしまいました。


松尾真福寺の寺宝
http://f32.aaa.livedoor.jp/~katumi/hurusatowotazunete/nisiaidumati%203.htm

真福寺には、多くの寺宝とされるものが保存されている、なかでも源頼朝の妻尼将軍(北条政子)の直筆とされる「大般若波羅密多経」や、その制作年を室町時代後期のものと見られる鞍と鐙も保存されている。
それに禅僧良寛の筆になる扁額がある。この扁額は裏山の松尾神社に奉納されたものと思われるもので、「松尾大明神」なる額がそれである。

良寛書「松尾大明神」
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/1290/Temari/temari506.html

名倉山酒造-蔵主紹介
http://www.kuramotokai.com/kikou/15/governor
コメント
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