学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

銭と大仏

2008-10-22 | 中世・近世史
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2008年10月22日(水)23時19分0秒    

6月26日の投稿で筆綾丸さんが朝日新聞の<鎌倉の大仏様「素材は中国銭」 別府大グループが解明>という記事を紹介されました。
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200806210064.html

私は、

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>『経筒が語る中世の世界』(思文閣出版)としてまとめられたこの研究に、黒田明伸東京大教授(中国経済史)は
>「日本で銭の流通が突然始まる理由が分からなかったが、疑問が解けた」と納得する。

『貨幣システムの世界史<非対称性>をよむ』(岩波書店,2003)の黒田明伸氏が太鼓判を押しているのであれば、
相当信頼できると判断してよいのでしょうね。
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という東大教授の権威に寄りかかった駄目レスを返したのですが、昨日、何だかとても気になって『経筒が語る中世の世界』(思文閣出版)所収の飯沼賢司氏の論文、「銭は銅材料になるのか─古代~中世の銅生産・流通・信仰─」を読んでみました。
非常に説得的な内容でしたね。
また、ネットで少し検索してみたら、京都市埋蔵文化財研究所のウェブサイトで、東洋一氏の「渡来銭と真土-鋳造環境からみた七条町・八条院町の立地条件」(『研究紀要』第10号―30周年記念号― 2007.3.31)という極めて興味深い論文を見つけました。

http://www.kyoto-arc.or.jp/
http://www.kyoto-arc.or.jp/10azuma.pdf

ここで言及されていた論文を少し集めたら、いくつか気になる記述がありましたので、少しずつ紹介してみます。
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10 コメント

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銭について (東 洋一)
2009-02-03 20:18:47
コメントありがとうございました。展開を期待しています。なにしろ僕の初めてのコメントですから。
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いらっしゃいませ。 (鈴木小太郎)
2009-02-06 00:50:47
>東洋一さん
お返事が遅れて申し訳ありません。
私は去年、貨幣史・経済史に突然目覚めてしまったのですが、基礎ができてないのに難しい論文を読んでも無理だなと思って、経済学の本当に初歩的なところから勉強をしています。
最近はバブル崩壊以降の日銀の金融政策に関係する本ばかり読んでいて、それなりに面白いのですが、なかなか掲示板には反映できないですね。
それにしても、近現代と異なり、中世は本当に史料が少なくて、研究者の方は大変ですね。
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銭と大仏 ()
2009-02-06 19:36:48
私には「基礎ができていない」とは思えません。偶然に鈴木氏のコメントを聞いて勇気が出てきました。不勉強にもこのブログを開くまで「経筒の世界」や朝日新聞の記事があることを知りませんでした。私のいう「通説」は恐らく「銭」を信用貨幣として捉えており、特に世界初と思われる紙幣が発行された宋時代の中国史、特に戦後の京大系中国経済史の影響を受けていると考えています。金本位制であった戦前・戦中にはない考え方であろうと思います。
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金本位制 (鈴木小太郎)
2009-02-09 00:10:43
>東さん
金解禁の頃の事情も少しあたってみたのですが、別に金解禁の是非をめぐる本格的な論争がなされた訳でもなく、ごく少数の反対派を除き、大多数は金解禁さえすればすべてがうまく行くんだ、みたいなムードに流されてしまったようですね。
19世紀後半のアメリカの金銀複本位制の議論なども実に面白いです。
遠回りにはなりますが、貨幣をきちんと勉強すると、日本史全体を俯瞰できるクールな視点を獲得できそうな感じがします。
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銭と大仏 (東 洋一)
2009-02-10 21:57:33
全く同感です。恐らく読まれていると思いますが鯖田豊之「金が語る20世紀」(中公新書)を読んだとき近代が判ったような気がしました。妄想かもしれませんが私は歴史学は究極のところ未来学でなければならないと思っています。唯物論的な歴史観派の生き残りとして。
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いえいえ。 (鈴木小太郎)
2009-02-11 23:36:35
>東さん
『金(ゴールド)が語る20世紀―金本位制が揺らいでも』ですね。
未読ですので、早速入手してみます。

http://books.yahoo.co.jp/book_detail/AAK37213/
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禅林寺綾戸 (東 洋一)
2009-04-08 22:29:04
お久しぶりです。
 南禅寺綾戸廟付近で1週間前試掘調査し、放生池の一部を検出したのではないかと思いますが、綾戸の意味がわからずインターネットで探したところ、やはり鈴木氏のブログに到達しました。解明の糸口になりそうです。ありがとうございます。偶然ですが「とはずがたり」は私も金閣寺調査で一度は読み、興味を持っています。1年前二条通り南に位置する堀川院を調査したとき堀川院の後が久我家の所有に帰したと角田文衛氏が述べておられるのですが、後深草院二条という名が関係していうのかどうか迷っています。三条とも呼ばれていたことと関係するのでしょうか。
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東山禅林寺綾戸といふわたりに (鈴木小太郎)
2009-04-10 01:45:20
>東さん
お久しぶりです。
巻一、文永九年「神無月廿日頃より、母方の祖母大納言(中略)東山禅林寺綾戸といふわたりに家居して」ですか。
綾戸については今まで一度も考えたことがありませんでした。
何か分かったら教えてください。

二条が三条と呼ばれたとの点は、以前ずいぶん検討しましたが、『増鏡』にしか出てこない話なので、結局は『増鏡』の解釈になってしまいますね。
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綾戸 ()
2009-04-21 22:59:53
『群書類従』収録の『天下南禅寺記』に「綾戸」がキーワードのように出てきます。南禅寺境内は「綾戸小路」が貫通していると思います。この綾戸小路をキーワードにして中世南禅寺の伽藍配置が復元できる可能性があります。「綾戸廟」は大仏殿とほぼ同じ時期に亀山上皇によって勧請されています。唯『天下南禅寺記』の漢文が読めないので苦戦しています。綾に特別な意味があったのでしょうか。
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綾戸大明神 (鈴木小太郎)
2009-05-07 01:03:42
>東さん
レスが大変遅れて申し訳ありません。
新しいサイトのことで色々やっていまして、こちらは自分でもあまり見ていない状態でした。

>中世南禅寺の伽藍配置が復元できる可能性
面白そうですね。
以前、南禅寺に大宮院の陵墓を訪ねたとき、廃仏毀釈時にすっかり削り取られてしまったと聞いて、がっかりした覚えがあります。
往時はどのように位置づけられていたのか、気になります。

「綾戸大明神」で検索すると、2004年の祭礼のことが出てきますが、南禅寺もいろいろ工夫するものですね。

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二〇〇四年に南禅寺開基亀山法皇の七〇〇年御忌を迎えるのを記念して去る十月十五日、同寺で鎮守社「綾戸大明神」の記念大祭が行われました。これは明治の神仏分離以来、初めて神職と僧侶が同席する神仏習合の形で行われた行事。

http://www.kenbun.info/backnumber/04fuyu/tazuneru/index.htm
http://www.geocities.jp/biwako_sosui/kyotorekisi.htm#2)
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