学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

直義の眼で西源院本を読む(その5)-「搦手の大将足利殿は、桂川の西の端に下り居て酒盛しておはしける」

2021-07-18 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 7月18日(日)10時56分12秒

第三節「名越殿討死の事」に入ります。(兵藤裕己校注『太平記(二9』、p43以下)

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 さる程に、「搦手の大将足利殿は、未だ明けざる程に京を立ち給ひぬ」と、披露ありければ、大手の大将名越尾張守、さては早や人に前〔さき〕を懸けられぬと、安からぬ事に思はれて、さしも深き久我縄手の、馬の足も立たぬ泥土〔でいど〕の中へ馬を打ち入れ打ち入れ、われ前にとぞ進まれける。尾張守は、元来気早〔きはや〕なる若武者なれば、今度の合戦、人の耳目を驚かすやうにして、名を揚げんずるものをと、かねてよりあらまされける事なれば、その日の馬、物具〔もののぐ〕、笠符〔かさじるし〕に至るまで、あたりを耀かして出で立たれたり。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/415a9f71066ce2245de4749fd995e5ae

冒頭に「搦手の大将足利殿は、未だ明けざる程に京を立ち給ひぬ」とあるのは重要ですね。
この後、名越高家の行装がいかに立派であったかが延々と語られ、ついで高家が久我縄手でいきなり殺されてしまう展開となりますが、その死の場面だけ確認しておくと、

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 ここに、赤松が一族、佐用左衛門三郎範家とて、強弓〔つよゆみ〕の矢次早〔やつぎばや〕、野戦〔のいくさ〕に心ききて、卓宣公〔たくせんこう〕が秘せし所をわが物に得たる兵あり。わざと物具を脱いで、徒立〔かちだて〕の射手〔いて〕になり、畔〔くろ〕を伝ひ、藪を潜つて、とある畔の影に添ひ伏して、大将に近づいて一矢〔ひとや〕ねらはんとぞ待つたりける。尾張守は、三方の敵を追ひまくつて、鬼丸に付いたる血を笠符にて押し拭〔のご〕ひ、扇子を開き仕〔つか〕うて、思ふ事もなげにてひかへたる処を、範家、近々とねらひ寄つて、よつ引きつめてひやうど射る。その矢、矢坪を違〔たが〕へず、尾張守が甲〔かぶと〕の真向〔まっこう〕のはづれ、眉間のただ中に当たつて、脳〔なずき〕砕き骨を分け、胛〔かいがね〕のはずれへ矢さき白く射出だしたりける間、さしもの猛将たりと云へども、この矢一筋に弱りて、馬より真倒〔まっさかさま〕にどうど落つ。範家、胡箙〔えびら〕を叩いて矢叫びをし、「寄手の大将名越尾張守をば、範家がただ一矢〔ひとや〕に射落としたる。続けや人々」と呼ばはりければ、引き色に見えつる官軍、これに機を直し、三方より勝時〔かつどき〕を作つて攻〔つ〕め合はす。
 尾張守の郎従七千余騎、しどろになつて引きけるが、或いは大将を討たせていづくへ帰るべきとて、引つ返して討死する者もあり、或いは深田〔ふけだ〕に馬を乗り込うで、叶はずして自害する者もあり。されば、狐川より鳥羽の今在家〔いまざいけ〕の辺まで、その道五十余町が間には、死人の臥さぬ尺地〔せきち〕もなし。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/e87381cb1d9254070905e3a1d3e5fe82

ということで(p43以下)、四月二十七日に京を出発した名越高家は、その日のうちに久我縄手で「赤松が一族、佐用左衛門三郎範家」に射落とされて死んでしまいます。
では、当日の未明に出発したはずの尊氏の動向はどうか。
第四節「足利殿大江山を打ち越ゆる事」の冒頭に、次のようにあります。(p47)

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 大手の合戦は、今朝〔こんちょう〕辰刻より始まつて、馬煙〔うまけぶり〕東西に靡き、時の声天地を響かしけれども、搦手〔からめて〕の大将足利殿は、桂川の西の端〔はた〕に下〔お〕り居て酒盛〔さかもり〕しておはしける。かくて数刻〔すこく〕を経て後、「大手の合戦に寄手打ち負けて、大将すでに討たれ給ひぬ」と告げたりければ、足利殿、「さらば、いざや山を越えん」とて、おのおの馬に打ち載つて、山崎の方をば遥かの他所〔よそ〕に見捨てて、丹波路〔たんばじ〕を西へ、篠村〔しのむら〕へとぞ馬を早められける。
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ということで、尊氏は「大手の合戦」をよそに「桂川の西の端」でのんびり酒盛りをしていて、「数刻」後に名越高家の討死を聞きます。
しかし、尊氏は大手の救援に行くどころか、それでは山越えするか、ということで「山崎の方をば遥かの他所に見捨てて」、大江山を越えて丹波の篠村に行ってしまったのだそうです。
果たしてこれは事実なのか。
この点、『梅松論』では名越高家は単にその討死の事実があっさりと記されるだけで、佐用範家の活躍はおろか、その名前すら登場しません。
また、尊氏の動向についても、『梅松論』では四月二十七日に京を出発したことと篠村に到着したことが淡々と記されるのみです。

『梅松論』に描かれた尊氏の動向(その2)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7

両者を比較してみると、『太平記』に記された四月二十七日の尊氏の行動は極めて不自然ですね。
わざわざ未明に出発したにもかかわらず、目と鼻の先の「桂川の西の端」で朝っぱらから酒盛りを「数刻」続け、まるで名越高家の討死を予知していたかのようにその死を知っても何ら動ずることなく、そして大手の救援に向かうどころか丹波・篠村に行ってしまうなどということは史実としては考えられず、ここは明らかに『太平記』作者の創作です。
尊氏の軍勢催促状は四月二十七日から発せられているので、これも酒盛りや篠村への行軍中に書かれたはずがなく、こうした客観的史料も尊氏が当日、大手の動向とは無関係に迅速に篠村に移動したことを示しています。
既に明確な叛意を固めていた尊氏としては、なるべく早く篠村に入って防備を固め、同時に各地の武士に軍勢催促状を発したはずで、名越高家の討死を知ったのも篠村に入ってからと考えるのが自然です。
酒盛り云々以降の『太平記』の記述は尊氏・直義に対する侮辱であり、「原太平記」にはこのような場面は存在しなかっただろうと私は考えます。
また、佐用範家の大活躍の場面も果たして「原太平記」に存在したのかが問題になりますが、私は懐疑的です。
佐用範家の大活躍と名越高家の討死の後、尊氏が大江山を越えて篠村に入ったと書くと、仮に酒盛り云々がないとしても、まるで尊氏が日和見を決め込んでいて、名越高家討死により事態が急速に流動化したことを確認した後、やっと後醍醐方に転じたような印象を与えることになります。
そのような叙述は直義が許さないであろうことは明らかであり、それは少なくとも恵鎮上人には予め予想できたでしょうから、直義に提示された「原太平記」には存在しなかったであろうと私は推測します。
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