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直義の眼で西源院本を読む(その4)-「足利殿は、京着の翌日より、伯耆船上へひそかに使ひを進せられて」

2021-07-18 | 山家浩樹氏『足利尊氏と足利直義』
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2021年 7月18日(日)09時32分0秒

どうせ裏切るつもりの北条高時に提出する起請文など適当に書けばよいとしても、第十四巻「箱根軍の事」で、後醍醐との対決を避けるために出家するとゴネる尊氏を翻意させるため、たとえ出家しても勅勘は免れないのだ、との偽綸旨を十数通偽造する場面は若干微妙な感じがします。
果たして当該記述が「原太平記」にあったのか、それとも直義が死んだ後に初めて付加されたのか。
ま、これは後で検討したいと思います。

『難太平記』の足利尊氏「降参」考(その3)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1288bebe2cfd662d9be837f75a8a5bb1

ところで第九巻第一節「足利殿上洛の事」の末尾には、

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 足利殿御兄弟、吉良、上杉、二木、細川、今川、荒川以下の御一族三十二人、高家の一類四十三人、都合その勢三千余騎、三月七日、鎌倉を立つて、大手の大将名越尾張守高家に三日先立つて、四月十六日には、京都にこそ着き給ひにけれ。
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とありますが(兵藤裕己校注『太平記(二)』、p40)、「史官」的立場からは、ここで上杉が「御一族」に入っていること、そして「御一族」が三十二人、「高家の一類」が四十三人で高氏の方の人数が多いことが目を引きます。
修正の要否という問題は別として、この種の親族関係の記述は直義にとっても気になるポイントの一つではあったでしょうね。
さて、第二節「久我縄手合戦の事」に入ると、いろいろ問題があります。

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 両六波羅は、度々の合戦に打ち勝つて、西国の敵なかなか恐るるに足らずと欺〔あざむ〕きながら、宗徒〔むねと〕の勇士と憑〔たの〕まれたりける結城九郎左衛門尉、敵となつて山崎の勢に馳せ加はり、またその外〔ほか〕国々の勢ども、五騎、十騎、或いは転漕〔てんそう〕に疲れて国々に帰り、或いは時の運を謀つて敵に属しける間、宮方は、負くれども勢いよいよ重なり、武家は、勝つと雖も兵日々に減ぜり。かくてはいかがあるべきと、世を危ぶむ人多かりける処に、足利、名越の両勢、また雲霞の如くに上洛したりければ、いつしか人の心替はつて、今は何事かあるべきと、色を直して勇み合へり。
 かかる処に、足利殿は、京着の翌日より、伯耆船上〔ふなのうえ〕へひそかに使ひを進〔まいら〕せられて、御方に参ずるべき由を申されたりければ、君、ことに叡感あつて、諸国の官軍を相催し、朝敵を追罰すべき由、綸旨をぞ成し下されける。
 両六波羅も名越尾張守も、足利殿にかかる企てありとは思ひも寄るべき事ならねば、日々に参会して、八幡、山崎を攻めらるべき由、内談評定一々に、心底を残さず尽くされけるこそはかなけれ。「太行〔たいこう〕の路〔みち〕能〔よ〕く車を摧〔くだ〕く。若し人心に比すれば、これ平路なり。巫峡〔ぶこう〕の水能く船を覆す、若し人心に比すれば、これ安き流れなり。人の心の好悪太〔はなは〕だ常ならず」と云ひながら、足利殿は、代々、相州の恩を戴き、徳を荷〔にな〕うて、一家の繁昌、恐らくは天下に人肩を双ぶべき者ぞなき。その上、赤橋前相模守の縁になつて、公達あまた出で来させ給へば、この人よりも二心〔ふたごころ〕はおはせじと、相模入道ひたすらに憑〔たの〕まれけるも理〔ことわ〕りなり。
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まず、「史官」的立場からは『太平記』と『梅松論』の違いが気になります。
『太平記』では「三月七日、鎌倉を立つて、大手の大将名越尾張守高家に三日先立つて、四月十六日には、京都にこそ着き給ひにけれ」という具合いに尊氏の移動の日付が明記されていますが、『梅松論』では出発日は明記されず、入京も「四月下旬」と曖昧です。
そして、尊氏が後醍醐側と連絡を取ろうとしたのは、『太平記』では「京着の翌日」、即ち四月十七日ですが、これでは二十七日に叛旗を翻すまで僅か十日であり、船上山との使者の往復は不可能ではないにしても、あまりに余裕がありません。
この点、『梅松論』では、

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細川阿波守和氏。上杉伊豆守重能。兼日潜に綸旨を賜て。今御上洛の時。近江国鏡駅にをいて披露申され。既に勅命を蒙らしめ給ふ上は。時節相応天命の授所なり。早々思召立つべきよし再三諫申されける間、

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/bca455df44a9716d2cc79c7c887e95d7

とあり、何時から連絡を取ろうとしたのかははっきりしませんが、細川和氏・上杉重能が後醍醐の綸旨を尊氏に見せたのが近江の鏡宿ですから、『太平記』よりは相当前ということになります。
両者を比較すると、『梅松論』の方が具体的で、その内容も自然ですね。
ただ、『太平記』の記述はおそらく不正確ではあるものの、直義にとってわざわざ修正しなければならないほどの話ではないですね。
ということで、直義にとって遥かに重要な二十七日の記述に移ります。(p42以下)

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 四月二十七日には、八幡、山崎の合戦とかねてより定められければ、名越尾張守、大手の大将として七千六百余騎、鳥羽の作道〔つくりみち〕より向かはる。足利治部大輔高氏朝臣は、搦手〔からめて〕の大将として五千余騎、西岡よりぞ向はれける。
 八幡、山崎の官軍、これを聞いて、「難所に出で合ひて、不意に戦ひを決せよ」とて、千種頭中将忠顕卿は五百余騎にて、大渡の橋を打ち渡り、赤井河原にひかへらる。結城九郎左衛門尉親光は三百余騎にて、狐川の辺に相向かふ。赤松入道円心は三千余騎にて、淀の古川、久我縄手〔こがなわて〕の南北に三ヶ所に陣を張る。これ皆、強敵〔ごうてき〕を拉〔とりひし〕ぐ気、天を廻らし地を傾くと云ふとも、機をとぎ勢ひを呑める今上りの東国勢一万余騎に対して、戦ふべしとは見えざりけり。
 足利殿は、かねてより内通の子細ありけれども、もしたばかりもやし給ふらんと、坊門少将雅忠朝臣、寺戸、西岡の野伏ども五、六百人駆り催して、岩蔵の辺へ向かはる。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/415a9f71066ce2245de4749fd995e5ae

「官軍」側も上洛したばかりで気勢の盛んな東国勢に正面からぶつかろうとはせず、様子を見ている訳ですね。
これで第二節が終わって、第三節「名越殿討死の事」に入ります。
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