投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2015年 8月31日(月)08時05分47秒
清宮といっても清宮四郎個人ではなく、話題の清宮幸太郎選手でもなく、神社についての問題です。
『埼玉苗字辞典』(茂木和平著・発行、平成18)という全4巻、各約2千ページ、合計約8千ページの本で「清宮」を見ると、次の記載があります。(2799ページ以下)
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清宮 キヨミヤ 須佐之男命を祭る須加神社を清宮と称す。セイミヤ参照。
一 足立郡浦和町 明治三十五年青物商清宮鎌蔵。昭和三年興信録に浦和町・清宮堤助・所得税十三円・営業税三十九円、清宮せき・所得税十一円あり。
ニ 同郡大谷場村(浦和市) 当村に此氏多く存す。当村寛文八年庚申塔に大谷場村清宮利右衛門。新曽村妙顕寺寛政二年碑に矢場村清宮長兵衛。宝性寺弘化二年扁額に当所清宮金次郎。本太村山神社明治三十年碑に大谷場清宮佐七。御嶽山明治三十四年碑に大谷場清宮伝左衛門あり。
三 同郡本太村(浦和市)【中略】
四 同郡辻村(浦和市)【中略】
五 同郡指扇村(大宮市)【後略】
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清宮四郎は北足立郡谷田村出身なので、二番目の大谷場村に多く存在するという清宮一族の人みたいですね。
地図を見ると、大谷場村は今のさいたま市南区大谷場地区で、浦和競馬場の近辺です。
大谷場地区には須加(須賀?)神社という名前の神社は現存していないようですが、古くからの鎮守とされている大谷場氷川神社の主祭神も素盞嗚尊だそうなので、清宮=大谷場氷川神社なのですかね。
それとも、これとは別に清宮一族の小さな(?)神社が存在するのでしょうか。
大谷場氷川神社(「猫の足あと」サイト内)
『埼玉苗字辞典』全四巻を前にすると、その圧倒的な情報量に驚きますが、著者の茂木和平(もてぎ・わへい)氏は「中学生の時苗字の由来に興味を持って以来、40年以上かけて一人で2千以上の集落を回って調べ、52歳で会社を退社。2004年に調査を終え、自費出版で4巻各2千頁ほどの辞典を100セット作った」という方だそうですね。
「レファレンス協同データベース」
質問:『埼玉苗字辞典 1-4』の著者、茂木和平氏の略歴を知りたい。
>筆綾丸さん
結論として「7月クーデター説」は誤りだろうと思っているのですが、問題はその論理ですね。
石川氏はショムロー理論と清宮四郎の「違法の後法」論文を自説の根拠としていて、ショムローの方は国際関係に適用するのはあまりに強引としても、理論自体はそれなりに説得的と感じます。
問題は清宮四郎で、確かに「違法の後法」には石川氏の「7月クーデター説」に通じる論理があるのですが、ただ、これは大日本帝国憲法という強烈な制約の下での議論なので、直ちに誤りとは言いにくい面があります。
そのあたり、後でもう少し議論するつもりです。
>『中世パリの装飾写本』
これはちょうど入手したばかりで、図版は全て見たのですが、本文は未読です。
※筆綾丸さんの下記投稿へのレスです。
考古学的な骨揚げ 2015/08/30(日) 16:18:06
小太郎さん
https://1000ya.isis.ne.jp/0545.html
(蛇足:千夜千冊にある L'Archeologie du Savoir の正しい綴りは L'Archéologie du savoir)
「窮極の旅」の「一 知のアルケオロジー」はフーコーの『知の考古学』を踏まえているようですが、カント哲学のアルケーとフーコーのアルケーは違うから、両者の相違は石川氏の中でどのように処理されているのだろう、というような疑問も湧いてきます。
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この<第三の視点>を、ウィーン法学派の文法では、「始原規範(Ursprungsnorm)」あるいは「根本規範(Grundnorm)」と呼んでいたことになる。ギリシア語のアルケーに由来する始原(根本)は、特にカント哲学の基本概念として、極めて重要である。
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考古学的にいえば、「規範論理の骸骨」は「規範論理の遺骨」としたほうがよいのかもしれませんね。
制限選挙から普通選挙へと法の本質的な部分が改正されれば、別表の如き枝葉末節の変更など必然の然らしめるところであり、それを称して、「法の破砕(Rechtsbruch)」とか「既存の法体系の外から侵入した革命的な法」とか騒ぐのは、針小棒大というか夜郎自大というか、あまりに大袈裟であって、「一九二五年法の、ひいては大正デモクラシーの、法的「革命」性」は、枝葉末節など考察しなくても法本体を見れば一目瞭然ではないか。鬼の首を取ったと喚くガキのような感じがしませんか。そもそも鬼など存在しないんだよ、という美濃部達吉や宮沢俊義の態度がコモンセンスというものです。
『自由と特権の距離―カール・シュミット「制度体保障」論・再考』の結論には拍子抜けとともに失望しましたが、「窮極の旅」もそんな予感がしてきました。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784875024651
本日の日経書評に『中世パリの装飾写本』がありますが、小太郎さん好みの本ではないですか。
小太郎さん
https://1000ya.isis.ne.jp/0545.html
(蛇足:千夜千冊にある L'Archeologie du Savoir の正しい綴りは L'Archéologie du savoir)
「窮極の旅」の「一 知のアルケオロジー」はフーコーの『知の考古学』を踏まえているようですが、カント哲学のアルケーとフーコーのアルケーは違うから、両者の相違は石川氏の中でどのように処理されているのだろう、というような疑問も湧いてきます。
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この<第三の視点>を、ウィーン法学派の文法では、「始原規範(Ursprungsnorm)」あるいは「根本規範(Grundnorm)」と呼んでいたことになる。ギリシア語のアルケーに由来する始原(根本)は、特にカント哲学の基本概念として、極めて重要である。
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考古学的にいえば、「規範論理の骸骨」は「規範論理の遺骨」としたほうがよいのかもしれませんね。
制限選挙から普通選挙へと法の本質的な部分が改正されれば、別表の如き枝葉末節の変更など必然の然らしめるところであり、それを称して、「法の破砕(Rechtsbruch)」とか「既存の法体系の外から侵入した革命的な法」とか騒ぐのは、針小棒大というか夜郎自大というか、あまりに大袈裟であって、「一九二五年法の、ひいては大正デモクラシーの、法的「革命」性」は、枝葉末節など考察しなくても法本体を見れば一目瞭然ではないか。鬼の首を取ったと喚くガキのような感じがしませんか。そもそも鬼など存在しないんだよ、という美濃部達吉や宮沢俊義の態度がコモンセンスというものです。
『自由と特権の距離―カール・シュミット「制度体保障」論・再考』の結論には拍子抜けとともに失望しましたが、「窮極の旅」もそんな予感がしてきました。
https://www.kinokuniya.co.jp/f/dsg-01-9784875024651
本日の日経書評に『中世パリの装飾写本』がありますが、小太郎さん好みの本ではないですか。
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