学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

佐藤雄基氏「日本中世前期における起請文の機能論的研究─神仏と理非─」(その1)

2022-11-08 | 唯善と後深草院二条

私も付け焼刃で起請文の研究史を追っているだけですが、「従来のマルクス主義歴史学(唯物史観)へのアンチ・テーゼとして生まれた」「社会史ブーム」の一環としての神秘的・呪術的な起請文研究に対して、最初に異議申し立てをしたのは清水克行氏のようですね。
清水氏の『日本神判史─盟神探湯・湯起請・鉄火起請─』(中公新書、2010)には、

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 しかし、いまから見れば、この時期の"社会史"研究によって生み出された神判研究のいくつかについては、個人的に疑問を感じる部分も少なくない。たとえば、そのうち私が最も違和感を感じるのは、中世人の呪術観念や信仰心に対する評価である。八〇年代に現れた多くの"社会史"研究は、中世社会の非近代的な側面を強調しようとしすぎるあまり、中世の人々の呪術観念や信仰心を実態以上に強調してきたきらいがある。それは直接には中世の神判の評価についてもいえるだろう。もちろん、中世に生きる人々の行う神判を「狂信的」であるとか「非合理的」であるといったレッテルを貼って、近代的な価値観から軽蔑したり断罪したりすることは、論外である。ただ、それと同様に現代社会との相違点にばかり注目して、その特異な側面や非近代的な側面のみを強調し、中世人が呪術や宗教一辺倒であったかのように描いてしまうのには、あまり賛同できない。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/9e49cd0e035f1fffeee34949acbd6595

といった指摘があります。
同書の「はじめに─残酷すぎる伝説─」には、戦国時代の荒々しい気風の名残なのか、

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 一方、負けた側の松尾村の清左衛門は、その後どうなったのだろうか。近江の事例では負けた角兵衛側の伝承は何ら残されていなかったが、この会津の事例は敗者の側の伝承が強烈である。まず『新編会津風土記』によれば、鉄火裁判に負けて、その場でショック死してしまった清左衛門の遺体はバラバラに切り刻まれ、その遺体は新しく決定した両村の境界線上に首・胴・足を三ヶ所に分けて埋められ、以後、その三つの塚が両村の境界の目印にされたという。何とも信じがたいグロテスクな話である。

https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/8983982d39d1a953d6030bb44c806cb3

などという強烈な話も出て来て、全体的に爽やかな本とは言い難く、纏めの部分にも若干の違和感を覚えたのですが、今読めばまた違った感想になるのかもしれません。

「イデオロギーなき人々」への違和感
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/f80e64a040eb75093f5d59d6c13cd0ca

ついで、起請文の「機能論的研究」を公にしたのは佐藤雄基氏で、佐藤氏の「日本中世前期における起請文の機能論的研究─神仏と理非─」(『史学雑誌』120編11号、2011)は、

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はじめに
第一章 鎌倉幕府訴訟制度における起請文の機能
 第一節 参籠起請とその機能
 第二節 相論における訴訟当事者の起請
 第三節 証人の起請
第二章 院政期訴訟における起請文の利用
 第一節 参籠起請の成立
 第二節 証人の起請文と在地・本所
第三章 起請文と公家法・武家法
 第一節 律令と起請
 第二節 公家法への起請文の浸透
おわりに
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と構成されていますが、第一章第一節の冒頭を少し引用してみます。(p3)

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 鎌倉幕府訴訟制度における起請文利用のあり方は、主に参籠起請と証人の二つに分けられる。参籠起請とは、(自己の無実などの)誓いを立てた後に一定期間社殿などに参籠して、誓いが偽りであるときに発生する「失」と呼ばれる現象の有無によって、誓いの真偽を判定する方式である。
 一二三〇年代半ばには幕府は参籠起請の手続きの整備を進めていた。文暦二(一二三五)年閏六月二十八日の定書は、「失」の判定について評定所内部で取り定めたものである。すなわち期間中の本人の病気、家族・親戚の死など、九箇条にわたって「失」の内容を定義した上で、まず起請文を書いてから七日間「失」がなければ、社頭に参籠して、もう七日間「失」がないようであれば、「惣道之理」に基づいて「御成敗」(裁許)を加えるとしている。
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段落の途中ですが、いったんここで切ります。
この部分だけ見ると、参籠起請などという制度はずいぶん不合理で、「未開」そのもののようにも感じられます。
しかし、幕府での実際の運用は、些か異なる印象を与えるものだったようです。

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