投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月31日(火)17時47分4秒
続きです。(p101以下)
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あるいは、そのような才能の持主が帝〔みかど〕自身であったとしてもよい。そうであったなら、それこそは日本にとって真に天の祝福というべきであろう。そうであったら、神道の大法螺〔ぼら〕も、その他諸々のでっちあげ的工夫も不要になるだろう。そうであったら、そうした工夫をしなくても、侯たちは、ちょうど騒ぎまわっていた子供たちが厳しい教師の前でおとなしくなるように、たちまち素直に静かになることだろう。だが、干乾〔ひから〕びてしまったミイラが再び蘇ることがあるだろうか? 枯れた木が実を結ぶことができるだろうか? 新鮮な血、新鮮な力を注入されて新たに活力を得るということがないまま二十五世紀間も続いた王朝、その王朝が過去一千年間に生み出した者はといえば、半ば白痴か、あるいは箸にも棒にもかからぬ人物ばかりであった。そして現在、その十五歳の代表者を実際に見た外国人たちの証言するところによれば、彼においてもこの古い王朝はいささかも自らの伝統に背いていないのである。
修道司祭 ニコライ
在日本ロシア領事館付
主任司祭
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ということで、これで1869年9月にロシアの雑誌『ロシア報知』に発表されたニコライの長い論文は終りです。
1861年に来日したニコライは、以後ずっと函館で過しますが、1869年の初め、将来のキリスト教解禁を睨んで「日本宣教団」を組織するため、横浜からアメリカ経由でロシアに一時帰国します。
そして二年後の1871年2月に函館に戻って来ており、函館戦争の決着(1869年5月18日、五稜郭開城、榎本武揚降伏)はロシアで聞いたことになります。
この時点でのニコライは、まだ函館以外の土地は殆ど知らず、その人脈は旧幕府側に偏っているので、新政府側(「南方勢」)への見方は極めて厳しいですね。
新政府側が押し立てた天皇が優れた指導者としての資質と才能に恵まれた存在ならば、「それこそは日本にとって真に天の祝福というべきで」あり、「そうであったら、神道の大法螺も、その他諸々のでっちあげ的工夫も不要になるだろう」が、実際にはそれほど素晴らしい存在ではないので、「神道の大法螺」「その他諸々のでっちあげ的工夫」が必要なのだ、とニコライは論じます。
天皇という制度はもはや「干乾びてしまったミイラ」であり、「枯れた木」であって、実際には二度と蘇ることはなく、実を結ぶこともないのだ、遥か昔の神武天皇以来、「新鮮な血、新鮮な力を注入されて新たに活力を得るということがないまま二十五世紀間も続いた王朝」が「過去一千年間に生み出した者はといえば、半ば白痴か、あるいは箸にも棒にもかからぬ人物ばかり」であり、「そして現在、その十五歳の代表者を実際に見た外国人たちの証言するところによれば、彼においてもこの古い王朝はいささかも自らの伝統に背いていない」、即ち若き今上天皇も「半ば白痴か、あるいは箸にも棒にもかからぬ人物」なのだ、というのがニコライの冷酷な診断ですね。
ただ、これはあくまで1869年時点のニコライの見解であって、その後、ニコライの天皇に対する評価は、少なくも公的な場所で表明されたものについては相当に変化して行きます。
基本的にロシア正教は統治体制に対して極めて従順なので、日本の体制が安定化するに従い、ニコライの天皇制、そして明治天皇個人に対する姿勢も好意的なものに転じます。
なお、「十五歳の代表者」とありますが、明治天皇は1852年生まれなので、1869年時点では正確には17歳程度ですね。
明治天皇(1852-1912)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87
続きです。(p101以下)
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あるいは、そのような才能の持主が帝〔みかど〕自身であったとしてもよい。そうであったなら、それこそは日本にとって真に天の祝福というべきであろう。そうであったら、神道の大法螺〔ぼら〕も、その他諸々のでっちあげ的工夫も不要になるだろう。そうであったら、そうした工夫をしなくても、侯たちは、ちょうど騒ぎまわっていた子供たちが厳しい教師の前でおとなしくなるように、たちまち素直に静かになることだろう。だが、干乾〔ひから〕びてしまったミイラが再び蘇ることがあるだろうか? 枯れた木が実を結ぶことができるだろうか? 新鮮な血、新鮮な力を注入されて新たに活力を得るということがないまま二十五世紀間も続いた王朝、その王朝が過去一千年間に生み出した者はといえば、半ば白痴か、あるいは箸にも棒にもかからぬ人物ばかりであった。そして現在、その十五歳の代表者を実際に見た外国人たちの証言するところによれば、彼においてもこの古い王朝はいささかも自らの伝統に背いていないのである。
修道司祭 ニコライ
在日本ロシア領事館付
主任司祭
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ということで、これで1869年9月にロシアの雑誌『ロシア報知』に発表されたニコライの長い論文は終りです。
1861年に来日したニコライは、以後ずっと函館で過しますが、1869年の初め、将来のキリスト教解禁を睨んで「日本宣教団」を組織するため、横浜からアメリカ経由でロシアに一時帰国します。
そして二年後の1871年2月に函館に戻って来ており、函館戦争の決着(1869年5月18日、五稜郭開城、榎本武揚降伏)はロシアで聞いたことになります。
この時点でのニコライは、まだ函館以外の土地は殆ど知らず、その人脈は旧幕府側に偏っているので、新政府側(「南方勢」)への見方は極めて厳しいですね。
新政府側が押し立てた天皇が優れた指導者としての資質と才能に恵まれた存在ならば、「それこそは日本にとって真に天の祝福というべきで」あり、「そうであったら、神道の大法螺も、その他諸々のでっちあげ的工夫も不要になるだろう」が、実際にはそれほど素晴らしい存在ではないので、「神道の大法螺」「その他諸々のでっちあげ的工夫」が必要なのだ、とニコライは論じます。
天皇という制度はもはや「干乾びてしまったミイラ」であり、「枯れた木」であって、実際には二度と蘇ることはなく、実を結ぶこともないのだ、遥か昔の神武天皇以来、「新鮮な血、新鮮な力を注入されて新たに活力を得るということがないまま二十五世紀間も続いた王朝」が「過去一千年間に生み出した者はといえば、半ば白痴か、あるいは箸にも棒にもかからぬ人物ばかり」であり、「そして現在、その十五歳の代表者を実際に見た外国人たちの証言するところによれば、彼においてもこの古い王朝はいささかも自らの伝統に背いていない」、即ち若き今上天皇も「半ば白痴か、あるいは箸にも棒にもかからぬ人物」なのだ、というのがニコライの冷酷な診断ですね。
ただ、これはあくまで1869年時点のニコライの見解であって、その後、ニコライの天皇に対する評価は、少なくも公的な場所で表明されたものについては相当に変化して行きます。
基本的にロシア正教は統治体制に対して極めて従順なので、日本の体制が安定化するに従い、ニコライの天皇制、そして明治天皇個人に対する姿勢も好意的なものに転じます。
なお、「十五歳の代表者」とありますが、明治天皇は1852年生まれなので、1869年時点では正確には17歳程度ですね。
明治天皇(1852-1912)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87