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渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その6)

2019-12-03 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月 3日(火)10時56分20秒

「このランケの直弟子に、『流竄の神々』を書いた同国人ハイネのような民衆信仰への感受性を期待するのはもともと酷なのだろう」との一文は、渡辺京二のハイネ理解が柳田国男以来の古い誤解の末端に位置するのではないか、という懸念を生じさせるものでした。
そして、この文章の直ぐ後に登場するアリス・ベーコンの引用は、渡辺の基礎的な英語読解力について、かなり深刻な疑問を生じさせます。(p452以下)

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 結局、日本庶民の信仰の深部にもっとも接近したのは、アリス・ベーコンであったようだ。彼女は二度目の訪日(明治三十三年から二年間)の際、とある山間の湯治場に二、三週間滞在したことがあった。そこで彼女は村はずれで小さな茶屋をいとなむ老夫婦と仲よしになった。夫の方は木の根で天狗とかさまざまの奇怪な動物などを細工する"芸術家"で、陽気な老女はいつも山中に入って、夫のためにしかるべき木の根を探してくるのだった。アリスたちが店を訪れると、彼女は岩から湧き出る冷たい水を汲んでくるやら、お茶をいれるやら、羊羹を出すやら大奮闘を開始するのだったが、アリスたちは彼女からここいら一帯の民話を聞き出すのが面白かった。彼女は村を見おろしている岩の頂上は天狗が作ったのだと教えてくれ、天狗の風穴のところまで彼女たちを案内してくれた。天狗はもうこの森から去っていまはいないと彼女は言うのだった。というのは、夜、店を閉めるときにあたりを窺ってみても、その姿が見えないからである。猿たちも少なくなりましたと彼女は言った。アリスたちは彼女から、森の中にいるマムシをとらえて酒に浸すと薬になるのだという話を聞いた。なるほど村の八百屋の棚には、とぐろを巻いた蛇の入った壜が置かれていた。ある日彼女はアリスたちを呼びとめて、もうちょっと早くおいでになるとよかったのにと言った。山の神様の使いである大きな黒蛇がいましがたここを通ったというのだ。彼女自身はそれを以前も見たことがあって、珍しくはなかったけれど、アリスたちがきっと興味をもつにちがいないと彼女は考えたのだった。「いとしき小さな老女よ、その親切な顔つきと心地よい物腰よ、そして彼女のやさしいしわがれ声よ。神秘で不可思議な事物に対する彼女のかたい信念は、かしこい人々はとっくに脱ぎすてているものだけれど、わが民族の幼年時代に立ち合うような気持に私たちを誘なってくれたし、さらに、すべての自然が深遠な神秘に包まれている文化のありかたへの共感を、私たちの心に涌きあがらせてくれた」(40)。
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注40を見ると、引用は「Japanese Girls and Wemen(1902)」のp465~8からなされています。
渡辺は「すべての自然が深遠な神秘に包まれている文化のありかた」に傍点を振っていますが、「Project Gutenberg」で原書を確認したところ、特にこの部分に強調はないですね。

The Project Gutenberg EBook of Japanese Girls and Women, by Alice Mabel Bacon
http://www.gutenberg.org/files/32449/32449-h/32449-h.htm

さて、アリス・ベーコンのこの著書は2003年にみすず書房から『明治日本の女たち』というタイトルで翻訳が出ています。
訳者は矢口祐人・砂田恵理加氏です。

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女子留学生、山川捨松のホストファミリーとなった縁で津田梅子を知り、少女時代から日本への憧憬をはぐくんだアメリカ女性――著者は、1888年と99年に日本を訪れ、華族女学校や東京女子高等師範学校、のちには女子英学塾でも教鞭をとった。封建時代が去って、女性をとりまく環境も考え方も激しく変わりつつあった時代に、宮中の高貴なあたりから華族の上流夫人、都会の中流家庭の主婦、農婦、女学生まで近しくふれあった著者の、偏りのない視線がとらえた明治日本の女たち。
それから1世紀のあいだに、この国はなにを獲得し、なにを失ってきたのだろうか。しだいに失われゆく古き日本の面影を愛惜の念をこめて点描しながらも、エキゾチックなものめずらしさを書きつらねた旅行記に終わらない、日本論・日本女性論。

https://www.msz.co.jp/book/detail/08041.html

矢口・砂田訳を見ると、対応する部分は、

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 この気の毒な老女は、優しい表情を浮かべ、おだやかな物腰と親しみやすいしわがれ声をしていた。そして、文明人が信じられなくなってしまった、超自然的なものや神秘的なものの力を疑っていなかった。彼女の信心は、私たちが通過してきた文明の幼児期を彷彿とさせた。自然界のすべてが不可解な神秘に包まれているとみなすこのような人びとに、憐憫の念を禁じえなかった。
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となっていて(p196)、渡辺訳とはずいぶん印象が異なります。
そして、矢口・砂田訳では、とても「結局、日本庶民の信仰の深部にもっとも接近したのは、アリス・ベーコンであったようだ」という感想は出て来ません。
果たしてどちらの訳が正しいのか。
コメント
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