学問空間

『承久記』『五代帝王物語』『とはずがたり』『増鏡』『太平記』『梅松論』等を素材として中世史と中世文学を研究しています。

渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その10)

2019-12-12 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月12日(木)12時15分6秒

11月15日に渡辺京二『逝きし世の面影』の紹介を始めてから一ヵ月近く経ってしまいました。
初めて『逝きし世の面影』を読んだ時、私は「第十三章 信仰と祭」の最初の方、即ち日本の武士階級ないし当時の知識層がいかに信仰と縁のない人々であったかを強調する部分にしか注目せず、そのサバサバした無神論の世界の後に渡辺が熱意を込めて描いた、ほのぼの・しみじみとしたエピソードの数々は全く無視していました。
今回、渡辺が個々の出典を正確に引用しているのかを含め、それなりに丁寧に「第十三章 信仰と祭」全体を読んでみましたが、やはり学問的に重要なのは最初の方だけで、残りは読み物としては面白いものの、歴史学にはあまり役に立たない随想に終始していますね。
一番の問題は渡辺の描く「庶民」・「民衆」の信仰なるものが、宗教に関わる様々な事象の中から渡辺の思い描く「真の宗教心」「本物の宗教」に適合するものだけを恣意的に選択した結果になってしまっている点です。
渡辺は最初の六ページほどで欧米観察者から見た日本人の「宗教」について論じ、プロテスタント的な「とほうもない基準を適用されたとき、幕末・明治初期の日本人が非宗教的で信仰なき民とみえたのは致しかたもないことだった」(p445)と暫定的な結論を出した後、「しかし、彼らのうちのある者は、自分たちの宗教概念には収まらぬにせよ、日本人に一種独特の信仰の形態が厳として存在することに気づいていた」(同)として、富士巡礼の例などを検討します。
そして、オールコックの「少なくとも下層の人びとの間にある程度生き生きとした宗教感情が存在する」(同)との発言を引用しますが、ここで「宗教」から「宗教感情」に議論が移って行きます。
ついでロバート・フォーチュンが見た「徳川期において、日蓮宗と並んでもっともよく民衆を組織した真宗寺院の実態」を詳細に引用して「何と明るく楽しげな雰囲気であることだろう」(p447)との感想を挿入し、更にエドウィン・アーノルドの「彼らは熱烈な信仰からは遠い(undevotional)国民である。しかしだからといって非宗教的(irreligions)であるのではない」(p449)という表現が「注目すべき言表」(p450)だと言います。
また、ロバート・フォーチュンが「神奈川宿の近傍」で、地蔵にお参りに来た「かなり立派な身なりで上流階級に属するかと思われる三人の女性」と「しばらくいっしょに煙草を吸って、仲よくお別れした」(p450)という他愛のないエピソードに、「天にまします唯一神に祈れば迷信ではなく、路傍の石仏に願をかければ迷信だという区別が、いったいどうして可能なのかという疑問」(p451)を呈した後、「この女たちが地蔵に線香を供えることで、具体的な現世利益を願ったことは確かだとしても、それと同時に、彼女らがこの世を包含するさらに大いなる神秘の世界と交感したのであることは疑いようのない事実だ」(同)という、まあ、率直に言って頓珍漢な感想を抱きます。
そして「フォーチュンもブラントも、日本人の宗教意識を理解する入口に立っていたのである」(p452)という上から目線の指摘をした後、「結局、日本庶民の信仰の深部にもっとも接近したのは、アリス・ベーコンであったようだ」(同)という、原文の誤読に基づく誤解を述べます。
原文をきちんと読んでみたところ、那須塩原温泉の近くで茶屋を営む老女は「すべての自然が深遠な神秘に包まれている文化のありかたへの共感を、私たちの心に湧きあがらせてくれた」(p453)訳ではないですね。
さて、以上のような様々なエピソードの紹介を踏まえて、渡辺は「日本人の宗教心を仏教や神道の教義のなかに求めたり、またそれら宗教組織の活動にうちにたずねたりするのは無駄な努力というものだった」(p453)とし、赤松連城とイザベラ・バードの対話を紹介した後で、赤松の言辞は「彼の念頭にある宗教理念がまったくキリスト教モデルに従うものであることを示すと同時に、彼が日本民衆の信仰世界にいささかの理解ももたず、それを侮蔑していたことを暴露している」(p454)と非難し、「古き日本人の宗教感情の真髄は、欧米人や赤松のような改革派日本人から迷信あるいは娯楽にすぎぬものとして、真の宗教の埒外にほうり出されたもののうちにあった」(p454)という結論を出します。

渡辺京二『逝きし世の面影 日本近代素描Ⅰ』(その9)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/5d0a0f2da2b028ff1e633554d554cc8d

ただ、奇妙なことに、この後で渡辺は、「ロシア正教日本大主教のニコライは、欧米のプロテスタント宣教師とは違って、日本庶民の地蔵や稲荷に寄せる信仰に、キリスト教の真髄に近い真の宗教心を見出していた」(p455)として、ニコライの見解を詳しく紹介します。
数多くの欧米人観察者の最後に登場して「日本庶民」の信仰に「キリスト教の真髄に近い真の宗教心を見出し」たのがニコライということなので、「結局、日本庶民の信仰の深部にもっとも接近したのは、アリス・ベーコンであったようだ」との整合性はどうなるのだろうという疑問が生じますが、その点を含め、次の投稿でニコライの見解を少しだけ検討します。

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