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『ニコライの見た幕末日本』(その2)

2019-12-24 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月24日(火)13時17分5秒

「東洋的でない日本」の残りの部分にも興味深い指摘があり、「あらゆる階層にゆきわたっている教育」「外国に対する優越感と恐れ」「すさまじい西欧追随」も同様なのですが、当面の関心事である宗教に絞って、ニコライの見解を見て行きます。(p21以下)

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日本人の無神論は西欧のそれと異なる

 さて、この国民の宗教はどのようなものであるか、そしてこの国民はその宗教に対していかなる態度を取っているか? 中国人と並んで日本人もまた無神論の民である、あるいは、信仰の業〔わざ〕に対して無関心な民であると論難されるが、それは当たっている。ところで、そうした無神論、無関心は教育程度の比較的低い国民には全くふさわしからざるものだと思われるのだが、この場合その原因を成しているものは何か? これは、時折ヨーロッパ社会をも襲って敬神の念を乱し、それによって逆に熱烈な弁神活動を呼び起こす、あの無神論と同じものなのだろうか? 否、あれとは全く別のものである。
 ヨーロッパにおける無神論とは常に、諸科学の進歩を、知的活動のより高度な発達段階への進展を、ある程度示している指標である。その新たな段階に最初に足をかけた人々は、栄えある発見の成功に歓喜し、その自制不可能な喜びに駆られて、人間の知性の勝利、その全能、その権利を、声を限りに宣揚し、他の一切を顧みようとせず、自分の小さな発見を冷静に測って人間の知識の圏内にしかるべき場を与えるとうことを欲しない。群衆は四方からこれら宣揚者たちの周りに馳せ参じ、彼らの言葉を鸚鵡返しに語るのだが、一体それがどういうことなのか全く理解していないこともしばしばある。
 しかし、より冷静な人々もその段階に登って来て、やがて、神の啓示の真理を保持してその真理を解き明かす人々もそこへやって来る。この人たちが事の真相を見極め、新発見を信仰の教えと照らし合わせる。そうすると、群衆は驚くのだが、その発見は信仰と矛盾するものではなかったことが判明し、それのみか、信仰の真理を確認するものであることがわかるのである。
 かくして諸国民はその知識の圏内に科学の成果を採り入れ、魂においてはそれまで以上に緊密に不変の救いの真理に結びつき、そのようにして自らの旅を続け、なおも幾世紀にもわたって歩いて行くことになるのである。こころ弱い者たちはその旅路の途中でいく度となくつまずくことであろうが、しかし、諸国民が神の無限の叡智の海を汲みつくすことはないし、人間の知識は宗教の真理の上に出て優位を誇れはしないし、人間の徳性が宗教の聖なる理想の活力を奪ってしまうことはない。
 しかし、一般に異教の国々ではそうではない。日本においてもまた、そうではない。この国の上層社会の無神論と下層社会の宗教に対する無関心とは、まぎれもなく、宗教の教義の貧弱さから来ている。すなわち、国民が宗教の教義の力をすっかり使い果たして、もはやそれによっては満足が得られない、という所に原因がある。
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ニコライは「ヨーロッパにおける無神論とは常に、諸科学の進歩を、知的活動のより高度な発達段階への進展を、ある程度示している指標」と考えているので、要するにニコライの理解では、西欧における無神論は自然科学の発展の副産物、ということになりそうですね。
しかし、日本の無神論は、自然科学と宗教との激烈な凌ぎ合いとは全く無関係に、文明開化後の自然科学の流入とは全く別個独立に、遅くとも江戸末期には日本国中に遍く存在していたことになります。
従って、例えば西欧において、宗教との関係で最も物議を醸した自然科学の成果といえば、それはもちろんダーウィンの進化論ですが、日本では『種の起源』は特に何の衝撃ももたらさず、深刻な宗教論争を惹起することもなく、ああそうですか、で受け入れられてしまいます。
そして、それを当たり前の前提として、むしろ社会ダーウィニズムの是非に議論が移って行きます。

参考:溝口元「日本におけるダーウィンの受容と影響」(『学術の動向』15巻3号、2010)
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits/15/3/15_3_3_48/_pdf/-char/ja

ダーウィンの進化論がロシアにおいてどのように受容されたのかは知りませんが、極端な例だと、神学校の生徒だったスターリンは『種の起源』を読んで神の不在を確信したそうですね(サイモン・セバーグ・モンテフィオーリ『スターリン-青春と革命の時代』、松本幸重訳、白水社、2010、p102)
まあ、スターリンのような存在を生まなかっただけでも「この国の上層社会の無神論と下層社会の宗教に対する無関心」は、それなりに良かったのではなかろうかとも思えてきますが、ニコライは、それが「まぎれもなく、宗教の教義の貧弱さから来ている」として、この後、神道・仏教、特に禅宗「門徒宗」「法華宗」、そして「孔子教」の教義がいかに「貧弱」かを分析して行きます。
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