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『ニコライの見た幕末日本』(その4)

2019-12-26 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月26日(木)13時16分29秒

『宣教師ニコライの全日記』(教文館、2007)をポツポツと拾い読みしているのですが、百科事典と同じ判型で上下二段組み、全九巻ですから、全部読むのは当分無理ですね。

https://www.kyobunkwan.co.jp/publishing/archives/7123

ただ、適当にどのページを開いても、ニコライとその周辺の人々の行動が、まるで映像を見ているような感じで生き生きと描かれていて、明治の宗教文化を考える上では本当に貴重な基礎資料です。
ニコライは笑いのセンスが良くて、頻繁に出てくる愚痴もけっこうユーモラスな書き方になっているところが多いですね。
ま、それは他人事だから笑って読めるのですが、そういった精神の健康さがないと、五十年間、異教の地で伝道生活を送ることはできなかったでしょうね。
さて、『ニコライの見た幕末日本』に戻って「仏教渡来後の神道」(p38以下)を見ると、正直、私も近世の神道史・思想史に疎く、ニコライの情報源も把握できないので、次のような記述をどう位置付けたらよいのか、よく分かりませんが、表現が面白いので少し引用してみます。(p40以下)

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 仏教においてはその数々の分厚い経典が人を驚かすことがあるが(もっともその内容はといえば、その経典の表題に対する賞賛の辞以外の何者でもないのである)、神道の聖典釈義家にあっては、諸君は、日本の古代史の片々たる記事をめぐる浩瀚な注釈書の山に出会う。その注釈とは、歴史文献の音節の一つ一つ、文字の一字一字までが、巧妙極まる有り得べからざる比諭〔アレゴリヤ〕の種となってゆく態のものなのである。
 しかし、悲しいかな、もともと軽いその荷物を背負って、楽ではあるが当てにならぬ道を進むことによって、神道の釈義家たちは、たちまちのうちに、一切の完全なる否定という地点に達してしまった。彼らの旺盛な探求欲の結果は、誰に目にも明らかな無信仰であった。
「太古から混沌があった。そこに偶然、火花と一滴の水が生じた。この二つの元素の相互反応によって混沌は固まって来て、幾つかの球状のものとなった。火の多い球(太陽)の固まりから最後の水の多い球(地球)までである。その水の多い球がまだ泥の状態にあったとき、様々な生きものが生じた。人間は最も高度な生きものであって、数々あった沼の中で最も良い沼で、すなわち泥のたっぷりある沼でできた。」
 これが日本の唯物論者たちの教説の核心である。あえて言うが彼らは、論理の組み立て方においても論証の仕方においても、ヨーロッパの唯物論者たちに引けを取るものではない。
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ここで引用部分に付された注(6)を見ると、

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(6)「神道の釈義家」ではないが、三浦梅園の『玄語』に、これに似た考えが見られる。三枝博音氏の『三浦梅園の哲学』、高橋正和氏の「玄語 本宗」の訳・注(『日本の思想』第十八巻)などを参照。
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とあります。
私は三浦梅園など全く読んだことがなく、ニコライとどのように結びつくのかも分かりませんが、後日の課題にしておきます。

三浦梅園(1723-89)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%B5%A6%E6%A2%85%E5%9C%92

引用を続けます。(p41)

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 神道にとってはこうした親切の押し売りのような理論の奉仕はありがたくはなかったに違いない、と思われるかもしれない。だが実際は少しもそんなことはなかった。他でもない、第一に、神道の信仰内容は完全に否定していながら、にもかかわらず神道を保持して神道に対して凄まじいばかりの讃辞を捧げる釈義家ばかりなのであって、そうでない者にお目にかかることは決してないからである。
 この事実は一見奇妙なことに見える。だが実はきわめて単純かつ自然なことなのである。そうした釈義家たちにあっては神道は宗教ではなくなり、国民的な、純粋に市民生活上の憲章に変わってしまったのである。民衆の意気を盛んにし、市民的道義を高揚せしめ、日本の国威をとこしなえに強化せんがためのこの上なく高い目標が、その憲章の極めて小さな細目にもこめられているとされるようになったのである。このような考え方によって、かくも賢明なる憲章を案出した祖先たちは賞讃を受けて高く持ち上げられることになり、結局のところ、神道は永遠に守り伝えられるべきであるという結果になる。
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「そうした釈義家たちにあっては神道は宗教ではなくなり、国民的な、純粋に市民生活上の憲章に変わってしまったのである」云々は、割と多くの人が引用して論じているようですが、私にはどうも論理の展開が理解しにくいですね。
コメント
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