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中村健之介『宣教師ニコライと明治日本』(その1)

2019-12-18 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ
投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月18日(水)10時44分17秒

三日ほど投稿を休んでしまいましたが、またボチボチと進めて行きます。
この間、中村健之介監修・共訳『宣教師ニコライの全日記』全9巻(教文社、2007)をほんの少しだけ読んでみましたが、大変な労作ですね。
そもそも中村氏のニコライの日記との出会いがなかなかドラマチックです。
『宣教師ニコライと明治日本』(岩波新書、1996)の「まえがき」から少し引用してみます。

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 宣教師ニコライ、といってもいぶかしい顔をなさる方が多い。しかし「神田駿河台のニコライ堂を建てた、ロシアから来たキリスト教の坊さん」と申し上げるとすぐに「ほう、あのニコライ堂の」と、旧知の人の名にふれたかのように興味を示してくださる方が、これも多い。正式の名称は日本ハリストス正教会復活大聖堂、通称ニコライ堂は、あたかもなつかしい思い出と結びついたなつかしい地名のようにいまもかなり年配の方々の記憶に生き続けているようである。
 とはいうものの、その有名なニコライ堂のニコライがどのような人であったのかは、実はほとんど知られていない。教会の外の人たちをも読者とするニコライ伝は書かれたことはなかったし、かれの創建した日本ハリストス正教会についての研究も乏しかった。
 明治三一年(一八九八)年の内務省の調査によれば、当時の日本のキリスト教徒はカトリックが五万三千九二四人で最も多く、次がニコライの正教会で二万五千二三一人、三番目がプロテスタントの組合教会であったが、正教会がどのようにしてそれほどの信者を得ていったのかということも、十分明らかになっていない。また、ニコライがロシアから伝えたそのハリストス正教とは一体どのようなキリスト教であるのか、カトリック、プロテスタントとどのように違うのかということも、私たちはよく知っているわけではない。ハリストス正教はたしかに明治の日本各地の地方都市と農漁村、そしてある程度は大都市にも確実に浸透したのだが、その実態はよくわからなくなってきている。
 ところが、いまから一七年前、一九七九年秋、ニコライと明治の正教会の実態を明らかにするまたとない文書が見つかった。思いがけずもレニングラード(今のサンクト・ペテルブルグ)の国立中央歴史古文書館にニコライ自身のおよそ四〇年間にわたる日記が保管されていることがわかったのである。
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1898年時点で正教会の信徒数がカトリックに次いで二番というのは意外な感じがしますが、「ニコライ自身も、カトリックに復帰した長崎の隠れキリシタンを数えなければ、正教会の方がカトリックより入信者は多いと言っている」(p90)そうですね。
しかも、海老沢有道『日本の聖書』によれば、正教会は外国人宣教師の数が他派に比べて極めて少なかったにもかかわらず「プロテスタントを遥かに凌駕する布教成績を挙げていた」とのことで(同)、その理由の相当部分はニコライの宣教師としての有能さにあるようです。

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 ニコライの日記の存在がどうしてわかったか。それについて語るには私とニコライとの「遭遇」にふれておかなければならない。
 私がニコライに興味をいだくようになったのは一つの質問がきっかけだった。
 ある研究発表会の後で、北海道大学文学部の小山皓一郎氏から「ドストエフスキーとニコライは関係があるというが、どういうことがあるのか」と尋ねられたのである。一九七七年の夏のことである。
 ドストエフスキーはモスクワからスターラヤ・ルーサの自宅の妻アンナに宛てた手紙にこう書いている。
「いまモスクワに来ている日本のニコライにぜひ会いたい。かれは大変わたしの興味をそそる(露暦一八八〇年五月二九日)
「きのう、お昼前、アレクセイ副主教と日本のニコライを訪ねた。この人たちと知り合いになれて、とてもうれしかった。一時間ほどいて、なんとかいう伯爵夫人が訪ねて来て、それでわたしはおいとまして来た。二人ともわたしに対して心を開いて話をしていた。かれらは、わたしが訪ねたのが自分たちにとって大いに名誉でありうれしいことだと言った。わたしの作品を読んでくれていた。ということは、神の側に立つ人たちからは評価されているということだ」(露暦一八八〇年六月二日)
 この手紙の「日本のニコライ」が東京神田の「ニコライ堂」のニコライであることを小山さんにお伝えしたのであるが、ドストエフスキーとニコライの間に直接どういうやりとりがあったのか、そもそもニコライとはどのような人で、日本についてどのような考えをもっていたのか、またなぜドストエフスキーはニコライを訪ねていったのか、そのときは答えることができなかった。私は自分がなんとなく宙ぶらりんの状態でいるような感じが残った。
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ということで、ドストエフスキーの研究者だった中村氏はニコライについて調べ始めるのですが、当時の日本の正教会関係者の間ではニコライが書いた記録は関東大震災で焼けたものと思われていたそうです。
日本ではさしたる成果を得られなかった中村氏は、

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 そこでアメリカの国会図書館の文献目録などを調べてみた。すると、ニコライはロシアの一般読者向けの雑誌や教会関係の雑誌にいくつかの論文を発表していることがわかった。それらの論文のコピーを取り寄せて読むうちに、私はニコライという人間に惹かれるものを感じた。ニコライの日本観、かれの内に生きている宗教にも興味がわいてきた。そしてニコライとともに日本の正教会を育ててきた日本人のことも知りたくなった。
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とのことで、この時期の成果のひとつが『ニコライの見た幕末日本』(講談社学術文庫、1979)ですね。
同書はニコライが1869年9月にロシアの雑誌『ロシア報知』に発表した「キリスト教宣教団の観点から見た日本」の翻訳です。
さて、「ドストエフスキーの研究を続けるかたわら」ニコライ関係の文献を探索していた中村氏は、「一九七九年、ソ連に留学滞在中、いろいろな教会を訪ねて人に訊いたり神学大学の図書館で調べたりしているうちに、レニングラードの古文書館にニコライの日記が保管されていることをつきとめた」のだそうです。

中村健之介(1939生)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E5%81%A5%E4%B9%8B%E4%BB%8B
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