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渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その8)

2019-12-09 | 渡辺京二『逝きし世の面影』と宣教師ニコライ

投稿者:鈴木小太郎 投稿日:2019年12月 9日(月)10時57分21秒

原書と矢口・砂田訳を比べてみると、注釈の番号が違うのでとまどった人がいるかもしれませんが、これは、

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 本翻訳は一九〇二年に出版された、イラストが入っていない改訂版をもとにしている。原文では改訂版にあらたに付け加えられた情報は巻末にまとめられている。読者は本文中の指示にしたがい、そのつど巻末を参照するようになっている。翻訳ではそのような手間を省くために、改訂版の巻末にある情報を適宜本文に挿入して訳した。
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という事情によります。(p350)
このような工夫により、確かに読みやすくはなっているものの、翻訳を読んでいる限り、そこに書かれた情報が初版のものなのか、それとも改訂版で新たに追加されたものなのかは分かりません。
現在問題にしている部分は、APPENDIX のp468に記載されているので、改訂版の情報、即ちアリス・ベーコンの二度目の来日時の情報です。
さて、続きですが、やたらと蛇の話が出てきますね。(p195以下)

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また、森にいる蛇についても教えてくれた。毒蛇のマムシを捕まえて、十分な量の酒と一緒に瓶詰めしてしまえば、すばらしい強壮剤になるというのだ。酒がなくなれば、また足せばよいらしい。蛇は古くなればなるほど効果がでるらしく、大切に扱えば一匹のマムシは、幾樽もの酒を薬に変えることができるそうだ。果たして、そのとおりの風習があることがその後判明した。ある日、普段の質素な食事をちょっとだけ贅沢にできそうなものを探そうと小さな店に立ち寄ると、きれいにとぐろを巻いた二匹の蛇がそれぞれ瓶に入れられて、酒漬けにされているのを見つけた。一本わずか七五銭だった。もう一本は、蛇が瓶詰めされるときに抵抗して、自らの体に噛みついたままの状態になっているので、これは勇気ある蛇ということで、もう少し値段が高かった。その日はとくに強壮剤がいるという気もしなかったので、マムシは購入せずに帰ってきた。きっと今ごろどこかで、日本の老人が弱った体力を何とかして回復しようと、あの溶けかかった酒をせっせとがぶ飲みしているのだろう。
 私たちが蛇に興味を示すと、茶屋の老女は蛇にまつわる話をいろいろと探してきてくれた。ある日、いつもより遅めにそこを通りかかった。ちょうど、夕立が来そうなので、急いでいるところだった。すると、この老女が私たちを呼びとめて、もう少し早く来れば、神の使者である大きな黒蛇が近所の山から来たのを見ることができたのにという。彼女は前にもその黒蛇を見たことがあったのでとりたてて珍しいものではなかったが、きっと私たちが興味を持つに違いないと考えたのである。
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ここからが問題の部分です。
原文を見ると、

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Poor little old lady, with her kindly face and pleasant ways, and her friendly cracked voice. Her firm belief in all the uncanny and supernatural things that wiser people have outgrown brought us face to face with the childhood of our race, and drew us into sympathy with a phase of culture in which all nature is wrapped in inscrutable mystery.

http://www.gutenberg.org/files/32449/32449-h/32449-h.htm

となっています。(p468)
矢口・砂田訳は、

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この気の毒な老女は、優しい表情を浮かべ、おだやかな物腰と親しみやすいしわがれ声をしていた。そして、文明人が信じられなくなってしまった、超自然的なものや神秘的なものの力を疑っていなかった。彼女の信心は、私たちが通過してきた文明の幼児期を彷彿とさせた。自然界のすべてが不可解な神秘に包まれているとみなすこのような人びとに、憐憫の念を禁じえなかった。
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です。
これに対して、渡辺京二の訳は、

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いとしき小さな老女よ、その親切な顔つきと心地よい物腰よ、そして彼女のやさしいしわがれ声よ。神秘で不可思議な事物に対する彼女のかたい信念は、かしこい人々はとっくに脱ぎすてているものだけれど、わが民族の幼年時代に立ち合うような気持に私たちを誘なってくれたし、さらに、すべての自然が深遠な神秘に包まれている文化のありかたへの共感を、私たちの心に涌きあがらせてくれた。
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となっています。
果たしてどちらが正しいのか。

渡辺京二『逝きし世の面影』の若干の問題点(その6)
https://blog.goo.ne.jp/daikanjin/e/1bb8093db59215632528fe4be2447a02

まず、"Poor little old lady" ですが、これは「いとしき」ではなく、「気の毒な」でしょうね。
次に "the childhood of our race" ですが、「民族」ではどの「民族」なのかが問題になります。
ここはやはり特定の「民族」ではなく、human race、即ち「人類」のことを言っているのだと思います。
そして、一番大きな違いである "sympathy" の解釈ですが、アリス・ベーコンが天狗や鬼や蛇の話を「迷信」と判断しているのは明らかで、「きっと今ごろどこかで、日本の老人が弱った体力を何とかして回復しようと、あの溶けかかった酒をせっせとがぶ飲みしているのだろう」といったあたりにも冗談めいた雰囲気が漂っていますから、ここは「共感」ではなく、「憐憫」でしょうね。
この前の部分についても、渡辺の訳には明らかな誤りがあります。
渡辺は「陽気な老女はいつも山中に入って、夫のためにしかるべき木の根を探してくるのだった」としていますが、原文には、"The old man was an artist in roots. His life was devoted to searching out grotesquely shaped roots on the forest-covered hills, and whittling, turning, and trimming them into the semblance of animal or human forms."とありますから、木の根を探すのは老女ではなく、その夫ですね。
渡辺は一時は中高生相手の英語塾の教師として生計を立てていたそうなので、木の根の方は単なるケアレスミスでしょうが、 "sympathy" については、もう少し根深い理由がありそうです。

コメント
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