生き甲斐の心理学

自分は何の為に生きているのか? 生き甲斐とは何か、自分の魂と成育史と身体を大事にしているか、を思索していきます。

自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月15日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
微笑みと技能は少々違います。微笑みが心から湧きだせば問題は無いのですが、私のような俗人には微妙な修行が続きました。偽善的な自分、礼儀上のもの、ごまかし、照れ笑い、などなどの深層心理は、私を非常にぎくしゃくさせ、自己嫌悪にさせますが、それでも微笑みの修行を楽しんでいます。年齢とともに人々への深い想いが湧いてきてはいますが、これは修行というよりも年齢による当然の精神現象でしょう。奈良京都の由緒ある仏様の表情で何とも言えない暖かい眼差しと微笑みが私を救ってくれていますが、理想的なほほえみは多分、生涯、無理でしょう。しかしです、電車の中で、喧嘩を売られるような勢いで私を押しのけ、飛び降りていく人に対しても、努力して優しく対応すると相手も自分の愚かさに気付く人もいるのです。力には力を、嫌味には嫌味を返していた20代の頃と、少々偽善的ではありますが、努力して微笑む心を自分に教え込んでいた30代からは、どんどん優しい人々が私を囲い込むように連鎖の人間の深く暖かい関係が生まれてきました。自己嫌悪になりがちな微笑みの修行は武道の容の修行と同じで、基本的な技の型が出来ていないと、絶対に昇段試験には合格しませんでした。講道館、合気道の道場でも基本形の訓練と微笑みの訓練が同じだと理解したのが40代前半でしたから、随分と微笑みの修行は長いものでした。弥勒菩薩様のような微笑みは何とも素敵な表情です。奈良京都の名刹での仏様を味わう方法の一つに、それぞれの微笑み探索を中心に旅を続けるのも、楽しい人生の味わい方かもしれません。









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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月14日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
人生を幸せにする技能とは何でしょう?税理士、弁護士、教師など色々の専門性がありますが、人を幸せにする技能とは果してこのような大変な技能だけを言うのでしょうか?そんな事はありません。人が明るく元気に生きていく技能について思索していきます。微笑みの技能が日々の生活での最大の技能ですが、この微笑む技能は自分も人をも幸せにしてくれます。私は或問題で非常に悩み、暗い日々を送っていました。30代の頃です。私のホームステーションは小田急線の或駅ですが、暗い気持ちで道を歩いていました。そして人に会うのが嫌で、小さな道に意識的に曲がりました時、子供にぶつかりそうになり、よろよろとふらつきました。その子は「叔父さん、大丈夫?」と優しく微笑んで私を見つめているのです。その小学一年生くらいの子供の微笑みに触れた途端、私は突然、心が明るくなり、思わず有難う、と言いましたら、安心したような顔をして離れていきました。子供の笑顔が私を元気づけ、その日以来、私はどんどん元気になりました。単純といえば単純ですが、知らない少女の微笑みが私を元気づけてくれたのです。この微笑みは自然なものでしたが、以来、私は意識的に微笑む技能を磨きだしました。わざとらしくではなく微笑むという行為、技能がどれだけ自分を周囲を明るくするものかを意識しています。このような技能でもいいのです。微笑みを技能と考えている時は、ぎこちないものでしたが、段々と訓練していく内に心の中に、本物の微笑みとは何だろう、という哲学めいた修行が始まりました。この微笑みという精神性は案外難しく、偽善的なものも嫌ですし、心から微笑む修行は今でも続いていますが、自分と周囲を楽しくさせる技能としても案外、身近な技能かもしれません。人生を幸せにする技能について皆様はどうお考えでしょう?






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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月13日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
劣等感を解消する目のつけどころ、のお話です。人間の精神現象を研究している世界の病理学者は本当に偉いなあ、と感心します。学派は違いますが、しこしこと色々の事例を研究し、何とか人々を元気にしようと努力しています。頭が下がります。劣等感が病的になりますと、勤勉に働く意欲が激減し、何か技能を磨こうとする意思力も生まれてこないのが特徴です。自分は駄目、何をやらせても駄目、という事例の場合、案外効果が出る方法は、劣等感を意識せず、小さな技能を身につける努力が案外、簡単にその生育史上の劣等感を忘れさせます。例えば私の勉強会には沢山の劣等感で苦しんだ講座生徒がいますが、生き甲斐の心理学、の原理を勉強していく内に、自分の友達、知人、子供、親の劣等感を知り、それへの対応を勉強していく内に、人々に感謝され、自分の小さな勉強から周囲の人々がいきいきとする姿に触れて、なんだ、なんと愚かな劣等感で苦しんだのだろうと悟りを得て、元気に逞しく生きだした講座生徒は実に沢山います。何も博士号を取らなくても、身近な友人への支援活動だけでこの悪質な劣等感は克服出来るのです。技能と勤勉性と劣等感の関連性について知るだけで人の劣等感は克服出来ます。この3つの概念(技能、勤勉性、劣等感の3つ)は生育史の上で微妙に深く関連しているのです。もし、自分の劣等感が気になる場合、この3つの繋がりの関係性を知れば、自分流儀の解決方法も見つけられます。何が病的な劣等感かを正確に分析する方法はプロセススケールと言う手法もありますが、ここでは人生に大きな生きる希望を感じていれば、自分の劣等感は病的ではないと自己診断しておいて間違いありません。生き甲斐があり、自己否定的でなければ、病的な劣等感は無いと判断して間違いないでしょう。







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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月12日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「私は駄目、何をしてもダメ」と感じているお話です。外見は堂々とした紳士、あるいは、非常に美しい淑女でも、少々お付き合いをする内に、心底「自分は駄目、何をしても駄目」と確信している人に時々遭遇します。生育史を傾聴していく内に、さもありなん、なんとついていない人生だろう、と心から涙してしまうのですが、そんな事は顔に出せませんので、悶々と私は仕事上、苦しむ場合があります。この対応方法上の苦しみは私の仕事ですので、その原因を探り、何とか明るく元気に爽やかになつていただきたいと祈りつつ仕事を進めます。大きく分類する不健全な劣等感とは「生きる喜び」を感じることなく、「信じる喜び」もなく、「人生に希望を置くノウハウ」も無い場合、私はその原因を徹底的に他者分析していきます。病的な劣等感は本人は殆ど意識していませんので、中々分かりにくいのですが大きな特徴としては特技が無い場合が多く、その特技の無さが、益々、その人から自信を奪い、自信喪失の危険に追い込んでいきます。会社勤務の場合、税務とか技術分野で特殊な知識を蓄積していける環境の場合は徐々に生きる自信を生みだしますが、主婦業(子育て等)だけの場合、時々、大きな自信喪失現象を起こし、周囲にも心配をかける程のストレス曲線(不安感、イライラ、身体症状、鬱、錯乱の5つ)を発露します。この劣等感の対処方法のありようについての分析は難しいし、根が深いので暫く続けます。





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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月11日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
健全な劣等感と不健全な劣等感のお話です。どんな人にも劣等感がり、その度合いいかんで人生が決まっていきます。エリクソンは劣等感の原型は8-12才で形成されると論文に書いていますが、私達はそれを参考にするだけで充分で、ここではその程度について思索していきます。生育史がもたらす程度の差について一度も思索していないと、大人の人生で無駄なエネルギーを消耗し、何の為に生きているのか、生き甲斐が何か、自分を大事にしているか、していないか、という重要な問題を思索する際に、この劣等感が不健全ですと目が曇らされているので答えが意識の上に登らない危険があるのです。この生育史における劣等感は日々の勤勉性や技能獲得にも大きく深い影響を与えていますので、とても大事な研究課題です。どの程度の劣等感が健全か不健全化、何を基準に考えるか、そのあたりを思索してみましょう。
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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月10日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
答えは自分の中にある、と何故いえるのでしょうか?学問や恩人、書物、先輩、家族からのアドバイスで気付く事は沢山ありますが、それもこれも本人が納得した答え、知恵でなければ有難いとは思いません。表面的な感謝は礼儀上、きちんと挨拶しますが、生き甲斐の心理学では何故、人生上の重要問題での答えを本人の中に存在すると断言するのでしょうか?学問としての根拠はホメオスターシス(自然治癒力)に基盤を置いていますし、哲学的にはキリスト教の三位一体説、パウロ神学(人の身体は神の神殿)に根拠を置いています。全知全能で愛そのものである神様が苦しんでいる人類一人一人を無視するわけもなく、その人々への働きかけはあらゆる手段、方法を用いて、悩める本人に答えを与える事を確信しているからです。この答えは本人の中に存在していると信じて生きていく場合と本人以外に答えが存在していると信じる場合、相当にエネルギー消耗の違いが出てきます。何故、出てくるのでしょう?自分の中に答えがあると信じる事が出来たならば、右往左往する必要がなく、後は、落ち着いて、どうして答えを自分の中から探究するか、そのノウハウを勉強すればいいだけの話です。本人以外の場所に答えがあると思う場合は世界中を旅する必要があります。人間の大脳は不思議な作用をします。自分が問題意識を持ちさえすれば、その答えを巡って大脳の神経細胞が活動開始するのです。問題意識を持たない人には大脳は無駄な働きをしませんし、仮に答えたとしても無視されるわけですから、身体は決してご主人様相応の働きしかしないように造られています。その人の心と知能に応じた働きしかしません。問題意識がいかに重要か、ここではしっかりと意識化しておきましょう。楽しみながら意識するのです。あまり深刻ですと自律神経が痛みますので、心に余裕を持ちながら、問題意識を持てる人間になりましょう。自分に必要な問題を意識化すると、それなりの答えは必ず意識の上に見え隠れしだします。見え隠れした幾つかの答え、選択肢を、どう選ぶか、その選び方で本人の人生が決まっていきます。全て自分の責任です。





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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月09日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「目的志向性」、自分は何の為に生きているのか、生きようとしているのか、これだけは自分で決める領域ですが、案外、この大テーマから目と心を離して生きていこうとします。その理由はどう思索しても、どう生きたいのか、その目的が見えてこないからです。生きるべき、ではなくて、生きたいか、という視点が重要です。何故人は生きるのか、この課題は古代からの大きな人生問題ですが、高齢者施設に到着するまで、人はこの問題に苦しみます。80億の人類の一人一人の答えは、その人の中にある、と言われていますが、そう言われましても、どう探し出すか、難しい問題ですので、暫く思索していきます。人は、その答えを必ず自身の中に存在している、という哲学を信じると見えてくるものがあるようです。自分の中に答えがあると信じる人と、自分の中に答えがあるのではなくて、外に存在していると信じる人の場合は、探究のエネルギーと方法が全く違ってくるのです。外にある、という場合、無駄なエネルギーが多く、自分の中に存在していると信じる場合のエネルギーは相当違います。先ずは自分の中にある、自分の生育史の中にある、と信じた上での方法を考えていきます。自分の中にあると信じると見えてくる世界について考えていきましょう。









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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月08日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自分で考えることが好きな人、嫌いな人のお話でどんなコミュニテイにも自分で考える事が嫌いな人がいます。考えるのが面倒なので、ほどほどに考えておいて、後は人の言う事に従っていたほうが楽だ、と考えているようです。しかし、その傾向を非難されると怒り出しますが、それは当然でしょう。どんな人にも自分というプライドがあり、そのプライドがどの程度のものであっても、他者に指摘されれば不愉快なものです。こうして会社でも官庁でも、どこの集団でもリーダーが何となく決まっていきます。いつもリーダーに従う人生は人により、その満足度は違うでしょうが、どんな場合でも人に従うと、その人生は何となく惨めで、小さく、暗くなる傾向があるようです。どんな小さなコミュニティでも、自発性を発揮できる環境を一つでもいいですので、構築しておいたほうが人生が楽しくなります。さて大事な自分の人生でもっと幸福になりたい、と願えば、この自発性の領域を大事にしていかないと、幸福にはなれません。自分で決めた事は、どんなに辛くてもやりがいがあり、生き甲斐を感じるものです。大きな事から小さな事まで、自分で考え、行動し、自己実現への道を意識化しておくと、日々のストレス(不安感、怒り、身体症状、鬱、錯乱の5つ)が相当量、半減していきます。自分らしい思考、感情、行動を大事にしたいものです。自分は自分、私は私、と居直り、アイデンティティの統合を図ると、その現実吟味力も確実なものとなります。「自発性が幸福に直結している」と言うエリクソンの思想は心理療法で大変役立ちました。自分で考え、行動し、その成果を楽しむ人生は悔いがありません。不足している部分は人の知恵を借りながら共存共栄の人生を歩みたいものです。






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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月07日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
「自発性」について思索します。人生には次から次へと色々の問題が浮かび上がってきますが子供から見ても呆れるほど、取り乱している大人もいるようです。私の周囲でも息子に、娘に、自分の慌てようを馬鹿にされた、と嘆く知人がいますが、その問題の渦中に巻き込まれていきますと、見苦しく呆れるばかり混乱していくのが普通の生身の人間でしょう。こんな時、エリクソンではありませんが、5-7才の頃、育成された「自発性の原型」が大人になっても、その傾向を発露するようです。私は末っ子ですので、案外、依存性があり、甘えの傾向もあり、かなりの慌てん坊ですので、人の事はあまり言えません。暫く人生での自発性がいかに自分をも人をも幸せにしていくか、この思索をしてみます。






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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月06日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
罪悪感の処理の仕方の思索です。人が生育史上感じる罪悪感は、その処理/対応の仕方は宗教により色々違いますし、信仰が無くても人により、どう解決していくか、その方法は違います。もともと人間に備わっている良心は非常に微妙な領域ですので、ブログでそう簡単には書けません。先ず罪悪感は文化により相当違います。フランス革命、ロシア革命、現代での色々のテロ、その背景は複雑ですし時代での出来事には深い人類の必然があり、現代の倫理道徳で、そう簡単に意味づけは出来ません。生き甲斐の心理学では罪悪感とはその人の生育史上の「理想と現実のギャップ」と定義していますので、先ずはその分析から取り組みます。理想としての倫理道徳観が異常な場合もありますし「現実の解釈」が異常な場合もあります。しかし本人が罪悪感として五感と体感で感じてしまっていることなので、最初はその現状を素直に傾聴していきます。分析をして会話を進めていく中で、本人は罪悪感の真の姿を認め出しますが、その罪悪感が神仏からの罰ではなく、心理学的なものである、と冷静に理解しだすと、身体症状(眠れない、食欲がない等の)が激減していきます。自分が感じている罪悪感は神仏からの罰でもなければ、怨霊・祟りでもない、と色々納得していきます。ああ、悪かったなあ、と認め出すと、その回復は早いものです。異常な両親の教えも遠因ですし、過剰反応で、かつ、異常な良心も遠因です。愛である全知全能の神様は罪悪感から人を滅ぼす事はしないので、先ずは自分の理想と現実のギャップの自己分析をしてみて下さい。その自己分析には大きな知恵と示唆があります。








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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月05日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
聖武天皇の良心の呵責と東大寺の話はとても面白い歴史です。恐れ多くも聖武天皇のお話です。ご存じ東大寺の建立は色々の説があり、その説の勉強はとても楽しものでもあります。藤原一族が藤原不比等、つまり藤原氏の権力の形成時代の奈良時代は歴史の中でも毒殺、殺戮、陰謀と物凄い歴史があり、読者の私は興奮さめやらずで、そのあたりの本を読みだすと、一日の時間が足りません。さて奈良京都の神社仏閣建立の原因に祟りを鎮める、良心の呵責を鎮める等、面白おかしく本に書かれていますが、私はお寺を造りたいと願っても不可能なので、ついついミサで神様に許しを乞います。さてとても大事な事なのですが大学病院に入院してくる患者さんの中に、その身体症状の大きな原因の中に「罪悪感」があります。普通、信仰上の問題として扱われますが、心理療法でも罪悪感は解消出来る場合もあるのです。かえって神仏の教えに過剰反応して病気になる事例があるのです。悪い事は悪いと認めると回復は早いのですが、ああでもない、こうでもない、と自分自身に言いわけしている内にノイローゼになったり長期間、家庭環境、地域環境で、未処理にしている事例では精神病になったりします。罪悪感はその人の生育史上の理想と現実のギャップから生まれますので、そのあたりをもう少し解説していきます。







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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月04日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
目的志向性と自発性と罪悪感は深い関連があります。この繋がりを理解しますと、病的な罪悪感が激変していきます。その関連性について思索します。専門の勉強をしている人には上記の首題はピンとくるでしょうが、普通の人々には何の事やら意味不明かもしれません。エリクソンはこの原型は5-7才に形成されると論文に書いていますが、この理論を思索すると、どんな価値が私達に生まれるのでしょうか?自分の生育史上、過去の思い出の中に良心の呵責、罪の意識、罪悪感があります。この罪悪感の原型が5-7才の頃に形成されている、と言われましても本当かなあ、と疑うのが普通の人々でしょう。過去の心の傷は青春時代、大人時代にも、どんどん、その原型に上乗せされ、益々固く形成されていきますが、人は不思議なもので罪悪感を感じる内容は人により相当違うのです。性の領域で過剰反応する傾向の人、金銭面で過剰反応する人、人間関係で反応する人、その傾向と渇望はカールロジャースという学者も命題4で明言しています(「生き甲斐の心理学」:140ページ)。過去の罪悪感を上手に処理しておかないと現在、自発性に欠け、人生での目的志向性にも問題が出てくるよ、というのが今日のお話ですが、暫くこの問題を思索していきます。








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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月03日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
山岳宗教と富士山と生き甲斐の関係を思索します。生き甲斐追求の際に山の登りたがる人々もいます。世界中、山好きは多いし、一概に結論は出せませんが縄文時代から日本列島には山岳宗教があり、その存在は学会の定説でもあります。私の愛読書なのですが(1)山岳信仰と日本人:安田喜憲:(2)日本の自然崇拝、西洋のアニミズム:保坂幸博(3)富士山を知る事典:富士学会企画:渡辺定元、佐野充編:の三冊があります。日本の山岳宗教のルーツは長江文明ですが、立山、白山、磐梯山は富士山以上に大事です。富士山信仰は江戸時代に盛んになり東京にも富士山に似せた古跡があり、お金の無い人々は、そこにお参りして富士山に行った事にしているわけです。縄文時代からある山岳宗教は日本人が生き甲斐を求める時の重要なキーワードとなつています。富士山は日本人に愛されている山ですが、その富士山信仰を調べて多少の知識があると、日々のストレスは富士山を見ただけで癒される場合もあり、変なカウンセリングを受けるよりも、上記の山々を訪問したほうが遥かに効果がある事例も散見出来ます。







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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月02日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
寂しくなると何故か、京都、奈良に行きたくなります。何故か、思索してみました。同じ旅でも、那須温泉に行きたい、と思う事もあれば、深い人生問題に遭遇し何かを思索したい時は案外大勢の人々が奈良京都へ旅をします。この原因を思索すると昔、イギリスの研究室で学んだ「民族独自の回帰性の問題」という試験問題を思い出しました。恩師が古代史跡・ストーンサークルに案内すると、学友(アイルランド系、アフリカ系)が感動のあまり失神しました。直ぐ回復しましたが、後で聴くと、その現場に立った時、不思議な感動に満たされ空を見上げ、地上を見渡す内に、あまりの喜びに目がくらくらし、しゃがみ込みたいのを我慢して立っている内に、めまいで倒れたそうです。原因は誰にもわかりませんが、しばしば貴婦人がわざとパーティで倒れて紳士から助け起こされるのを期待する事例とは違い、この場合は神秘的な問題なのです。学問ですがら直ぐ神秘の領域と言うのは問題なので、あれこれと研究する内に「それぞれの民族の精神性、人格形成過程では或時代の原型が形成されてくる、それを民族の回帰性」と定義する学者も現れたわけです。日本人は古事記、日本書紀、万葉集の時代がその回帰性にあてはまります。ですから今のところ、何か大きな人生問題を思索したい時、奈良京都を人々が訪問したがる理由を、そのように考えると奈良京都の旅には深い理由があるようです。何故、奈良京都へ行きたいか、その原因を日本民族の回帰性の領域としている次第です。大きな人生問題に遭遇し、真面目に自己実現への道を思索したい時、奈良京都の古い神社仏閣、特に山岳宗教の香りのする所を訪問すると縄文時代のDNAが目覚めて何らかの気付くがあたえられるかもしれません。日本人の原型を大事にしたいものです。何を律するか、一番重要な「何の為にいきているのか」の問題の時は、この答えを妨げる雑念を排除するような律し方が大事なようです。









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自分は何処へ旅しているのだろう?:幸福な日々の為の自問自答

2018年06月01日 | 第15章自分は何処へ旅してるのか?
自分を律したい事柄の中で、何が一番人を幸せにするのでしょうか?一度しなない自分の人生、高齢者施設での人々の話の中で、一番辛い傾聴が「私の人生、何とつまらない人生だったのだろう?」と嘆く人々です。聴いていて本当に嫌になります。何故、嫌になるか、と言いますと、案外、若い頃から「悔いの無い人生」について真面目に思索していない事例が案外多いのです。そのような思索をしてこなかった「あなたが悪い」とは言えません、その方に、そんな話を出来るわけもなく、ただひたすら傾聴していくのですが、最後の最後まで、嘆きの連続の人が多いのです。お金持ちで健康なのに何故、嘆くのでしょう?人は天に向かってつばを吐きながら生きています。つまり自由意思があるにも関わらず、その自由意思を使っていないのです。病気ばかりの人生でも心から感謝し、生きる喜びを語る人々も多いのです。この違いはどこからくるのでしょう?「現実の受け止め方、現実の解釈」で、その違いが生まれてくるか、または、理想の設定に現実吟味力不測から異常な理想を形成している事例もあります。人間の全ての悩みはその人の生育史上の理想と現実のギャップから生まれてきますので、自己実現への道を時々立ち止まり、再検討して生きていかないと悔いだらけの人生を送る羽目になります。再検討する自分を保持するには自己実現への道を妨げるものを排除する必要があります。人は考えた通りの人間になる、と古来から言われています。自分の悔いの無い自己実現に向かい、邪魔なものを排除する律し方は本人にしかわかりません。意思あるところに道あり。何を排除し、何を保持るか、楽しみながら自分は今、何を律したいか、思索していきましょう。その思索のスタート地点は、現在感じている悩み、ストレスの中にあるようです。生身の人間である自分が今、なにを不満と感じているか、そのスタート地点の反対側に自分を律すると幸福になる事柄が潜在しているようです。










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