五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

表装と茶の湯

2015年02月11日 | 第2章 五感と体感
茶の湯の文化は、もろもろの作り手に付加価値を与えてくれました。
数寄屋作りの家の中に籠められた思いが「これが美である」という概念を一層見せる者、与える者に強く響かせる演出は、侘寂の文化形成に多大な進展をもたらせたように思います。

茶室に居ながらして自然界と深遠なる深さを体感します。炉にくべた墨の音と設えの意味を想いながら床の間の軸と花に眼を向けると、その日の茶会の意味が言わずとも見えてくるのが茶の湯であるからこその成せる技なのです。

口を開かず最小限の言語伝達の中に暗示と隠喩を汲み取る感性が具わる日本人のアイデンティティが生み出した芸術でもあり、コミュニケーションの形としては、かなりの知性と感性の力が無くしては挑むことはできないはずです。
その知性と感性を磨くためにひたすら学んだ人々が数寄者と呼ばれるのであれば、こんな羨ましい暮らし方はありません。

茶の湯が大ブレークした利休の時代に「私は数寄者」と自分から名乗る人が居たかどうかは知りませんが、堺の商人の旦那衆が没頭した贅沢なこの趣味は、酒や賭け事に溺れるよりも社会の経済を活性化させ、まさに旦那衆の秘密結社のようなものだったのかもしれません。

知性と理性の探究を美の概念と結び付けてゆく茶の湯の世界は、学び続けてゆくうちにいつしか見る目が華美なる物を遠ざけてゆくから不思議です。必要最小限を自然界の中から見い出す力を具えてゆくと審美眼も自ずと身についてゆくように思います。
そんな中で、床の間の表装に眼を向ける事は、茶会の亭主の持ち味に留めを指すと云っても過言では無いかもしれません。
それは何故かと云うと、表装として設えられるのは、文字であったり、画であったりするからです。
無言の伝達から具体性のある伝達のかけ橋が茶の湯の作法であるとすると、こんなサロンは他の国では見当たりません。

刀を扇子に置き換え、腹を探る者同士が同じ茶碗で茶を頂く場面では、亭主が凄腕のファシリテーターでなくては叶わないはずです。

本音の伝達をどこで示すか。
気付けば、感情が動きます。気づかなければ、それまでです。試されている事も承知のひととき。
数寄者修業の学びは終わる事の無い永遠の魅力だったのでありましょう。

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