五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

自己カウンセリング「2」不安感の正体

2011年03月16日 | 第2章 五感と体感
テレビやラジオだけではなく、インターネットの情報は機能さえしていれば世界中どこからでも瞬時に届きます。
皆があれこれ言っていても、被災地には、情報が届いていません。発信もできません。

この事実に気付いた人は、幸いかもしれません。

結局、最後は「本物の人から人へ」なのです。「アイコンからアイコンへ」は健全な状態での繋がりです。

東北関東に加え静岡でも大きな地震がありました。

関東に住んでいる私自身、三日間くらいは、茫然としながらテレビを見据えることしかできませんでした。我が家が生き延びるめの備蓄を点検しつつ、関東直下の大震災になったら、こんなものは一切役に立たなくなるかもしれないと思ったら、急に気分が楽になりました。通帳と印鑑と必要最小限のものを持ち逃げることがでいるだけで充分だと気付いたからです。

自分の身を自分で守るしか仕様がありません。




今、いったい自分は何が不安なのか?



被災地では、不安感を意識する暇もなく、生き延びることで精いっぱいのはずです。
仙台在住の友人は、市内を自転車で回り、食べる物を探しながら頑張っています。インターネットは繋がるようになりましたが、インターネットから救援物資を送るわけにはいきません。ほんとうに役立たず!と思います。

情報をだた見つめて自分の不安を煽ることだけは、避けていきたいものです。


今の自分の不安は、自分自身の中で生みだされるものです。多分、平常の生活でも傾向があったはずです。

不安を生みだす要因。そして自分の傾向を思い返し、今、いったい自分は何が不安なのか?自問自答してみるのが良いと思います。

そして、同時に、「今、私は何をすべきなのか」を考えてみましょう。

不安感で浮足立つ自分を、「今私は何をすべきなのか」と自問自答することで、短期的自己実現が見えてくるはずです。

帰宅難民を経験し、現在も交通網のマヒで仕事先に必死の思いで通っている人は、案外、東北地方や福島原発の情報で自分の疲労感とストレスがマヒしているかもしれません。
自分自身が健全だと思っていても、疲労していることは意識して暮らしていただきたいと願います。

ストレスが意識できないでいると、大きな事故や怪我に繋がります。

気を付けてお過ごしください。実際、12日に私が階段を踏み外し、腰を痛めました(ーー;)大したことはありませんが、もう一段上から落ちていたら大怪我したかもしれません。。。
そんなわけで、身を持って経験していること書いていきますので、皆様の暮らしに役立ててくださると嬉しいです。

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心と体と魂のケアー「1」

2011年03月15日 | 第2章 五感と体感
私が出来ることは、毎日ブログを書き続けることです。

具体的なメンタルケアーを書いているブログは少ないと思います。ブログでカウンセリングの理論を書き綴ります。

大地震から5日目です。

緊張していたり、心身の過大なストレスで、疲労感を感じず、いきなり身体症状に表れることもあるかと思います。

現在の自分の「ストレス曲線」を意識化することで自分の状態を知る必要がある方も多いかもしれません。

「ストレス曲線」

不安感
 ↓
怒り
 ↓
身体症状
 ↓

 ↓
錯乱

いま、御自分は、どのあたりでしょうか?

*わけがわからないけれど、「不安感」がつのっている人

*この状況に怒りを感じている人。。。政府の対応や他者の行動、お店の品不足に「怒り」を感じ、防衛機制の「感情転移」や「投影」の現象が出ている人

*身体症状・・・眠れない。涙が出てくる。体のどこかが痛い。持病が悪化する。チック。体が動かない。お母さんから離れられない子供等

*鬱・・・何もやる気がしない。気力がない。

*錯乱・・・統御感がなく、どうしていいのかわからなくなっていたり、不安感や怒りや身体症状を意識できない状態であったり


自分の状態、または家族の状態、子供の状態を観察することで、「不安な状態を意識化」することがメンタルケアーの第一歩だと思います。

体に触れることも大事です。互いに肩を撫で合いながら、手をしっかり握り、温もりを伝え合いましょう

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状況を見据える

2011年03月14日 | 第9章 愛
暫くブログが書けませんでした。
御心配をおかけいたしました。無事です。

11日は、新宿御苑のギャラリーを視察した後に、表装指導員の勉強会に出席し、その勉強会の最中に被災しました。
神宮前の明治通り沿いにある8階建ビルの4階に居ました。
2時46分、暫く軽く揺れ、その揺れがどんどん強くなってきます。立っていられない状態の中、皆で机の下に隠れました。
体の震えが止まらない人、ドアを開けた途端非常階段に飛び出してしまう人、私の場合、ドアを開けて見えるビルが揺れる様を見て、初めて異常事態を受容しました。
「先生の持ちビルは最新の地下鉄の真上に立っているため地盤は大丈夫だよ!外に飛び出さないほうがいいよ!」と声を掛け続け、パニック状態になっている年長者の方々になんとか安心してもらうことに専念しました。

揺れが治まり、明治通り沿いを窓から見ると人がワラワラと出てきています。でも、ガラス窓が割れることを予測している人は少なかったかもしれません。その危険を察知した人は近くの寺院に避難していたようです。

4時前、これは電車に乗るのは返って危険だと判断し、これからどうなるか解らない状況下、皆でとりあえず近くの大きなCaféに入り、腹ごしらえをしました。一時間ほどそこで待機したのですが、私はその時点で表装の先生のビルに一晩お世話になろうと決意しました。
でも、10人中7人が自分の家に向かって出てしまったのです。

結局一人は直ぐにホテルを予約し、二人は青山学院大学に避難し、一人は自力で帰宅、一人は自転車を借りて帰宅、残る二人は帰ることができないことを判断しビルに戻ってきました。戻ってきてくれた人は、判断が正しかったと思います。

6時くらいになると電話がなんとか通じるようになり、家族と両親の安否を確認した後、我が家のお隣と連絡を取り合い、自宅が倒壊したり危険な状況になっていないかを確認してもらい、雨戸を閉めていただきました。

家族の安否と自宅の確認が、精神的な不安を大きく軽減させました。

8時くらいになると表装の先生が「お腹空いたね」と呟き、そこでコンビニで早めに調達しておいたカップめんを頂き、満腹になったところで、大好きな表装の道具に囲まれつつ、先生の和室の仏間で夜を明かせて頂き、過度なストレスを持たず、ほんとうに助かりました。

ラジオの情報は有難かったのですが、テレビの映像は状況が解らない中、ただただ不安を煽るだけで、結局テレビを消し、心を落ち着かせたのも良かったかもしれません。

私が利用している東横線は夜中に動き出しましたが、夜の行動は危険なので、ともかく皆さんと一緒に行動することを選択したのも良かったと思います。同じ方向の先生のお嬢さんと一緒に無事7時にビルを出て8時半に帰宅しました。

家族が全員集合したのはお昼過ぎでした。
帰宅難民の息子の大学の先輩と我が家で共同生活し、尊い時間を過ごしました。先輩も昨日の晩、無事にお父様と合流でき、我が子同様、安心しました。

長々と書いてしまいましたが、今日より明日。。。です。不安感を具体的に解消しながら、今日をどう生きるかを一番大切にし、明日はよりよいことが必ずやってくることを信じて、まずは自分の生活を立て直していこうと思います。

関西方面で心配してくださっている勉強仲間の皆様、混乱してはいますが東京・横浜は大丈夫です。
東北地方の講座生の皆様の安否が気がかりです。ミクシイにもメッセージが入らない状態です。お祈りください。

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解釈の仕方

2011年03月11日 | 第2章 五感と体感


[写真:ルーブル美術館で彫刻と遊ぶシーリーズ]

自分自身を反省しようとすると、誰しも自分らしい解釈が自分を支配しているようです。

頑固なのか?
融通性が無いのか?
要領が悪いのか?
我がままなのか?
一つのことに対する探究心が旺盛で他が見えなくなってしまうのか?
真面目に考え過ぎているのか?
思い込みなのか?

自己反省もほどほどに、、とは、思いますが、湧き出してしまう自分の感情はなかなか抑えきれるものではありませんし、湧き出す感情に蓋をしてしまうと、自分の心の中で起こった違和感が自分自身を苦しめていくようです。

日々生活する中、付き合う人々が違うのに、やっていることは様々なのに、なぜ、自分に湧き出す感情にパターンがあるのか?

そのパターンの解釈は、案外、根っこが同じだったりすることもあるようです。
その根っこに隠れている「不安感」は、いったい何からくるものなのでしょう・・・

不安な感情ばかりに固執していては、前に進みませんが、根っこの不安感に焦点を当てることができると、自分を縛り、支配している「自己の解釈の仕方」に気付くかもしれません。

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神話の話

2011年03月10日 | 第2章 五感と体感


[写真:ルーブルで彫刻と遊ぶシリーズ]

ルーブル美術館の彫刻の写真をここ数週間アップしてきました。
そろそろ彫刻のネタが尽きてきそうです。

ルーブル美術館は、パリに観光目的に行かれる方でしたら必ず足を運ぶ場所です。

ウィーンの美術史美術館はハプスブルク家の洗練された絢爛さに息を呑み、建築や装飾のディテールに隙がありません。そんなわけで、あそこもここも。。。。と観続けているうちに、草臥れ果てるわけです。ルーブル美術館は、それに比べ少々目の置きどころに多少の余裕があります。
そんなルーブル美術館の中で私の好きな場所は、ギリシャ彫刻をディスプレイするために新たに設計し直したアトリウムです。
天井からのフィルターを通した白い光が、白い大理石を柔らかく包んでいます。

大理石の椅子に腰掛け、ギリシャの神々の彫刻を眺めていると、ユングの「感情の曼荼羅」を思い起こすのです。
神々の行いは、人間の感情が主体となっています。

湧き出す感情を抑制せず、時空を隔てず自由自在に自己表現する神々は、人間の感情を投影し、神々というフィルターを通して、私達に返ってくるのです。

神話を持たない民族は滅びる。。。比較宗教学、文化人類学を学ぶ前提として頭に叩き込まれてきた言葉です。

確かにそうだと私は思います。

人の「思考と感情と行動」を神話的比喩で語ることで、「人の存在について」を主体性ある「人」自身が吟味検証していくのではないかと思うわけです。

もしくは、今現在起きていることが、いつしか神話として語られる時が来る、ということも在り得るわけです。

確か、岡本太郎が「明日への神話」という言葉を作品のタイトルに使っていたように記憶しています。

日本の神話を素直な気持ちで読み返してみると、自分の奥深くあった核みたいなものに触れることができるかもしれません。

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自分を大切にしている?

2011年03月09日 | 第2章 五感と体感
いと
[ルーブルで彫刻と遊ぶシリーズ]

昨日の腰越はお天気に恵まれ、長閑な気分での勉強会となりました。

2月から新たなスタートとなった腰越勉強会は、長年通信講座で勉強されている方々が勉強会参加のみの方々をさりげなくというよりも身についた優しさと配慮によって、段々と安定した雰囲気となってきたように思います。
その配慮や優しさがロジャーズの6条件でいわれている「ラポール」を作り出すのです。

それと同時に礎のしっかりした柱が見えてきたようにも感じました。
大きな成果を沸々と感じつつ昨日は嬉しい気分で心が跳ねていました。

そのような中、昨日は「自分を大切にしているか?」というテーマを与えられました。

自分を大切にすることとは、自分を大切にせずして他者を大切にはできない、、、というテーマが含まれています。

「自分を愛するように人を愛しなさい」という聖書の言葉があるように、いきなり闇雲に「他者を愛しなさい」とは書かれていません。

自分あっての他者です。

自己受容している自分が他者と向き合っているのか。
自己否定している自分が他者と向き合っているのか。

それらは「自己の愛し愛される」ことについての自己概念と深く繋がっていきます。

夫、妻、親、子供、同僚、友達のことではなく、「自分自身の愛」について向き合う事ができることが、この学習の
スタートラインに立つ条件であるかもしれません。

スタートラインに立つことができないために苦しむ人のほうが、もしかしたら多いかもしれない、とも思います。

湘南の風に吹かれながら、ゆっくりとゆっくりと互いに学んでいくことが出来れば幸いです。

勉強会のお仲間皆様に感謝します。
本日参加できなかったお仲間の皆様も次回の勉強会を心待ちにしています。

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五感は自分のもの

2011年03月07日 | 第2章 五感と体感

「写真・ルーブルで彫刻と遊ぶシリーズ」

同じ香りを嗅いでも、ひとそれぞれの感じ方があります。
同じものを観ても、それぞれの見え方があります。

自分の体験している感覚は、自分のものであって他人のものではありません。

他人の感性に翻弄され、自分の五感を大切にできなくなってくると自分が意識していないところでアイデンティティの不統合が起きてくるようです。
だからこそ、自分の五感を大切にしてほしい、、と常々思います。

さて、昨日は金剛流の家元が「花軍(はないくさ)を舞われました」金剛流では百年ぶりの演目だそうです。
地謡には、私達の師も入り、能の始まりから、すでに整われている空気に衝撃を受けました。

「静」の空気を乱すことのない「動」は、エネルギーが宇宙に放出するような永遠の広がりとなって観ている私自身を自由にしていきます。

白菊の精(シテ)の佇まいと所作の連動が「在るもの」即ち「無きもの」として観えてきたのです。

地謡の響きも同じです。「在るもの」即ち「無きもの」なのです。

「存在であり非存在」において、自然界と精神の融合を目的とするならば、その存在そのものが人の窮みのように思えてきました。

普遍性という鋼ではなく柵も無い軸の美しさを、自分の眼で観たような気がしました。満足感とはこのことかもしれません。

明日は腰越の勉強会です。自分の五感と体感を大切にしつつ、和気あいあいと楽しみましょう。

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季節は巡る

2011年03月06日 | 第2章 五感と体感

[ルーブルで彫刻と遊ぶシリーズ]

試験期間からもそろそろ解放され、あとは春休みを待つだけですね。

花粉症の方は、いよいよ本格的に憂鬱な季節となってきました。

巡る季節を生きている年数分経験しているわけですが、不思議なことに新たな季節がやってくる毎に新鮮な思いが湧いてきます。

桜の花ひとつを取ってみても、節目の内容やその時の心情によって「自分に見えてくる桜」は違います。

東大寺本坊の襖絵を描いた小泉淳作さんは、「桜は誰もが描きたがるモチーフあり、誰もが喜ぶモチーフでもあるから、敢えて描こうとは思わなかった」とおっしゃっています。そして今回襖絵に吉野の桜を描いたのは、きっと己の中に何かを感じ取られたからなのでしょう。
一枚、一枚の花弁に魂を込め描いている様子に、この世の子供になったようなあどけなさと純粋さを感じずにはいられませんでした。

桜の花弁は、全体を眺めると淡いピンクに見えるのですが、花弁一枚をよく見てみると、限りなく白に近いのです。
限りない白の集まりが、ほのかに色を奏で出すと、寒々とした風景が一気に喜び溢れだしていきます。

今日は二十四節季の「啓蟄」
虫も土から這い出してくる頃です。

東大寺・二月堂の修二会(お水取り)は中盤となってきました。
お水取りが終わると春がやってきます。

命は、自分の意思を超え巡る季節と共に生かされているようです。だからこそ、季節の変化に五感を澄ましていたいものです。

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能の謡曲本を愉しもう

2011年03月04日 | 第2章 五感と体感

「ルーブルで彫刻と遊ぶ」

何故、国語の教科書に能の謡曲が取り上げられないのでしょう・・・
学校の課外教室では、能や狂言、歌舞伎鑑賞が行われているにも関わらず、教科書の中で学ぶ機会がありません。

頭から「難しいもの」と有識者までもが決めつけているような節もあるかもしれません。

でも、実際能楽に触れてみると、決めつけた思い込みが違う事がよく解るのです。

国語の中には「古典」という教科があります。
私達は、その古典を文法含めて、作品のあれこれの概要を学んでいます。
でも、それらは受験を意識したつまらないものになっているような気がしてなりません。

能のひとつの演目の謡曲をきちっと読んでみると、世阿弥の頃に既に古典であった古今和歌集や伊勢物語、万葉集、平家物語や源氏物語の一節がが時空を超えて登場し、ひとつの言い回しに「比喩」として描かれていることに気付きます。
どの時代でも文学に親しんでいる人であれば、謡曲は古典のパズルを組み立てるような気持になり、それがいつしか古典の知識と繋がり、気が付くと謡曲の内容を知るために古典を読んでいる自分がいます。

謡曲を読み解くには古典の知識が必要で、知識が繋がると謡曲の面白が倍増します。

古典とはいえ、それらは時代時代に即した言葉の連なりです。私達の祖先である大和人が描いた人の「思考と感情と行動」は現代に生きる私達となんら変わりはありません。

それらを比較考察しながら、日本人の感性の美しさを堪能し、自分自身の在り様と重ね合わせていくことができるのが謡曲の魅力だと思うのです。

謡曲の謡い本を一冊読めば、古典のエッセンスを学びとること間違いなしです。

長く伝えられている芸能には、伝わる意味があるから伝承されているのです。
「神話を持たない民族は滅びる」言葉は、後世の神話とも成りうる今を見据えていく上で意識しておかなくてはならない大事な言葉ではないかと、つらつら思います。

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卒業式と修二会と四旬節

2011年03月03日 | 第2章 五感と体感

[ルーブルで彫刻とあそぶシリーズ]

昨日は職場の卒業式でした。

ご卒業、おめでとうございます。

毎年、こうやって高校三年生を見送りながら、自分の高校時代の反省が沸々と蘇ってくるのです。
過ぎてしまったことをあれこれ思い巡らすことは、建設的なことではないとは思うのですが、「どれだけ自分の中に集中していたか?」ということに対する罪悪感みたいなものが湧きあがるわけです。

そんなことを思いながら、卒業証書を手にする生徒のお顔を拝見し、これからの人生のほうが長いのだから、高校生活までの自分を素地にして、あらゆることを体験するなか、そこから学びとり、前に進んでいく感性を磨いてほしいなぁ~と
節に願いました。

保護者会の会長が「人生において一番大切な時期である中学高校時代をここで過ごされ…」とおっしゃったことが、深く心に沁み入りました。イエズス会の神父様の言葉で「皆さんは、一人の人間であり、その主体性においての権利を大切にしてほしい」とおっしゃっられたことが強く響きました。つまり自分は自分であって、自分を守り育てていくのも自分である、ということを言われていたのだと思います。

学校という箱が一番苦手であった私が、学校の中で仕事をしていること自体、きっと自分と向き合いたくない自分と再度向き合う機会を天から与えられているのだろうな。。。とも思います。

互いに育み合うという事は、その人間関係において年齢差とか経験とかは、関係ありません。

人それぞれの体の奥から湧き出してくる感情は、自分を思考と行動に導いていく大切な要でもあると思います。
その積み重ねがいつしか個性の美となって自分を受容していくのに時間がかかる人もいれば、中高生ですでに備わっている人もいます。
遅かれ早かれ「自分は何のために生きているのか?」という問いかけに身を置く経験をするのは、人の業でもあると思っています。

見えない答えを追い求めているような求道者である自分をもう一度括るために、ここで修業を積みなさい、という事なのかもしれません。

東大寺・二月堂の「お水取り」も始まっています。昨日は若狭でお「水送り」が行われました。
「春」の到来は、区切りなくして始まりません。
修二会と四旬節の時期は、不安な自分に留まる勇気を与えてくれる尊い時期であるといってもよいかもしれません。

新しい出会いを楽しみたいものです。

改めてご卒業おめでとうございます。そして保護者の皆様、大きな節目の日を迎えられ、おめでとうございます。
子育てという言葉と概念から、徐々に解放されていくための儀式でもあるかもしれませんね。それぞれの旅立ちをそれぞれの立場で思索していく機会を、大切にしていきたいものです。


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シュールだね!

2011年03月01日 | 第2章 五感と体感

「ルーブルで遊ぶシリーズ」

国立新美術館でおこなわれているポンピドー所蔵の「シュルレアリスム展」を観てきました。

この展覧会は、一人で観るには孤独感が増しそうな予感がしたので、気の合う友達と一緒にシュールを楽しんできました。

一人で行くと何が孤独かというと、「シュールだね」という声を発せないからです。

違和感を感じたり、突飛な表現に共感したり、青さとか若さを感じたり、そのような感情を「シュールだね」という共通言語で表すことで、その場に居る自分を許せるようなそんな気分になるわけです。

シュルレアリストが作成した「エッフェル塔を舞台に時空を超越し操作する内容」のフィルムやシュルレアリスムを代表する「アンダルシアの犬」を今回初めて観ることができたことは幸運でした。
美術を語り合いながら生活していた学生時代を思い出し、懐かしい気分になったのは想定内のことでしたが、この展覧会で自分の成育史に心理学が入り込んできた要因のような原型が同時に見えてもきたのです。

ギリシャ神話、戦いの歴史、キリスト教文化、それらの抑圧からの解放を目指すような、または自己の防衛機制を皮肉ったような表現の中にも、しっかりとアイデンティティの中に揺るぎの無い歴史の厚みが素地としてあり、それらが分化を生みそれぞれの主義を作り上げていきます。19世紀末から20世紀にかけては、そのカオスが想像力・創造力をかき立てたと言っても過言ではないと思います。

シュルレアリストが描くアモールとプシュケ(ギリシャ神話の神様)に、何故か妙な安堵感を感じるのも、それらの素地のせいかもしれません。
創造と破壊をもたらしていく愛と疑惑と嫉妬がいつの世も繰り返され、再生復活していくには、カオス「混沌」の時期が必ず必要な通過儀礼だとしたら、シュルレアリスムという欲求は自然の摂理だったという思いが湧いてきました。

混沌から生みだすもの

見えてくるもの

それらを「シュールだね」と、呟くことは、平素のストレス発散と受容に繋がっていくようにも思います。

心理学者のカール ロジャーズは、自分の目の前に見えていることが自分にとってのリアリティだ、と云っています。
私が私であることは、私の現在を受容することから始まっていくのです。行きつくところも「私は私」です。

他者の「シュール」だけでなく「シュール」な自分を楽しむことを忘れたくないものです。

(シュルレアリスム=超現実主義)

理屈はどうでもいいとして「シュールだね!」と言い合える友達の存在に感謝(ΛωΛ)

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