五感で観る

「生き甲斐の心理学」教育普及活動中。五感を通して観えてくるものを書き綴っています。

光悦展

2013年11月17日 | 第2章 五感と体感
昨日で表装展が終了しました。家から離して人前に出すと反省したり学んだりで、正麩糊を使う難しさを改めて痛感し、それでも将来のことを考えると科学糊を使うことよりもこの選択は正しいと信じ、日本の伝統を頑なに守っていこうと決意を新たに決意した次第です。御来場に感謝いたします。

さて、表装展の講評会までに時間がありましたので、世田谷上野毛の五島美術館で開催されている「光悦展」を観てきました。

いくら高貴な家柄であっても目利きの好みには敵いません。
その違いは何なのかと、いつも思うのです。

審美眼というのは、お金では買えないものです。とはいえ、お金がかかる修業でもあります。
茶の湯の流行は、目利きの競い合いの時代でもあったようです。
ただし、目利きから良いものと言われるとそれらしく見えてくるのも一つの技でもあるかもしれません。
目利きの人格そのものに魅力がなくては人は好意を持たないとも思いますし、選んだものに裏打ちされる説得性も必要ですが、選んだものをどのように設え使うかという想像力はそれにもまして必要なものなのかもしれません。
つまり、利休にしても、光悦にしても、その時代のクリエーターであり、時代の先端を歩んだアーティストであったわけです。

絵を描く様な想像力を実現する力を持っている人はそうそう居ないので、その力を持っている人を頼りに審美眼を学んでいくことは、茶の湯の世界の大きな目的でもあるかもしれないと私は思っています。

茶道具にしても床の軸や花器、香合にしても、問答の中に「〇〇好みであります」という答え方がありますが、まさにその答え方が、習い好きの和のアイデンティティが育まれていく瞬間でもあるように思います。

その問答を繰り返していくうちに、徐々に本物を見分ける力が付いていくのだと思います。

審美眼は、持って生まれたものだけでは育たないものなのです。

いにしえの人々が大切にしてきた茶碗を360度しげしげと眺め、茶碗に付けられた銘から、その様子を想像し、改めて茶碗に目を落とすと銘の所以と茶碗の風情そのものが、まさにそれに見えてくるのが不思議です。
でも、その見えてくる力が備わらずしては、目利きの修業を積むことはできないはずです。

想像する力を育むことは自分の感受を磨くことを繰り返すことの成果とも云えそうです。

名古屋からやってきた茶碗「時雨」を観、飲み口の面が平に鋭く削られている様は、晩秋から冬に向かう季節、パラパラと冷たく当たる雨粒を唇に感じさせるような演出は流石であるなと思い、個人的には「七里」の茶碗に魅せられ暫しうっとりと眺めました。

軸に関しては、光悦の手紙等も多く表装されており、私好みのものが多く普段はやらないことなのですが、本紙に着せる裂や揉紙の取り合わせや色をメモに取りました。大いに勉強になりました。

京都や奈良の街中では経験したことが無いのですが、関東ではお高い食事を出すお店でも掛け軸がボロボロである所が多いのです。侘び寂とボロボロは違います。そんな時、心底哀しい気分になりますが、そんな気分に浸るよりも行動はオコサナアカン、と、表装文化をもっと表に出していきたいものです。

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12月6日から8日まで 神宮前の「渋谷のIMA」(神宮前6-17-14六英ビル4階)にて「ちいさく表装・作品展」を開催します。今回は各講座の指導員の表装を展示します。8日14時~15時まで表導会主宰者清水達也先生の掛け軸の取り扱い方を中心にギャラリートークを予定しています。いまようの住まいにも馴染む掛け軸をぜひご覧ください。

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