Mr.コンティのRising JAPAN

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東アジア選手権シリーズ 私の選んだ日韓戦ベスト5 その2

2005-08-07 | Football Asia
④ 後半逆転 海外で韓国に初勝利
1982年11月25日 インド ニューデリー アジア大会 日本2-1 韓国
同年3月ソウルで行われた日韓定期戦で 0-3 と完敗した日本。この年の目標は年末にインドで開催されたアジア大会であった。その初戦、強敵イランを 1-0 と破り続く南イエメンも逆転で3-1 と下す。一方の韓国はイランに敗れており、日本に勝たねばならなかった。韓国には現ユース代表監督の朴成華や張外龍、趙広来、李泰昊、崔淳鍋、朴景勲らがいた。前半から韓国は総攻撃をかけ、21分に姜信蔓寓のゴールで先制するが、日本も加藤久、越田、都並、田中孝らが応戦し最小失点に抑えると後半は木村和司、金田を中心にカウンター攻撃に。58分に岡田武史のクロスに原が合わせて同点とすると3分後に再び岡田が風間八宏からのパスをそのまま持ち込み韓国DFに手を引っ張られながらミドルシュートを韓国ゴールネットに突き刺し一気に逆転。手堅く守って後半勝負という森監督のゲームプランの勝利であったが、日本選手のテクニックとボール回しに韓国選手も及ばなかった。日本はこれで12年ぶりにアジア大会のベスト8に進出、準々決勝では優勝したイラクに延長戦で敗れるが、初めて私が今後に期待を掛けられると感じた大会であった。当時もちろんテレビ中継は無く、大会期間中NHKが毎晩放送したアジア大会ダイジェストでこれらの得点シーンを見た。これが日本以外で韓国から挙げた初勝利の試合という事を知ったのは数年後であった。

⑤ 韓国戦15年ぶりの勝利
1974年9月28日 東京国立 第三回日韓定期戦 日本4-1 韓国
公式発表での観客数はわずか12,000人その半分以上が在日の人達であった。それまで日本は韓国に2勝を上げただけで、最後に勝利を挙げたのは1959年のローマ五輪予選まで遡らねばならず、釜本が代表入り以降でさえ韓国には勝てなかった。しかしその鬱憤を晴らすかの様に釜本が2ゴールを挙げ韓国を 4-1と粉砕した。もう一人の立役者はブラジルからの帰化人選手ネルソン吉村こと吉村大志郎。そのフブラジル仕込みのボール捌きに韓国DFも翻弄され守備陣が崩壊していった。釜本は2年前の第一回日韓定期戦でも2ゴール( 2-2の引分け)しており韓国戦は通産で7得点挙げている。これはもちろん史上最高で続くのは永井良和、三浦知良、ゴン中山が3得点で、改めて釜本の偉大さが認識される。当時はメキシコ五輪組が釜本の他にGK横山、森、渡辺三男そして長沼健監督自身も残っていた。韓国も定評の高かった金鎮国、後に香港のプロに移った金在漢らがいたが世代交代という大きな課題を抱えていた。この敗戦をきっかけに韓国は若返りを図り、李栄武、朴成華、崔鐘徳、許丁茂そして車範根といった才能溢れる若手の時代が到来し日本は再び韓国に勝てなくなる時代が続いた。そしてこの試合が3年後に代表を引退した釜本が代表で韓国に勝てた唯一の試合となった。

たった今、日本が韓国戦11勝目を挙げたニュースが伝わってきました。はやく帰国してこの試合を見たいです。やったぜ日本。 ニュージーランドからでした。

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2 コメント

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TBありがとう (コンビニ店長)
2005-08-08 11:14:12
ニュージーランドにいるんですか

 日韓戦は、勝ったけど、ハラハラドキドキのゲーム展開でしたよ
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日韓戦 (Mr.コンティ)
2005-08-10 23:51:34
コンビに店長様

コメントありがとうございました。はらはらでしたか。でも勝って良かったです。これからボンフレール監督は大変でしょうね....
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