ここ最近日本のマスコミがスポットを当てる欧州のサッカー事情は NAKAMURAのいる Scotland だ。先々週の Old Firm , そして先週は俊輔が初ゴールと話題は事欠かない。地元誌でも Nakamuraは Topicを提供してくれる有り難い存在らしいが、Celtic でもう一人話題になっている外国人選手がいる。今季 Poland の Wisla Krakowから£220万でやって来た Maciej Zurawskiだ。Rangers 戦の前では ストラッカン 監督がスタメンから外すと言う“冒険”に出るかと噂され、実際にスタメンから外されたが、翌週の Dunfermile Athletic戦では2得点を挙げ現地紙の見出しを独占した。現在 Scotland Premierには4名のポーランド人選手が活躍するが、当地でポーランド人選手の奔りと言えば 1989年 Legia Waszawaから£50万で Celtic にやってきた Darius Wdowcyzk それから2ヶ月ほど経ってやってきた PolandのGeorge=Best こと Dariusz Dziekanowskiの二人だ。二人は好対照であり何かと比較されたらしい。華やかだったのは Dziekanowskiの方で、同年 UEFA 杯のPartizan Beograd 戦で4ゴールを上げチームを 5-4と勝利に導いた。 Wdowcyzk の方は当時 Poland 代表の主将を務めていただけあって、その人望が人気で有った事であろう。
しかし、当時の Polandは凋落の一途を辿っており、ワールド杯、欧州選手権は本大会に進めずにいた。Polandの最盛期は何と言っても 70年代から80年代前半の時期だ。ミュンヘン五輪金メダル、モントリオール五輪銀メダル。そして74年西ドイツワールド杯はイングランドを破って予選を突破し3位。続くアルゼンチン大会でもベスト8。そして集大成は82年のスペイン大会の3位だ。ミュンヘン五輪からの10年間はほぼ同じメンバーが中心となって様々な大会に臨めた。 GKはトマシェフスキー, ムイナルチク DFはゴルゴン、ジムーダ、ルバンスキーFWに主将のディナ、ラト、シャルマッフ、そして スーパーエース ボニェク。彼らの非凡さは数字にも現れており、ミュンヘン五輪ではディナが、モントリオール五輪ではシャルマッフ。西ドイツワールド杯ではラトが得点王。そしてスペイン大会ではボニェクがベルギー戦でハットトリックを含む5得点で得点王のロッシに次いで2位。東欧にPOLAND有りと言わしめた時期であった。スペイン大会後徐々に Polandサッカー界も門戸を広げ出し、ムイナルチク、ボニェクらが西側諸国に旅立った。特にムイナルチクは 86-87 Champions Cup で優勝した FC Portのメンバーでもあった。しかし、86年メキシコ大会を最後に世界の舞台から遠ざかってしまう。1992年バルセロナ五輪で銀メダルを勝ち取り、ユスコビャック が得点王 ( 7得点、これはメキシコ五輪の釜本と並んで五輪の得点王記録) に輝くなど将来に期待されたが欧州の予選を勝ち抜けなかった。その嘆きは1981年に若手主体で日本に遠征し4試合を無敗で ( 0-2, 2-4, 1-4,0-3 ) Lessonをした相手に1996年2月、香港のカールスバーグ杯で0-5 と敗れた時に最悪になった。その5年後、ウクライナ等を押さえて16年振りに世界の舞台に立つ事が出来たが、その立役者 オリザベテはアフリカからの帰化人選手であった。1995年から Poland League にアフリカ系の選手が登場する様になったが市場経済導入から5年を経てようやく自国リーグの“プロ化”が定着してきた事に寄与する。かつて2軍メンバーを擁しても一蹴した相手にホームで 0-2 と敗れる様になったのは日本が強くなったのと Poland が弱くなった象徴だ。 来年のワールド杯。日本は早々と突破を決めた。果たして Poland は? 中村と Zuwarski がドイツで対決するだろうか?
しかし、当時の Polandは凋落の一途を辿っており、ワールド杯、欧州選手権は本大会に進めずにいた。Polandの最盛期は何と言っても 70年代から80年代前半の時期だ。ミュンヘン五輪金メダル、モントリオール五輪銀メダル。そして74年西ドイツワールド杯はイングランドを破って予選を突破し3位。続くアルゼンチン大会でもベスト8。そして集大成は82年のスペイン大会の3位だ。ミュンヘン五輪からの10年間はほぼ同じメンバーが中心となって様々な大会に臨めた。 GKはトマシェフスキー, ムイナルチク DFはゴルゴン、ジムーダ、ルバンスキーFWに主将のディナ、ラト、シャルマッフ、そして スーパーエース ボニェク。彼らの非凡さは数字にも現れており、ミュンヘン五輪ではディナが、モントリオール五輪ではシャルマッフ。西ドイツワールド杯ではラトが得点王。そしてスペイン大会ではボニェクがベルギー戦でハットトリックを含む5得点で得点王のロッシに次いで2位。東欧にPOLAND有りと言わしめた時期であった。スペイン大会後徐々に Polandサッカー界も門戸を広げ出し、ムイナルチク、ボニェクらが西側諸国に旅立った。特にムイナルチクは 86-87 Champions Cup で優勝した FC Portのメンバーでもあった。しかし、86年メキシコ大会を最後に世界の舞台から遠ざかってしまう。1992年バルセロナ五輪で銀メダルを勝ち取り、ユスコビャック が得点王 ( 7得点、これはメキシコ五輪の釜本と並んで五輪の得点王記録) に輝くなど将来に期待されたが欧州の予選を勝ち抜けなかった。その嘆きは1981年に若手主体で日本に遠征し4試合を無敗で ( 0-2, 2-4, 1-4,0-3 ) Lessonをした相手に1996年2月、香港のカールスバーグ杯で0-5 と敗れた時に最悪になった。その5年後、ウクライナ等を押さえて16年振りに世界の舞台に立つ事が出来たが、その立役者 オリザベテはアフリカからの帰化人選手であった。1995年から Poland League にアフリカ系の選手が登場する様になったが市場経済導入から5年を経てようやく自国リーグの“プロ化”が定着してきた事に寄与する。かつて2軍メンバーを擁しても一蹴した相手にホームで 0-2 と敗れる様になったのは日本が強くなったのと Poland が弱くなった象徴だ。 来年のワールド杯。日本は早々と突破を決めた。果たして Poland は? 中村と Zuwarski がドイツで対決するだろうか?
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