このところ、天気予報では曇りの日々が続いていますが、日中かなりの時間、太陽が顔を出し、梅雨時なのに洗濯物がよく乾き、とても、ありがたいと思う今日この頃。
はい、いつものように、ボケ防止の為、いろいろ頭を使います、動かします、考えます。兎に角、歳をとるにつれ、頭を動かすと、以前より頭が熱くなり、頭に汗をかく傾向が、より顕著になった気がします。
それで、”頭を使え!”と云う言葉を聞くと、思い出すのは相撲の稽古中に、親方が弟子に”もうすこし頭を使え!”と指導したら、弟子の力士は、頭を相手の身体に擦りつけたそうで、馬鹿!そう云う事じゃない!と親方に怒鳴られたそうです。
因みに、脳は、一日に消費するエネルギーの20~25%を占めるそうで、重さは体重の2%程度なので、頭を使うと、それなりにお腹が空く?
はい、それでは、話は変わって、権力と権威のお話、これが気になっているのです。
前回、
「頼朝も、家康も、マッカーサーも、権力と権威を分離して、権威として、文化として、歴史として、天皇制を存続させた」
と書きました。
日本は「神の国」という方が居られるように、神代の昔から、令和の現代まで、元号が、天皇制が、存続しているのです。
何故なんだろう、どうして何だろう、と、私は考えるのです。
それで、先ずは、天皇朝廷が権力と権威をともに支配していた時代から、平安後期、武士が権力を奪取し、鎌倉幕府を成立させた時代あたりから考えます。
因みに、鎌倉幕府の成立年ですが、これまでは、源頼朝が朝廷より「征夷征夷大将軍」の官位を与えられた1192年を、鎌倉幕府の成立…「いい国...1192年...つくろう鎌倉幕府」…としていました。
それが、いまでは、鎌倉幕府の成立は実質的に武力により権力を奪取した1185年と…「いい箱...1185年...つくろう鎌倉幕府」…見なすのが、日本史学会?の最近の風潮と 本郷和人さんが「世襲の日本史」で述べていました。
まあ、それは、それとして、天皇朝廷より、権威も権力も奪取して、鎌倉幕府の成立とはなりませんでした。天皇の権威に歯向かう事は、しなかった?できなかった?
それで、古来より、政治、経済、宗教等々、日本が手本としてきた中国の支配構造なのですが、「秦の始皇帝」より現代まで、権力と権威を併せ持つ「皇帝」による支配が続いていたのです。
何故に、中国では権力と権威が分離せず、何故に、日本では権威と権力が分離したのか、権力を失っても、天皇の権威は、神代の昔から、現代まで存続しているのか?
それで、なんですが、皇帝の居なくなった、現代の「中華人民共和国」では、共産党が権威と権力の中心にいます。
これは、秦の始皇帝以来の支配体制です。これって、もしかして、共産主義の問題ではなく、中国固有の歴史的、文化的な問題なのかも?
何て、ことで、その答えが書いてありそうと思い、このところお世話になっている、NHK出版発行の新書本「腐敗と格差の中国史」岡本隆司著 850円+税を、先日、買い求めたのでした。
新書本です。850円+税です。それなのに、それなのに、
「…高位を独占する門閥と下積みに沈淪しつづける人々とが、かくて截然と分断される。ここに貴賤の差別が牢乎と固まった…」
何て記述が、そこかしこなのです。
そして、そして、嚮導、不羈、反撥、趨勢、挙措、膾炙、何て、小難しい熟語が、旧漢字も、そこかしこなのです。
「ムズカシイ事はやさしく、やさしいことは深く、深いことは面白く」これこそ!自分の思いを広く知らしめる、基本の基、いろはのい、です。
これは、たぶん、著者の岡本隆司さんは、かなりのご高齢かと思いきや、1965年生まれで58歳前後で、文学博士で中国が専門のようです。中国に関わると、やたらムズカシイ漢字を使い、小難しい表現を好むようになるの?
そのせいでしょうか、私が先日買い求めたものは、2019年4月10日第1刷本でした。3年間増刷なし、まあ、この手の本はあまり売れない?
ヤバイ!かなり、かなり、悪口を綴ってしまった。
話は戻して、兎に角、何故に、中国では権力と権威が分離せず、何故に、日本では権威と権力が分離したのか、権力を失っても、天皇の権威は、神代の昔から、現代まで存続しているのか?
これらは、わたしとして、とても、とても、大きな謎です!疑問です!ホント!何故なんだろ?どうして何だろう?
まあ、私としては、大雑把ですが、中国は、大陸国家で多民族国家、日本は海洋国家で、四方を海に囲まれた島国国家で、「ほぼ」単一民族国家。
この違いが、大きな要因では、と、思ったりしているのです。では、では、その結論に至る過程とか、理由とか、求められても、お答えするのは、とても、とても、ムズカシイのです。
天皇朝廷時代から、武家の鎌倉幕府の時代に移行した頃、権威としての天皇という存在を、将軍頼朝、配下の武将たち、一般の武士たち、そして、一般庶民は、どのような存在として認識していたのか? 何て、考えたりしているのです。
天皇一族の、権威と権力の正当性を、神との連続性を、現した『古事記』は、和銅5年(712年)に、『日本書紀』は、養老4年(720年)に編纂されています。
この二つの物語は、500年ほど後の、武家社会に、一般庶民に、どの程度浸透していたのか?
印刷技術の無い時代ですから、写本に写本を重ねての500年です。このあたりの事情は、とても、とても、知りたいです。
源頼朝も、織田信長も、徳川家康も、天皇よりも自分のほうが偉いと思っていた節は、それなりに、垣間見られる事象がちらほらなのですが、権力者として、それなりに権威を利用した方が得策と考えていたようなのです。
因みに、突然ですが、世の中で、ひっそりと、囁かれている説で、かの経済学者ケインズの、金融市場における投資家の行動パターンとして、「美人コンテスト理論」が知られています。
…ケインズは、玄人筋の行う投資は自分自身が良いと思うところに投資するのではなく、他の人が良いと思う投資先に投資する…と考えました。
これは、美人コンテストにおいて、自分が美人だと思う人に投票せず、他の多数の審査員が美人だと思うだろう、候補者に投票する、行動パターンに類似する…。
この行動パターンは、天皇制にたいする認識に、それとなく繋がる理論のようです。
源頼朝も、織田信長も、徳川家康も、天皇を自分は偉いとは思わないが、世間一般は、みんなは、多数は、偉いと思っているだろうから、それなりに処遇し、利用する方が得策、と、考えていたのかも?知れません。
因みに、わたくし、いまでは、統合の象徴としての天皇は必要だと考えています。
本日、家康からは、かなり、かなり、逸れました。
まあ、それでも、それなりに、ボケ防止とはなりました。
兎に角、これでお終い。
それでは、また。