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“原節子を何となく” その⑤ 27年で108作品

2011年06月11日 | 原節子
昨日は、何となく、更新をさぼってしまい、一昨日の続きとなります。

まぁ、何となく“原節子”と云うことで、“原節子 あるがままに生きて”を読みつつ、綴っているわけなのです。

それで、わたしとしては、原節子と云えば「東京物語」であり、「晩春」であり、「秋日和」であり、「東京暮色」なのです。すべて小津作品で、それ以外は知らなかったのです。

今回、いろいろ調べてみたら、驚く事に戦前は51作品、戦後は57作品の合計“108本”に出演しているのでした。

デビューが1935年の「ためらふなかれ若人よ」で、最後の作品が1962年の『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(稲垣浩 監督)でした。27年間で108作品です。

それで、デビューしてから2年目、1937年の日独合作映画『新しき土』で、原節子は日本を代表する女優になったそうです。未だデビュー2年目の17歳で、12本目の作品でした。 

映画宣伝のためにドイツにも出掛けているのです。17歳には見えません。その当時でも大人びて見えたのか、歳相応だったのか?
     

確かに輝いている。


十代の頃の方が、より西欧的な顔立ちに見えます。著者の貴田さんが書いていますが、ちょっと見“宮沢りえ”かも?
     

15歳でデビューして、42歳で引退したわけです。今の42歳は、まだ、まだ、若いのですが、50年前の42歳は、永遠の処女としては、かなりムズカシイ段階に入っていたのでしょう。

“原節子と云えば小津”ですし、「東京物語」は二人の代表作品です。その小津監督との作品は108本なかで4本。原にとっては単に108分の4本ではなかったようです。

原節子67作品目、1949年の『晩春』が初の小津安二郎監督作品で、
2作目が75作目の『麦秋』1951年で、
3作目が81作目の『東京物語』で1953年で、
4作目が91作目の『東京暮色』で1957年で、
5作目が106作目の『小早川家の秋』で1961年、これが最後の小津作品となります。

小津は、その後に、「秋刀魚の味」を1962年に撮り、翌年の12月12日に頸部にできた癌で亡くなっています。

原節子の最後の作品が『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』で1962年の11月の公開、最後と云っても、引退会見をした訳でなく、後になって最終作品と云われるようになったのです。

12月の小津の葬儀では、女優原節子ではなく、本名の“會田昌江”で弔意をあらわしていたそうです。

※追記
「秋刀魚の味」ですが、中学1年の時に、浅草の国際劇場?有楽町の日劇?かそれとも池袋の映画館?そのいずれかで観ているのです。

「秋刀魚の味」の、“サンマ”を漢字では“秋刀魚”と書くのを始めて知って、妙に気になった記憶があり、数学の授業中、教科書の余白に“秋刀魚の味”と書いて、先生に叱られた記憶があるのです。

それで、その数学の教師なのですが、未だ若い女性教師で、お嬢様のような雰囲気で、明るいスーツを着て、とても可愛らしい“太陽の陽子さん”みたいな先生でした。それにしても、“おひさま”は好調のようです。

主演の真央ちゃんの“表情”がとてもイイです。とくに“驚いたとき”の表情が、たまらなくカワイイです。

NHK朝の連ドラは“戦争が入る”と、いつでも、とても視聴率がとれるのです。戦争は究極の舞台です。庶民が歴史の流れに翻弄されるとドラマが生まれるのです。

でも、しかし、小津の作品は、波瀾万丈でもなく、究極の絶対絶命でもなく、英雄豪傑の大歴史スペクタクルでもなく、単なる庶民のフツウの日常を、淡々と写し撮り、淡々と人間を描いていて、フツウにスゴイのです。

追記が長くなってしまいました。

それでは、また来週。


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