昨日の続きです。
温泉旅行の話しが、かなり「横道」に入り込んでいます。
それで、「矢板武記念館」の「HP」の記述にある「矢板玄」のこと何ですが、何処かで聞いた覚えがあるのです。あの人の事ではないか?と、「ピン」ときたのです。
パソコンの前から立ち上がり、5歩ほど歩いて「本棚」の前に行きました。確か、この辺だと思い、背表紙を眼で追いました。
この本です!
祥伝社刊 柴田哲孝著 「下山事件 最後の証言」です。
急いで表紙を開き、目次を見ました。ありました!
以下、目次
――――――――――――――――――――――――――――
第三章 総師・矢板玄
一、矢板玄に会いに行く
二、矢板機関とM資金
三、キャノン機関
四、下山事件に迫る
――――――――――――――――――――――――――――
早速、「矢板玄に会いに行く」のページを見たのです。
『・・・・・・早朝の都内の雑踏を抜け、東北自動車道に乗った。・・・・・・矢板玄―――大正四年(1915)、栃木県矢板市生まれ、父は矢板玄蕃・・・・・・』
間違いありませんでした。あの「矢板玄」の生家が、この「矢板武記念館」だったのです。
この本は、今から2年前に読んだのですが、「しっかり」覚えていた自分に驚きでした。未だ大丈夫なようです。
この本で「矢板玄」の「矢板機関」が「下山事件」の「実行犯」とされています。
前列の中心に座っている軍服姿の男性が「矢板玄」です。
「下山事件 最後の証言」より。
下山事件とは、今から58年前の占領時代に起きた「謀略事件」です。多くの謎に包まれ、真実は今でも「闇の中」です。
中心的な役割を担ったとされる人物は、全て「死亡」しています。「矢板玄」も、亡くなりました。
このブログで、去年の11月17日に「下山事件」について書いています。
『・・・・・・昭和24年7月6日午前零時19分に、貨物列車により轢断された国鉄総裁「下山定則」の死体が発見された。現場は常磐線綾瀬駅の手前で、東武伊勢崎線と交差する、線路が緩やかにカーブし、前方が見にくい地点だった・・・・・・』
※GHQ組織図・・・「下山事件 最後の証言」より。
「GHQ」、「マッカーサー」、「参謀第二部(G2)」、「民政局(GS)」、「キャノン機関」、「M資金」・・・・・・こんな「文字」を見つめていると、占領時代の闇に包まれた「モノクローム」の「世界」が、目の前に「現れて」くるのです。
下山事件は、関連書籍それ自体が、一つの「謀略」の匂いがする、「複雑怪奇」な事件です。この「最後の証言」も、「最後の謀略」かも知れないのです。そこが、「面白い」のです。
それと、下山事件に「関連」する「場所」が、私のこれまでの「生活圏の側」に「いくつも」ある事が、余計に興味をそそるのです。
下山総裁の衣服に付着していた「油」、「塗料」から、赤羽の「鈴木金属」の名前が出てきます。「鈴木金属」は以前に住んでいた場所から、5分ほどの場所にあります。
そして、犯行現場の「一つと推理」された、占領軍の兵器修理工場への「引き込み線」は、子供の頃の遊び場で、当時は「レール」が残っていました。
これが「現在」の「引き込み線」の跡地で、今は「長い」公園になっていて、引き込み線であった事を示す、線路の「模様」がタイルで描かれています。
下山総裁を「轢断」した「貨物列車」は「田端機関区」から出発したのです。そして、「轢断現場」は「常磐線」の「北千住」と「綾瀬」の中間地点でした。
これが、轢断現場に近い「常磐線」のガードです。最初の場所から高架工事の為、現在の場所に移されました。
このガード下に「追憶碑」があります。
「下山事件」は「面白い」です。
鬼怒川温泉の話しから、かなり「脱線」しました。
明日は、温泉旅行に戻ります。
それでは・・・
温泉旅行の話しが、かなり「横道」に入り込んでいます。
それで、「矢板武記念館」の「HP」の記述にある「矢板玄」のこと何ですが、何処かで聞いた覚えがあるのです。あの人の事ではないか?と、「ピン」ときたのです。
パソコンの前から立ち上がり、5歩ほど歩いて「本棚」の前に行きました。確か、この辺だと思い、背表紙を眼で追いました。
この本です!
祥伝社刊 柴田哲孝著 「下山事件 最後の証言」です。
急いで表紙を開き、目次を見ました。ありました!
以下、目次
――――――――――――――――――――――――――――
第三章 総師・矢板玄
一、矢板玄に会いに行く
二、矢板機関とM資金
三、キャノン機関
四、下山事件に迫る
――――――――――――――――――――――――――――
早速、「矢板玄に会いに行く」のページを見たのです。
『・・・・・・早朝の都内の雑踏を抜け、東北自動車道に乗った。・・・・・・矢板玄―――大正四年(1915)、栃木県矢板市生まれ、父は矢板玄蕃・・・・・・』
間違いありませんでした。あの「矢板玄」の生家が、この「矢板武記念館」だったのです。
この本は、今から2年前に読んだのですが、「しっかり」覚えていた自分に驚きでした。未だ大丈夫なようです。
この本で「矢板玄」の「矢板機関」が「下山事件」の「実行犯」とされています。
前列の中心に座っている軍服姿の男性が「矢板玄」です。
「下山事件 最後の証言」より。
下山事件とは、今から58年前の占領時代に起きた「謀略事件」です。多くの謎に包まれ、真実は今でも「闇の中」です。
中心的な役割を担ったとされる人物は、全て「死亡」しています。「矢板玄」も、亡くなりました。
このブログで、去年の11月17日に「下山事件」について書いています。
『・・・・・・昭和24年7月6日午前零時19分に、貨物列車により轢断された国鉄総裁「下山定則」の死体が発見された。現場は常磐線綾瀬駅の手前で、東武伊勢崎線と交差する、線路が緩やかにカーブし、前方が見にくい地点だった・・・・・・』
※GHQ組織図・・・「下山事件 最後の証言」より。
「GHQ」、「マッカーサー」、「参謀第二部(G2)」、「民政局(GS)」、「キャノン機関」、「M資金」・・・・・・こんな「文字」を見つめていると、占領時代の闇に包まれた「モノクローム」の「世界」が、目の前に「現れて」くるのです。
下山事件は、関連書籍それ自体が、一つの「謀略」の匂いがする、「複雑怪奇」な事件です。この「最後の証言」も、「最後の謀略」かも知れないのです。そこが、「面白い」のです。
それと、下山事件に「関連」する「場所」が、私のこれまでの「生活圏の側」に「いくつも」ある事が、余計に興味をそそるのです。
下山総裁の衣服に付着していた「油」、「塗料」から、赤羽の「鈴木金属」の名前が出てきます。「鈴木金属」は以前に住んでいた場所から、5分ほどの場所にあります。
そして、犯行現場の「一つと推理」された、占領軍の兵器修理工場への「引き込み線」は、子供の頃の遊び場で、当時は「レール」が残っていました。
これが「現在」の「引き込み線」の跡地で、今は「長い」公園になっていて、引き込み線であった事を示す、線路の「模様」がタイルで描かれています。
下山総裁を「轢断」した「貨物列車」は「田端機関区」から出発したのです。そして、「轢断現場」は「常磐線」の「北千住」と「綾瀬」の中間地点でした。
これが、轢断現場に近い「常磐線」のガードです。最初の場所から高架工事の為、現在の場所に移されました。
このガード下に「追憶碑」があります。
「下山事件」は「面白い」です。
鬼怒川温泉の話しから、かなり「脱線」しました。
明日は、温泉旅行に戻ります。
それでは・・・