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歩く・見る・食べる・そして少し考える・・・

近所を歩く、遠くの町を歩く、見たこと食べたこと、感じたことを思いつくままに・・・。おじさんのひとりごと

成瀬巳喜男の『めし』で原節子を観る・・・その3 仕手戦

2013年09月02日 | 原節子
先週からの続きです。

帰りたい、帰れない、迎えにも来ない、電話の一本も来ない。

この状況が、このまま続けば、互いの意志に反する結果を迎えるのです。ここで、いろいろな都合により、もう一度、夫婦の行き違いすれ違いの場面での会話を考えます。

妻が同窓会で少し遅くなり帰宅すると、買ったばかりの亭主の靴は盗まれていたり、食事の支度もしてないし、食卓には姪と二人で仲良く紅茶を飲もうとしたり、


姪は鼻血を出し二階で寝ていたり、妻の手拭いで鼻血を拭いたり、


亭主は、甲斐甲斐しく枕元で、


それなりの時間看病していた痕跡があったり、
・・・・・・・。

亭主のワイシャツに姪の鼻血がついていたり、


そして、こんな状況で、それでも、亭主は、
「あ~、腹へった! 飯にしないか?」
「あなたは、私の顔を見るとお腹が空いたって事しかおっしゃらないのね」

遂に日頃の不満は爆発します。


「あなたは、私が毎日毎日、どのように暮らしているか、お考えになった事があります、結婚てこんなことなの、まるで女中のように、朝から晩までお洗濯と御飯ごしらえであくせくして、偶に外へ出て帰れば嫌な事ばっかり・・・私、東京へ行きたいの、東京へ出て働きたい、このままでは、とっても堪んないわ・・・」


云われても何も答える事のできない夫。でも、それなりに思い返したり、疑問を抱いたり、反省したり、戸惑ったり・・・。

“東京へ行きたい!東京へ出て働きたい!”とは、別れたい!と云うこと? 働くだけであれば大阪でも働けるし・・・。

“結婚てこんなことなの”と云われても、飯炊いて、洗濯して、掃除して・・・、結婚は、そんなものと云えば、そんなものだし・・・。

俺のことが嫌いになった?そう思われても、どうしたらいいのか? 確かに、経済的な苦労はさせていることは、それなりに分かっているが・・・。

だからと云って、まさか、“このままではとっても堪んない!”と云われても、そう簡単には、はい分かりました、これからはすべて君の満足するように何とかします、何て、簡単に云えないし・・・・・・。

何てことを、肩肘ついて横になり考えていたように思うのです。

そして、数日後、同僚と別の株屋の社長に、“仕手戦”に一枚噛まないかと誘われ、大きなキャバレーで接待され、酔っ払って帰宅。


そして、酔った勢いで、酔った頭で、先日の件に対して、彼として、解答らしきことを口走る。

「今夜はねェ、すげェ~とこ、行ったんだぞォ、千人の女給、千人のダンサーがいるんだ、雑然として、多種多様なんだ、社会はねェ、立派なもんですよ・・・立派ですよ・・・立派ですとも」と、云って酔いつぶれるのでした。

女給千人、ダンサー千人の“すげェ~キャバレー”で接待されるこの俺は、それなりに“すげェ~”のだと、雑然として、多種多様な社会で、それなりに生きていく事は、それなりに大変なことで、立派なことなのだ・・・、と、云う意味かと?

でも、原節子は醜態を晒す夫に呆れるばかり。

ところで、ここで、ちょっと、社会科のお勉強です。“仕手戦”なんですが、企業の業績に関係なく、売り手と買い手が語らって株価を操作し売り抜けて違法に儲けることを云います。

この作品は1951年の制作で、1950年の朝鮮戦争で“特需”があり、翌年に、休戦交渉が進展するとの情報で、繊維相場が暴落したそうで、世に言う、“糸へん暴落”が起こった年なのです。

ですから、原節子が“職安”前にできた長蛇の列に現実の厳しさを知り、加山雄三のお父さんが、仕手戦の誘いを断った事で、勤め先の株屋を損害から守ったりと、それなりに、この時代背景が、それとなく描かれていたのです。

話しが横道にそれてしまった。

この続きは次回。

それでは、また。


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成瀬巳喜男の『めし』で原節子を観る・・・その2 矢向駅はいまでも六十数年前の撮影当時と変わらない風景を残しています

2013年08月30日 | 原節子

一昨日の続きです。

三千代(原節子)が降り立ったのは、


「矢向駅」とあります。いったいこの駅は何処に?と思って調べてみたら、東京ではなく神奈川県は横浜市の鶴見区にある南武線の駅でした。東海道線を川崎で降り、南武線に乗り換え二つ目の駅です。

調べついでに、現在の駅がどう大変貌を遂げているのかと思い、グーグルのストリートビューで見たら、何と、何と、60数年の歳月が過ぎているのに、ほとんど当時のままでした。


映画と近い角度で見ると、こんな感じで、駅舎は外壁を白く塗装しただけで、昔のままです。駅前の樹もそのままです。


話しを戻します。

実家に近づき笑顔になる原節子、やはり笑顔が似合います。


駅前の風景が、もう、堪らなく、とても、懐かしいです。こういう風景は、落ち着くというか、馴染んじゃうというか、こころの風景と云うか・・・。


店先から中を覗くカット、地面は未舗装でデコボコで石ころがちらほら、こういう感じでしたよ、当時わたしが住んで居た東京の外れ板橋区でも、でも、これはたぶんセット?


娘を優しい笑顔で向かい入れる母親“杉村春子”そのうちに怖い顔で娘を叱ると思っていたのですが・・・。


大阪には戻らない決意で居たが、職探しで訪ねた職安前の行列に、現実の厳しさを知り・・・。


行列を見つめるこのカットの原節子がイイ! 背景の高圧鉄塔がまたイイ!


職安前で出会った子連れの幼馴染み、敗戦後5年、未だ帰還しない夫、失業保険も残り3ヶ月、一人で生きていく事の厳しさを知り・・・。

男の子の髪型、とても懐かしいです。いわゆる“坊ちゃん刈り”当時はみんな男の子はこのスタイルでした。昔の自分が画面に居るようです。

自分の境遇を羨ましがられ・・・。


そんな、二人の前をチンドン屋がとおり、幼馴染みは“あれ御夫婦じゃない”“そんなこと、どうして分かるの”“だって歩き方があんなに巧くあうじゃない”

帰らぬ夫を待つ女、一人生きる厳しさ、一つの曲を奏で歩調を合わせ前に進む夫婦、ほんのすこし少し気持ちに変化が・・・。

このチンドン屋のシーン、夫婦のかたちを象徴したのでしょうが、二人だけのチンドン屋は何か、とても、不自然で寂しいです。

演じている二人の表情が硬いのです。当時、チンドン屋さんはもっとにこやかでした。これって、もしかして、ホンモノの方?映画初出演で緊張?

それでも、未だ、東京で職探しをするのです。東京で働く事は、ほぼ離婚を意識している訳で、銀行員の従兄弟に仕事の紹介を依頼すると云う事は・・・。

結婚前は互いにそれとなく意識していた二人です。でも、しかし、未だ独身の従兄弟に同情され、少し気持ちに変化が・・・。


少しずつ、少しずつ、気持ちの変化を重ねて、『あなたの側を離れると云うことは、どんなに不安に身を置くことか、やっと分かったのです・・・』と、夫宛の手紙を書く、でも、しかし、投函する直前でためらい引き返す。


手紙を投函しなかったことを知った母は、『わたしがいま初之輔さんのお母さんだったらね、あんな嫁のどこがいい、さっさと離縁してしまいなさい、そう言うかも知れないよ』と、笑顔で優しく忠告するのです。


その場に妹が銭湯から帰って来ます。


妹に声を掛ける母、しかし、姉はまったく雑誌から眼を上げません。そんな姉の態度に鋭い視線を向け心の内を読み取ろうとする母。


この時、妹から姉への視線の移動は素早く鋭くとても怖かったです。母親の優しさと厳しさを表現したカットでした。小津作品の杉村春子でした。

帰りたい、でも、帰れない、夫への愛情はあるが、あの退屈な日常に戻ることへの不安、そして、何も連絡をしてこない夫、どちらが先に折れるのか、このまま互いに意地を張り続けたら・・・破局?

こういう処が、とても、とても、ムズカシイ駆け引きなのです。兎に角、どちらかが謝ってしまえば事は解決するのですが、そも、そも、謝って済む問題ではないからムズカシイ。

夫としては、何がイケナイの?なのです。謝ったとしても、退屈な日常は変わらないのですから、戻って来てくれとは云えません。退屈な日常に嫌気がさして出て行った妻が変わらないと、状況は打開できないのです。

さあ、二人は、どうなるのか? 別れるのか? 元の鞘におさまるのか?

時代は60数年前、あの頃の男女の仲はどうだったのか? 戦前の意識を引き摺った解決か、戦後民主主義で、男女同権で、新しい自立する女的な解決になるのか?

公開時も結末には賛否両論があったようです。


この続きは次回。


それでは、また。


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成瀬巳喜男の『めし』で原節子を観る・・・その1 バストショット

2013年08月28日 | 原節子
原節子の“めし”を観ました。

驚きました。これまで観ていた、あの小津作品の『原節子』のイメージとかなり異なるのです。

大きな顔、大きな眼、笑みを浮かべて、カメラ目線で、その表情とはすこし違和感のあるセリフをしゃべる・・・、そんな原節子とは違っていました。

世帯やつれと云うか、糠味噌の匂いがちょっとだけ漂うと云うか、生活感のある役柄に“あの原節子”を使った成瀬巳喜男、とても新鮮で、とても驚きでした。

昭和26年(1951年)の作品で、原節子の成瀬作品への初出演、それ以降、1954年の『山の音』、1956年の『驟雨』、1960年の『娘・妻・母』と、3作品に出演しています。

監督が代ると、役者の使い方も代わり、役者のイメージも代わるのです。そして、そして、『めし』で、監督の成瀬巳喜男の世間的な評価も変わったようです。

小津作品を観ていると、時として、原節子は、“もしかして?やっぱり大根?”何て疑問を抱いたりしたのですが、『めし』での原節子はなかなかイイ芝居をしています。

それで、観ていて、少しずつ、そして、見終わって、“これって”もしかして、新しい!と思ったり、したのです。

“モノクロ”で、今から60数年前の風景が画面に映し出されるのですが、でも、しかし、今の、現代の、作品と、思えたのです。

男と女、恋愛、結婚、夫婦、女の幸せとは? 時代が変化し、関係も変化し、行ったり来たり、戻ったり、くり返したり、やはり、男と女の関係は普遍なのだと・・・・・・。

人間は動物です。肉体的な諸条件から、雄と雌の関係から、自由になれないと云うか、性差に縛られると云うか・・・・・・。性差を科学技術の発達と、社会制度で補ったところで、やはり、無理があり、窮屈で、不自然で、いつか、何処かで綻びが・・・・・・。

能書きはこれまで。

それで、“めし”です。何か?冒頭から“答え”を提示したようなタイトル。

「めし」を喰うことをくり返す、これぞフツウの暮らし、フツウの人は、変化のない退屈な日々をくり返し、その中で、小さな、小さな喜びを少しだけ見つけ、ささやかな幸福感を味わい、ささやかに生きていく?

冒頭、主人公の嘆き的?モノローグでドラマの設定が簡潔に判り易く説明されていきます。一般大衆向けの娯楽作品的と云うか、もしかして“原作の林芙美子”の小説の書き出しをなぞったのか?

『大阪府の南の外れ、地図の上では市内と云うことになっているけれど、まるで郊外のような寂しい小さな電車の停留所・・・』

敗戦から6年、未だ、英語表記の標識が街に目立っていた時代。こんなカットが歴史なのです。

『直ぐ側の天神様の森に曲がりくねった路地の奥に、朝の光が流れて・・・・・・』

何処にでも在るような、ありふれた風景は、ありふれて存在しないのです。これは、イメージどうりの、なかなかイイありふれた風景です。

『東京で“周囲の反対を押し切って結婚”してから5年目、大阪へ夫の勤め先が変わってから3年目、あの頃、私を支えていた希望や夢は何処へ行ったんだろう・・・』

このバストショット!思わずはち切れそうなバストに視線が釘付け!31歳の原節子、一番輝いていた時期かも?

『夫は食卓の前に座っている、私は味噌汁の鍋を運ぶ・・・』

髪の乱れ具合が、とてもイイです。

『昨日も今日も明日も、一年三百六十五日、同じ様な朝があり、同じ様な夜が来る、台所と茶の間と・・・女の命はやがてそこに空しく老い朽ちていくのだろうか・・・・・・』


甘い、甘い、夢の結婚生活は、日々、退屈な日常のくり返しに潰されてしまうのです。

“周囲の反対を押し切って結婚”です。周囲の反対が強ければ強いほど、二人の愛は燃え上がり、夢は大きく、絆は強く、現実とは遠ざかる。

そして、夢はやがて覚め、結ばれる時に費やされたエネルギーが大きければ、その反作用もそれに等しく大きいのです。

原節子には笑顔はありません。御飯を炊き、味噌汁を運び、亭主に朝飯をくわせる、何処にでも居るフツウの奥さん。こんな役の原節子もイイです。

そして、こんな役の“上原 謙”段々、卯建の上がらない、面白くも可笑しくも無い、フツウの亭主に見えてきます。


そして、そんな日常に、東京から亭主の姪が家出して来て、ドラマは動き始めます。


世間知らずで、甘ちゃんで、チャラチャラ娘で、男に対して脇が甘く、叔父にまでじゃれてみたり、


やりたい放題で、亭主も、亭主で、それを楽しんでいる素振りを見せたり、そして、原節子の堪忍袋の緒が切れます。


結婚生活に、亭主に、夢は破れ、疲れ果て、姪を送って行くことを口実にして、東京の実家に帰ってしまうのです。


亭主の元には返らないかも知れないと思いいつつ、そして、亭主も、もしかして、戻って来ないかも、と思いつつ・・・。


舞台は東京へ移ります。

この先は次回。

それでは、また。


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“原節子を何となく” その⑨ “晩春”壺のツボ

2011年06月20日 | 原節子

昨日の続きです。

今日まで“原節子 あるがままに生きて”を読みつつ、綴ってきたのですが、最終回の本日は、本の方は終わりとして、本とはまったく関係なく勝ってに綴ることにします。

それで、本日も、昨日の『東京物語』に引き続き、大胆仮説の第二弾、『晩春』の“壺論争”を採り上げ、わたくしも、論争の一画に加わり、小さな一石を投じようと思うのであります。

“小さな”何て控え目な表現をしましたが、何を隠そう、本音としては、過去の論争を蹴散らす、堅い、堅い、決意と確信を持って、新たなる解釈を展開します。

これを読んだ人は、頭を掻きむしり、眼から鱗がパラパラと落ち、ナルホド!そうかァ!と膝を叩き、手を叩き・・・・・・、何て結果を妄想しつつ、静かに、話しを進めたいと思います。

それで、“晩春の壺論争”ですが、結婚を決めた娘と父親が京都に旅行し、


旅館のシーンで、


笠智衆と原節子が枕を並べて眠っていると、一瞬床の間に置かれた壺が写り込むカットの意味をめぐるものです。


このカットを、

【アメリカの映画監督ポール・シュレイダー】は、これを父と別れなければならない娘の心情を象徴する「物のあわれ」の風情であるとの解釈。

【映画評論家のドナルド・リチー】は、壺を見ているのは原節子であり、壺を見つめる原節子の視線に結婚の決意が隠されているとの解釈。

【蓮實重彦】は、①父と子とはいえ性別の異なる男女が枕を並べて眠っていること自体が例外的である。②すべてを白昼の光の中に鮮明な輪郭を持って描いてきた小津が、月光によって逆光のシルエットになっている壺を描いたことも例外である。③それらから父と娘の間に横たわる見えない性的なイメージを表現している。

【映画評論家の岩崎昶】父娘の会話が旅館の寝床の上で交わされていることに注目し、この旅館のシーンを転機とし、父に対して性的コンプレックス(エレクトラコンプレックス)を抱いていた娘が、父から性的に解放される名シーンであるとしている。

と、云うように、娘の心理描写であり、そして、それが性的か否か、壺を見ているか否かという論争なのです。

先ずは、娘の視線が壺を見ているか、見ていないか論争ですが、これは論争にもならないと思うのです。


娘が、壺に視線を送るカットは有りませんし、送ったように思わせるカットもありません。


娘の視線の先は父親です。


父がもう寝るかと云った後、娘が部屋の明かりを消した瞬間、月明かりに照らされて、庭の竹の影が、白い障子に浮かび上がるのです。


この光と影の美しさ、日本的な美意識です。白い障子、竹の陰影、このカットは、日本的な美意識を象徴するカットです。

父を思いやる娘、娘を思いやる父、この関係も日本的なものです。


敗戦後、すべてが西洋化する傾向に対して、あらためて日本的なものを、日本的な価値観を、見つめ直し、再認識するためのカットなのです。戦争に負けたからと云っても、欧米の文化にまで、降伏した訳ではありません。


日本人の美意識は、明るく輝き、眩しい世界よりも、“陰”とか、暗い“闇”とか、陰影にあるのです。

それで、“谷崎潤一郎”なのです。彼が書いた有名な『陰翳礼讃』なのです。日本建築における、陰翳の美しさ、陰翳の取り入れ方、陰影の味わい方を語った随筆です。

谷崎と小津は同時代で、それなりの親交もあったようですし、小津も当然この『陰翳礼賛』を読んでいた筈ですし、読むまでもなく、和室の美、白い障子の美、灯りを消した部屋、、月明かりに映し出される、風にそよぐ竹の美しさ、日本の美意識なのです。

父と娘の想い、月明かり、風にそよぐ竹、すべて日本的な美意識なのです。日本の情感なのです。ものの哀れなのです。

それで、“壺”なのですが、は、確かに、心理学では壺を女性器の象徴として語られることも、あるそうですが、この壺は、あくまでも、暗い闇の部屋で、白い障子に映し出される情景に、花を添える“小道具”なのです。

普通、旅館の部屋には、花を生けた花瓶が付きものです。花を生けずに花瓶だけと云うことはありません。でも、しかし、このカットでは、花瓶に花は邪魔なのです。花を添える小道具ですが、花は添えないのです。

“主役は白い障子に映る陰翳”です。

と、云うことで、“壺論争”は、小津監督の意図から、ツボを外しているのです。

日本的な美意識の、“白い障子に映る陰翳”から場面転換した次のカットは、


これも、日本的美意識、龍安寺“枯山水の庭”なのです。日本的美意識のカットが続くのです。

主演した、原節子も、

『新鮮といっていいのかしら。今までの日本映画に見られなかった古い日本文化のすばらしさが感じられますものね。「晩春」は今までの小津さんの作品とちょっとちがうのではないかしら。形式的には、あまりかわっていないと思うんだけど、内容的には日本的で、そして高いところを狙っていられたように思うんです。それが終戦直後とちがって、日本人としての自覚に目ざめかけた大衆にうけたのね』(今村太平著『映画入門』社会思想研究会出版部1955年)

こんなことを語っています。

と、云うことで、壺論争は、ツボを外していたと云う結論になります。まぁ、当然、これは、私の勝ってな結論ですけどね。でも、しかし、かなり・・・・・・なのです。

以上で、“原節子シリーズ”は終了します。先週の金曜日に更新の予定が、週始めの月曜が最終回になってしまいました。いろいろあったのです。

それでは、また明日。


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“原節子を何となく” その⑧ 東京物語は家族の崩壊ではなく変遷です!ねェ?小津さん!?

2011年06月16日 | 原節子

昨日の続きです。

本日も、『原節子 あるがままに生きて』(貴田庄著 朝日文庫 2010年10刷)を読みつつ、綴っています。

それで、昨日予告した『東京物語』なのですが、この作品は小津安二郎監督にとっても、原節子にとっても、誰が何と云っても、代表作なのです。世界の小津、世界の“東京物語”なのです。

です。がぁ~、しかし、その代表作、世界の“東京物語”に対して、このわたくしが、何と、不遜にも、大胆にも、一言、苦言?を呈すると云うか、疑問?を投げかけると云うか、イチャモンをつけると云うか・・・・・・。

それで、先ずは、小津監督自身が“東京物語”について、こんな風に、とても短く、

『親と子の成長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみたんだ。ぼくの映画の中ではメロドラマの傾向が一番強い作品です』(『キネマ旬報』小津安二郎〈人と芸術〉)

と、語っているのを、43章『東京物語』で見つけたのです。それで、問題なのは前段で“親と子の成長を通じて、日本の家族制度がどう崩壊するかを描いてみたんだ”の部分なのです。



テーマとしては、家族とか、親と子とか、夫婦とか、絆とか、老いとか、死とか、別れとか、そんなテーマを、戦後の経済成長の中で、移り変わっていく様を描いたとの解釈が、一般的だと思います。

問題は、小津が大上段に“日本の家族制度がどう崩壊するかを描いた”と云うところです。日本の“家族制度”は、『崩壊』したのでしようか?

尾道の地方公務員の一家は、長男は医者になり東京で開業、次男は戦死、三男は大阪で国鉄の職員、長女も東京で美容院を経営、次女だけが尾道で教師をしていて両親と同居。



5人兄妹は、成長して、両親の元には三女だけが残り、一家は“バラバラ”になる。老いた両親は子供達に逢いに東京に出て来る。しかし、子供達は生活に忙しく、両親を快く持てなすことはなく、次男の嫁だけが二人を、快く迎えてくれるのであった。

それで、これが家族制度の崩壊なの?と思うのです。子供が成長し、経済的に自立し、結婚し、子供をつくり、親となり一家を形成して行く、これは、家族制度の崩壊ではなく“変遷”であり、いつの時代でも、くり返されてきたことです。



“崩壊”ではなく、笠智衆と東山千栄子の作り上げた家族は役割を終えたのです。育てた子供達は、次世代の家族を作り、その子供達も、いつの日にか・・・、そんなくり返しなのです。



笠と東山の老いた両親からの視点から見ると、苦労して育てたのに、子供達の扱いが冷たく感じるかも知れませんが、子供達は自分達の新たな家族を作り上げる為に、それなりに苦労しているのです。

子供が親になると、両親の存在は、自分の子供よりも小さくなるのです。笠と東山も、自分達が若かった頃、両親達をどう扱ったのかと考えれば、それなりに判るのです。



他人である次男の嫁が、自分の子供達よりも、快く持てなしてくれたと“感じた”のは、それは、嫁と云う“他人を前提”としているからです。次男の嫁、原節子には子供もなく、家庭もありません。まぁ、新たに家庭をもっていたら訪れることはあり得ません。



そんな、ことで、東京物語で描かれていたは、日本の、戦争直後の、家族の、変遷であって、“日本の家族制度の崩壊”ではない!・・・・・・、と思うのです。

だからと云って、映画そのものの評価とは、とくに、関わりはありません。確かに、とても、しんみりで、ゆっくりで、じっくりで、哀れで、感動的で、すばらしい映画だと思います。

それと、驚いたのは、この東京物語の撮影に入る直前に、原節子の実の兄である、カメラマンの会田吉男が、原の主演で、義兄の熊谷久虎が監督した『白魚』の撮影中に、列車に轢かれて死亡していたのです。



そんな悲しみの中での撮影だったのです。この列車事故で兄を失ったことは、その後の引退に繫がる、理由の一つだとも云われているそうです。知りませんでした。

本日は、世間の評価を、監督の意図を、大胆不敵にも、否定してしまいました。でも、随分前に東京物語を観たあと、世間の評価を、見たり、聞いたり、読んだりして、何か!変!と、胸の奥で抱いていた疑問を、ココにこうして世間に表明して、スッキリしました。

まぁ、そんなことでした。

“原節子 あるがままに生きて”を、読みつつ、綴るのは、切りよく今週で終わる予定です。 

今日も、午前中はおふくろを、“痒い痒い”で、いつもの皮膚科への通院で、午後の更新となりました。

それでは、また明日。


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“原節子を何となく” その⑦ 監督が大根?

2011年06月15日 | 原節子
昨日の続きです。

昨日は“大根”と“ハム”の話しでした。すこしだけ、その続きです。

それで、“原節子 あるがままに生きて”の138ページで、小津監督が原節子の演技について、

『僕は過去二十何年か映画を撮ってきたが、原さんのように理解が深くてうまい演技をする女優はめずらしい、芸の巾ということからすれば狭い、しかし、原さんは原さんの役柄があってそこで深い演技を示すといった人なのだ、例えばがなりたてたり、子守っ子やおかみさんのような役にあの人の顔立ちや人柄が出来上がっていないという、それを「原節子は大根だ」と評するに至っては、むしろ監督が大根に気づかぬ自分の不明を露呈するようなものだと思う』(週刊アサヒ芸能新聞1951年9月9日)

この記事は1951年の9月ですから、小津監督による原節子初作品『晩春』(1949年9月)を撮った後で、『麦秋』(1951年10月)の撮影中の記事だと思います。『晩春』の評判が良かったので、かなり強気な発言になったようです。



“大根役者”とは、解釈によって180度変わると思います。役者の顔立ちや人柄にあった役しか出来ない、役柄の巾が狭い、と、云う事は、大根だとも云えるのです。

また、脚本の役柄に合わせて俳優を選ぶのは、監督として当たり前ですし、役柄に合わない俳優を使ったら、監督が大根と云われてもしかたがないとも云えます。

何でも、かんでも、こなせる器用な俳優は主役には向かないのです。強い個性があるから主役になれるし、スターになれるのだと思います。

顔立ちとか、体つきで、それなりに役柄は限定されるのです。高倉健にリストラされた“しょぼいサラリーマン役”は無理なのです。そんなキャスティグをする監督はいません。

そういえば、高倉健と云えば、“ぽっぽ屋”で定年間近の鉄道員を演じていましたが、あまりにも、あまりにも、いくら映画のお約束とは云え、カッコ良すぎて嘘っぽかったのです。

“嘘っぽかった”云えば、ついでに、海外へ飛んで、あのイタリア映画の名作“ひまわり”です。ストーリーは悲しい、悲しい、戦争悲劇なのです。

がぁ、しかし、、マルチェロ・マストロヤンニとソフィア・ローレンが演じたことで、悲劇性が、かなり、かなり、薄らいでいるのです。二人の個性が役柄に合っていないのです。ミスキャストです。

話しが、幾分、海外に逸れてしまいました。

まぁ、兎に角、大根もハムも、監督のキャスティングと演技指導でどうにでもなるのです。後は、監督と俳優の相性が合えばイイのです。



小津監督と原節子は、とても相性がよかったと思います。小津監督の代表作と原節子の代表作が共通するのは、そんな事からだと思うのです。イイ俳優に出会った監督、イイ監督に出会った俳優なのです。

冒頭で、昨日の“すこしつづき”と書きましたが、全部がつづきになってしまいました。まぁ、いつも、書いているうちに、最初に書こうとしたことが、途中で、だんだん逸れていくのは、いつものことで・・・・・・。

ホントは、『東京物語』について、ちょっと云いたかったのです。まぁ、それは、次回に回すことにします。

本日は朝早く出掛け、昼に戻って来たので更新が遅れました。午前中に更新しないと、何か書きにくいのです。午前中に書いて、午後は外を走り回るのが、いつものスタイルになっているのです。

以前は暗い夜に書いていたのですが、今は明るい午前中が更新タイムに変わってしまいました。年齢がそうさせているような、ちょっと寂しいような、そんな気が・・・・・・です。

まだ、そんな事で“何となく原節子”はつづきそうです。

それでは、また明日。



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“原節子を何となく” その⑥ 大根女優?

2011年06月14日 | 原節子
先週からの続きです。

まだ、「原節子 あるがままに生きて」を読みつつ、綴ります。

それで、第22章は“大根女優”です。大根です。大根役者です。大根は絶対に“あたらない”のです。西洋では“ハム役者”と云うそうです。ハムは食あたりしそうな気がしますが・・・・・・それで、原節子ですが本人も相当気にしていたようで、戦後、こんな事を語っています。

『・・・さて、それから私が、「大根女優、大根女優」と批評などで叩かれた時代となります。そう云われて癪にさわってもしようがないし、自分でも決してうまいとは思っていないのでなんともありませんが、「ひと一倍そんなに云われるほど、ほかのひとに比べて私は下手なのかしら・・・・・・。でも、ほかのひとにはない私は私なりのいいところだってあるのじゃアないか」と、ときには反発する気持になりました』

これは、『映画ファン』1952年11月号から53年の2月号に載った「私の歴史・1~4」記事ですから、大根女優と云う評価は戦前のものです。

大根時代には、いくら何でも、大根の話しはできないのです。戦後、“大根女優”を、それなりに脱して、改めて過去の大根時代を振り返っているのす。


それにしても、世間は相当に大根と叩たいたよううで“ひと一倍そんなに云われるほど・・・・・・”の処に、相当頭にきた気持ちが現れています。温和しくて、控え目で、冷静で、賢明な彼女がこう云うのですから、かなり癪にさわっていたのです。

女優は何と云っても美貌です。巧い役者と云われるのは美貌とは遠い役者なのです。巧い役者と呼ばれるには、コムズカシイテーマを、コムズカシクしく演じると、それなりに巧く見えてくるものです。

反社会的で、反体制で、犯罪者で、屈折していて、躓いて、暗くて、影があって、絶望して・・・・・・、何て役柄を、それなりに演じれば、そこそこの役者に見えるのです。大根と巧い役者と、それほど差はないと思います。監督の腕次第です。

それで、原節子も戦前に、アンドレ・ジット原作の『田園交響楽』を山本薩夫監督で、そして、昨日の“レ・ミゼラブル”を原作として、伊丹万作監督が撮った「巨人伝」など、いろいろと、コムズカシイ文芸作品に出演したのです。

でも、しかし、大根女優の称号はなかな消えなかったようです。やはり、美貌が邪魔をしていたのです。あまりに美しいと、どうしても美しさ強調した演出になるのです。巧さにには、それなりの“醜さ”が必要です。

原節子も、戦後になってから、それなりに、美しさに陰りが見えはじめてから、大根の評価にも陰りが見え始めたのでは?と、思うのです。


美しいからと云って“色気”があると云う訳ではありません。戦前の原節子には色気がありません。戦後になって、やっとすこし色気が出てきたのです。

美しさに陰りが見え始めて、女の色気が見え始め、大根から抜け出して、“イイ女”、“イイ役者”になりつつあったのに、スクリーンから消えてしまいました。

とても、とても残念です。


それでは、また明日。

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“原節子を何となく” その⑤ 27年で108作品

2011年06月11日 | 原節子
昨日は、何となく、更新をさぼってしまい、一昨日の続きとなります。

まぁ、何となく“原節子”と云うことで、“原節子 あるがままに生きて”を読みつつ、綴っているわけなのです。

それで、わたしとしては、原節子と云えば「東京物語」であり、「晩春」であり、「秋日和」であり、「東京暮色」なのです。すべて小津作品で、それ以外は知らなかったのです。

今回、いろいろ調べてみたら、驚く事に戦前は51作品、戦後は57作品の合計“108本”に出演しているのでした。

デビューが1935年の「ためらふなかれ若人よ」で、最後の作品が1962年の『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』(稲垣浩 監督)でした。27年間で108作品です。

それで、デビューしてから2年目、1937年の日独合作映画『新しき土』で、原節子は日本を代表する女優になったそうです。未だデビュー2年目の17歳で、12本目の作品でした。 

映画宣伝のためにドイツにも出掛けているのです。17歳には見えません。その当時でも大人びて見えたのか、歳相応だったのか?
     

確かに輝いている。


十代の頃の方が、より西欧的な顔立ちに見えます。著者の貴田さんが書いていますが、ちょっと見“宮沢りえ”かも?
     

15歳でデビューして、42歳で引退したわけです。今の42歳は、まだ、まだ、若いのですが、50年前の42歳は、永遠の処女としては、かなりムズカシイ段階に入っていたのでしょう。

“原節子と云えば小津”ですし、「東京物語」は二人の代表作品です。その小津監督との作品は108本なかで4本。原にとっては単に108分の4本ではなかったようです。

原節子67作品目、1949年の『晩春』が初の小津安二郎監督作品で、
2作目が75作目の『麦秋』1951年で、
3作目が81作目の『東京物語』で1953年で、
4作目が91作目の『東京暮色』で1957年で、
5作目が106作目の『小早川家の秋』で1961年、これが最後の小津作品となります。

小津は、その後に、「秋刀魚の味」を1962年に撮り、翌年の12月12日に頸部にできた癌で亡くなっています。

原節子の最後の作品が『忠臣蔵 花の巻・雪の巻』で1962年の11月の公開、最後と云っても、引退会見をした訳でなく、後になって最終作品と云われるようになったのです。

12月の小津の葬儀では、女優原節子ではなく、本名の“會田昌江”で弔意をあらわしていたそうです。

※追記
「秋刀魚の味」ですが、中学1年の時に、浅草の国際劇場?有楽町の日劇?かそれとも池袋の映画館?そのいずれかで観ているのです。

「秋刀魚の味」の、“サンマ”を漢字では“秋刀魚”と書くのを始めて知って、妙に気になった記憶があり、数学の授業中、教科書の余白に“秋刀魚の味”と書いて、先生に叱られた記憶があるのです。

それで、その数学の教師なのですが、未だ若い女性教師で、お嬢様のような雰囲気で、明るいスーツを着て、とても可愛らしい“太陽の陽子さん”みたいな先生でした。それにしても、“おひさま”は好調のようです。

主演の真央ちゃんの“表情”がとてもイイです。とくに“驚いたとき”の表情が、たまらなくカワイイです。

NHK朝の連ドラは“戦争が入る”と、いつでも、とても視聴率がとれるのです。戦争は究極の舞台です。庶民が歴史の流れに翻弄されるとドラマが生まれるのです。

でも、しかし、小津の作品は、波瀾万丈でもなく、究極の絶対絶命でもなく、英雄豪傑の大歴史スペクタクルでもなく、単なる庶民のフツウの日常を、淡々と写し撮り、淡々と人間を描いていて、フツウにスゴイのです。

追記が長くなってしまいました。

それでは、また来週。


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“原節子を何となく” その④ 15歳の夏に

2011年06月09日 | 原節子
昨日の続きです。

『原節子 あるがままに生きて』を読みつつ、綴っています。

それにしても、“あるがままに生きる”なかなか意味のある言葉です。わたしも、あるとこの、ある場面で“あるがまま”と綴ったことがあります・・・。

本書の何処かに、彼女の言葉で語られているのか、それとも、著者が彼女の生き方を辿ることで、その言葉が浮かんできて、タイトルとしたのか・・・。

それで、昨日は、わたくし自信を持って断定的に、横浜高女を二年生の夏に中退して、女優の道を“自らの意志で選択した”と書いたのですが、著者はそうではないとの主張なのです。

何にか、著者の貴田さんが、昨日のブログを見ていたように、ページを捲ると、“7章 義兄・熊谷久虎”の冒頭で、

『原節子は野心満々で映画界入りしたわけでのではないと語っています。原が日活に入れたのは、熊谷が監督としてそこで活躍していたからです。そして演技の経験がまったくないのに、デビュー作品から主役を演じました。恵まれ過ぎていて、仕事に対する考えが甘かったと原は思い出しています。少し原節子の立場になって想像してみればすぐわかることですが、十四、五歳で、自分の未来を客観的に、もしくは、きわめて冷静に見る人がいるでしょうか。そういう人はごく稀だと思います。若い女性の働く世界が限られていた時代です。女学校を中退して、突然、すべきことのなくなった彼女、先生になる道が閉ざされてしまった彼女。芸能界が好きだから映画の世界に足を踏み入れたわけでわありません。成り行き上、日活の女優になったとしか、いいようがありません。』

と、わたしの説とは異なる見解なのです。

引用が長くなりました。



この文章なのですが、事実と、原節子本人の語った想いと、著者の想像と解釈と、いろいろ、まぜこぜに綴られていて、表現方法として、いろいろ問題があると思います。

まぁ、貴田庄さんは、原節子の資料をかき集めて、読み込み、そして、辿り着き、こういう表現になってしまったのでしょうが、原節子に対する思い入れが強すぎ、彼女を美化し過ぎで、客観性に欠けるのでは?と、文章から感じました。

先ず、『原節子は野心満々で映画界入りしたわけでないと語っています』なのですが、野心満々ではないが、それなりの“期待と夢と希望を”抱いて映画界に入ったと思います。

十二、三歳で、あの“マキノ雅裕監督”をして、将来の大スターと言わしめた少女だったのです。学校の成績はトップクラスでスポーツも得意で、美人で、輝き、注目されていたのです。そして、周囲に映画関係者が居たのですから、女優を目指しても、多少の野心を抱いても、何ら不思議ではありません。

次に、『原が日活に入れたのは、熊谷が監督としてそこで活躍していたからです』と、ありますが、義兄に監督がいたからと云って、何処の誰もが映画界に入ることはできません。それと『演技の経験がまったくないのに、デビュー作品から主役を演じ』は、彼女の持つ素晴らしい資質が、そうさせたのです。

次に、『恵まれ過ぎていて、仕事に対する考えが甘かったと原は思い出しています』とあるのは、後年、若かりし頃を振り返っての反省です。

戦前の映画では、美貌だけの大根役者との評価があったそうで、持って生まれた美貌だけの時代は、甘かったのです。気が付いてみたら、美貌が衰え始め、いろいろと、あったのです。

ここで、途中ですが、『芸能界が好きだから映画の世界に足を踏み入れたわけでわありません。成り行き上、日活の女優になったとしか、いいようがありません』と、云う結論へ導く根拠として、いろいろ述べていることに、ちょっと違うのでは? と、わたくしは、いろいろ反論しているのであります。

それで、次に、『十四、五歳で、自分の未来を客観的に、もしくは、きわめて冷静に見る人がいるでしょうか。そういう人はごく稀だと思います』、原節子は、かなり賢明な女性だったようですから、そんな稀な部類の人だった、とも云えます。

また、あるいは、映画界入りに対して、客観的に、未来とか、人生とか、そんな事まで考え決断した訳では無かった、とも、考えられます。

兎に角、背が高く、西洋的美貌で、少女の頃より輝き、周囲の注目を浴びていたのです。本人も、それなりに、早い時期から、口には出さなくとも、映画界への憧れはあったと思います。

そして、『女学校を中退して、突然、すべきことのなくなった彼女、先生になる道が閉ざされてしまった彼女』と、ありますが、これは、まったく逆だと思います。映画界入りの意志が先にあり、その為に、横浜高女を中退したのだと思います。



“先生の道を閉ざされた”とありますが、教師になる願望はそれほど強いものではなく、よくある“大きくなったらバスの車掌さん”的なものだと思います。

一般的にも、小学生の頃は教師は身近で、一時期の憧れの的です。貴田さんも別な章でそのような表現をしています。なのに、ここでは、かなり強い教師への思い入れがあったように表現しています。どっちがホント?

兎に角、『芸能界が好きだから映画の世界に足を踏み入れたわけでわありません。成り行き上、日活の女優になったとしか、いいようがありません』との結論を導く為に、いろいろ動員しているのです。

映画界入りは、彼女自身の言葉で“周りに決められた”と云ったとしても、そのまま鵜呑みにしてはいけません。彼女は謙虚であり、そして、また、頑固で、賢明で、自分の考え方を主張する性格だと・・・・・・思います。

水着姿とか、濡れ場は、絶対に拒否したそうですから、映画界を去り、原節子から會田昌江に戻ったのも、會田昌江から原節子になったのも、すべては彼女の意志だと、そう考えた方が・・・・・・。

今日は、ちょっと、何か、かなり、ゴタゴタと自説を述べてしまいました。

それでは、また明日。

※只今の空間線量は 0.14μSv/h です。最近は短時間の間にかなりバラツキが見られるのです。何か、危険な兆候?



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“原節子を何となく” その③ 自らの選択

2011年06月08日 | 原節子
昨日の続きです。

『原節子あるがままに生きて』(貴田庄著 朝日文庫)を読みつつ、綴っています。

それで、横浜生まれで、二男五女の七人姉弟の末っ子でした。次女は日活の女優(大部屋俳優?)で、監督の熊谷久虎と結婚。この姉夫婦の存在が女優“原節子”の誕生のきっかけとなったようです。

次男は映画カメラマンだったそうで、やっぱり、周囲には、それなりに映画関係者がいたのです。なるべくして生まれた、映画スターだったのです。知りませんでした。

学校の成績もよく、小学校では学年でトップを争う成績だったそうです。得意科目は数学、体操も大好きで特に水泳が得意だったそうです。頭が良くて、スポーツも得意で、そして美人、小さいときから、とても、とても、目立っていたそうです。

小学校の頃は、外国に行くこと、教師になること、そんな夢を抱いていたようです。


小学校は横浜市立保土ヶ谷尋常小学校、卒業して“私立横浜高等女学校”通称“横浜高女”に入学します。このあたりから、いろいろあって女優の道に進むのです。

いろいろと云うのは、彼女の第一志望は通称“平沼高女”と云う、県立の高等女学校で、こちらの方がそれなりの名門だったようです。成績的には受かる筈だったのですが、入学試験の当日に風邪をひいてしまい、試験に失敗したそうなのです。

四年制の横浜高女を二年生の時に中退します。理由は、私立で授業料が高かったと云う経済的なこと、また、第一志望ではない、第二志望の学校だったこと、らしい?のです。

そのあたりの事情を、彼女自身が語っためずらしい記録があるのです。これは、1959年2月20日から3月27日までの週一で6回、東京新聞夕刊、「早春夜話」と云う記事で、

『・・・家の事情、主として経済的なことから急に女優なることに周囲で決められてしまい、横浜高女に一年とちょっと通ったきりで十五の年の八月に東京へ・・・、兄(熊谷久虎監督)夫妻の家へ引き取られ・・・』

こんな風に、語られています。たぶん、これは原節子の話を記者が聞いて記事にしたものでしょう。


これは私の推測ですが、中退したのは家の経済的理由ではなく、望まない学校で勉強しているよりも、“周囲に望まれていた”女優の道を“自らの意志で選択した”ものと思います。

自ら女優の道を選んだ、何てストレートに語ると、“女優になることは私の美貌であれば当然でしょ!”何て思っていた“美貌を鼻にかける嫌な女”何て、世間に思われる事を避けたのです。

俳優とか、歌手とか、タレントなんかで良くある話しで、姉弟や友達が勝手に応募したとか、応募した友達に試験会場に付いていったら、自分の方が選ばれたとか、そんな類の話を良く耳にします。でも、これは、ほとんど嘘です。謙遜しているようで、明らかに自慢しているのです。

でも、しかし、原節子さんの場合は、明らかに謙遜です。でも、彼女の性格から、女優の道は自らの選択だった。これは間違いありません彼女は小さい時から、いろいろな人に“望まれて”いたのは確かなのです。義兄の熊谷監督は13歳のときに原節子を見て、

『・・・まだほんの子供で色も黒く、眼をギョロギョロさせて居ましたが、私たちに応待する動作に何となく芸術的な感受性が秘められて居る気が・・・』

と、1936年11月26日の朝日新聞夕刊に語っているそうです。

また、あ有名な“マキノ雅裕監督”も、

『・・・初めて会ったのは、またぢ彼女が小学校の五、六年生の頃だったと思う。・・・ひと目見て私は驚いた。ただただ“素晴らしい少女”の一言につきた。この娘があと三年もすれば、きっと“素晴らしい女”になるにちがいないと思った。もし、女優になったら、育てようによっては、大スター間違いなし、という印象を持った』(『マキノ雅裕女優志・情』1979年草風社刊)

こんな風に語っています。まぁ、1979年に書かれたものですから、後からならば、どうでも云えるのですが・・・。

兎に角、小さい時から、プロの眼から見ても、相当に輝いていたのです。そのような評価は、当然、原節子の耳にも入っていたでしようから、彼女自身もそれなりに意識はしていた筈です。


そんな、こんなで、15歳の夏、彼女は、女優の道を選んだのです。


それでは、また明日。

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