わが青春のヴォルプスヴェーデ

 
 
 パウラ・モーダーゾーン=ベッカーを知って、ようやく、ヴォルプスヴェーデ画派のことも知るようになった私。が、ドイツではヴォルプスヴェーデは、詩人リルケゆかりの有名な芸術家村なのだそう。当時、トーマス・マンやハウプトマンらも訪れたという。
 世界は多様で、裾野が広く、マイナーと思われているものですら奥が深い。

 北ドイツ、ブレーメン北西の小村ヴォルプスヴェーデ(Worpswede)は、“トイフェルスモーア(Teufelsmoor、「悪魔の湿原」の意)”と呼ばれる湿地帯に囲まれている。19世紀末にはなお渡し舟が唯一の交通手段で、雨が降り続くと増水し、外界から遮断された。この孤立した泥炭地で、人々は泥炭を採掘して生活していた。
 この森と湿原のなかに打ち捨てられた、白樺の樹木と泥炭小屋が点々と佇む貧しい僻村は、そこに集った、デュッセルドルフで学んだ若い画家たちを、リルケが紹介したことで、一躍、芸術家村として知られるようになる。

 最初に村を見つけ、住み着いたのは、フリッツ・マッケンゼン(Fritz Mackensen)で、続いて、オットー・モーダーゾーン(Otto Modersohn)とハンス・アム・エンデ(Hans am Ende)、さらにフリッツ・オーファーベック(Fritz Overbeck)、ハインリヒ・フォーゲラー(Heinrich Vogeler) 、カール・フィンネン(Carl Vinnen)、パウラ・ベッカー(Paula Becker)、彫刻家クララ・ヴェストホフ(Clara Westhoff)らが加わる(後にパウラはモーダーゾーンと、クララはリルケと結婚)。
 彼らは1894年、「ヴォルプスヴェーデ芸術家協会」を結成。翌年のグループ展で成功を収め、全国的な認知を得た。

 行き過ぎた文明から逃れ、手つかずの自然へと回帰し、そこで生きる素朴な人々に立ち混ざって暮らすことで、自然と生活と信仰とを自らの創造の糧としようとした、若き芸術家たち。バルビゾン派を目指したという彼らの絵の、その土臭い、広漠としたナイーブな風景は、あまりにバルビゾンとは相違していて、私なんかはいささか驚いてしまう。が、これが北ドイツの自然観であるらしい。
 世紀を跨げば表現主義の台頭するこの時代、彼らの絵はインパクトに欠けるかも知れない。が、自然回帰が生命への讃歌でもあり内面への探求でもあった、ヴォルプスヴェーデの若い息吹は、見落とすことのできない重要なものだと思う。 
 
 数年後には協会は解散し、派の活動は短命に終わる。
 今日最も評価の高いパウラは出産後に夭折、フォーゲラーも霊感が雲散霧消してしまった。
 第一次大戦でアム・エンデは戦死。同じく従軍したフォーゲラーは反戦思想から社会主義思想へと飛躍し、戦後はソ連に移住、第二次大戦では赤軍に加わって戦った。
 一方、美術界に社会的地位を築いていたマッケンゼンは、ナチスに入党している。

 こういう後日譚を知ると、「泥炭や、若画家どもが夢の跡」って感じがする。

 画像は、F.オーファーベック「花咲く蕎麦畑」。
  フリッツ・オーファーベック(Fritz Overbeck, 1869-1909, German)
 他、左から、
  マッケンゼン「母子像(湿原の聖母)」
   フリッツ・マッケンゼン(Fritz Mackensen, 1866-1953, German)
  アム・エンデ「春の日のヴォルプスヴェーデ」
   ハンス・アム・エンデ(Hans am Ende, 1864-1918, German)
  アム・エンデ「ハンメ川の帆かけ舟」
  モーダーゾーン「雲の山」
   オットー・モーダーゾーン(Otto Modersohn, 1865-1943, German)
  モーダーゾーン「ヴァイヤーベルクを望むハンメの牧草地」
  
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