魔の国境越え、再び(続々々々々々々)

 
「もう国境だ。これで半分来たよ」
 相棒はそう励ますけれど、どこからカウントして半分かって言うと、トリエステからなんだ。トリエステからバスでムッジャまで稼いだ距離と同じだけ、今度はコーペルまで歩かなきゃならないなんて、あんまりだよ。
 
 旧国境検問所は、普通の民家やらブドウ畑の庭やらのあいだにあって、私にはほとんど見分けがつかない。けれども相棒は感無量。
「この検問所だって、冷戦時代には悪魔のような存在だったんだよ! 旧ユーゴは云々……」
 こうしてみると、国境ってホントに、社会関係のつまらん産物だねえ。

 ところで、国境は坂の途中にあって、スロヴェニアに入ってもそのまま坂が続くことに、なんだか私は騙されたような気になった。そりゃあ、考えてみたら当然なんだけど。
 スロヴェニアに入った途端に、民家の数がグンと減って、野ざらしの空き地やら、畑やらの緑が増えた。延々と坂を上り切ったところで、道が交錯し始める。

 国境を越えて集落を二つ通過して、三つめの大きな集落がコーペルなのだと、相棒が言う。
 は、は、は、この辺りがようやく最初の集落なわけね。「ほんのちょっと歩くだけだよ」なんて、相棒は慰めるけど……

 でも下り坂だったのでそう感じたのか、あまり歩かずに次の集落に入った。庭の手入れをしているおじさんに、コーペルの方向を確認する。
「コーペルまで? オ~ッ……」
 おじさん、片手のひらで顔半分を覆って、それは難儀だな、と言わんばかりに嘆息する。

 今更どうにもならない。とにかく、海に向かって坂を下りていけば、コーペルなのだという。葡萄畑やオリーブ畑の道を、遠く海の青を眺めながら歩き続ける。

 To be continued...

 画像は、コーペル近郊、オリーブ畑の傾斜。

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オーソドックスの魅力

 

 マックス・スレーフォークト(Max Slevogt)は、マックス・リーバーマン、ロヴィス・コリントと並ぶ、ドイツ印象派の三柱として、しょっちゅうお見かけする。
 他二人に比べてみると、それほど目立たないスレーフォークト。が、印象派の明るい色彩を放つが堅実な写実の域を越えないリーバーマンや、形象が崩れに崩れて表現主義の域に入ってしまっているコリントに比べると、スレーフォークトの絵は、戸外の光を即興的にカンバスに描きとめた、最もオーソドックスな印象派、という感がある。

 バイエルン地方に生まれ、ミュンヘン・アカデミーで学んだのちにパリへと留学、そこで印象派に接する。
 が、スレーフォークトはあちらこちらを旅しており、パリもそのなかの一つにすぎなかったのか、彼の色彩が明るく輝くようになるのは、さらに数年先のことだった。色彩に目覚め、二度目のパリ訪問、あとはもう、心にとまった印象を、軽やかなタッチでサササ! と描きまくるばかり。

 彼が好んで描いたのは、これも題材としては印象派らしい、田舎の情景や都市の情景、オペラの舞台と歌手たちの情景などなど。西欧公演の成功で社交界の花となった、日本の川上音二郎一座の女優、貞奴の肖像なんかも描いている。

 ミュンヘン分離派に参加し、ベルリンに移ってベルリン分離派にも参加。ベルリンやドレスデンのアカデミーで活動し……、と案外、正統的な成功を収めている。保守的画壇に決別して結成された分離派だが、その後まもなく起こった表現主義の運動に引き比べると、当時はオフェンシヴだと罵られた分離派の傾向も、今日から見れば分かりやすく人当たりもよい。ドイツらしい厳格さと垢抜けのなさ、けれども小洒落た、スレーフォクトの印象主義も、そうだった。

 第一次大戦が勃発すると、公の従軍画家として西部戦線へと送られる。アカデミー画家になんてなるもんじゃない。
 戦争がスレーフォークトの絵に、どんな新たな視点をもたらしたのか……私には分からない。相変わらずに開放的で、晴朗で軽快。ただ、時系列的に彼の絵を見ていると、従軍の後には、絵はより感覚的な、素早い描写となったように思う。
 後半生は北ドイツで活動した彼だが、バイエルンに戻って死んでいる。

 画像は、スレーフォークト「ウンター・デン・リンデン」。
  マックス・スレーフォークト(Max Slevogt, 1868-1932, German)
 他、左から、
  「一日の労働の終わり」
  「ノイ=クラドウの庭」
  「小馬車のあるサンザシの森」
  「ドン・ジョヴァンニに扮するフランシスコ・ダンドラーデ」
  「貞奴」

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世紀の恋人

 

 ロシア未来派の女流画家ナターリヤ・ゴンチャロワ(Natalia Goncharova)の名で検索すると、ロシアの国民詩人プーシキンの美貌の若妻ナターリヤ・ゴンチャロワまでヒットする。この同名の二人、後者は前者の大叔母なのだという。

 ゴンチャロワの伴侶は、革命前夜のロシア・アヴァンギャルド運動の先駆者で、レイヨニズム(光線主義)の理論を提唱したミハイル・ラリオノフ。美術学校時代、ラリオノフと出会い、彫刻から絵画に転身して以降、ゴンチャロワは自身の絵画の活動拠点・分野・主義・表現傾向すべてにわたって、ラリオノフと同じ道筋を同じ歩調で歩みつつ、生涯にわたって添い遂げている。
 ロシア語講座の恭子先生は、“世紀の恋人”サルトルとボーヴォワールに触れて、ラリオノフとゴンチャロワもまた“世紀の恋人”だったと評している。

 私がちょっと不思議に思うのは、科学ならともかく芸術において、しかも受け手ではなく描き手として、こんなにもピッタリと同じ歩みを歩むということが、どこまであり得るんだろう、ということ。

 ゴンチャロワは印象派から出発するが、新しい絵画を模索する時期には、その色彩が禁欲的に暗くなっていく。そして、イコン(聖像画)やルボーク(手彩色木版画)などの、ロシア農村に伝統的な民俗芸術に触発された“ネオ・プリミティヴィズム(新原始主義)”、それを西欧のキュビズム(立体主義)・フュチュリズム(未来主義)と融合させた“クボ=フトゥリズム(立体未来主義)”、そしてレイヨニズム(光線主義)へと到る画風の変転は、伴侶ラリオノフのそれと、不自然なまでにそっくり一致している。
 ただし、ゴンチャロワがそのときどきに描いた絵は、どれも真似なんかではなく、しっかりとしたコンセプトの上に立つ、内面の素直な発露を感じさせる自然な表現なのだ。特に、ロシアの民衆表現を取り入れたプリミティヴへの嗜好は、育ちのよいお嬢さんの眼が農村に見出す、ある種の神聖さ、高尚さを、韻を踏む詩のようにリズミカルに表わしている。

 こういうことは、彼らの生涯の発展を事細かに研究しなければ答えを出せないことだと思うのだが、素人の眼で、ごく一般的に勘繰ってみると……

 ロシア絵画の銀の時代、新しい絵画への野心と愛国心とに燃える青年がいた。彼は理知的ではないが才走り、陶酔しやすく、中身よりも形を先に取り繕うところがあったが、それでも真面目に探求を続け、自分も世間も納得する新機軸を打ち出すに到った。
 感受性の強い娘がこの若者に心酔した。愛すれば、感じ方も考え方もその人と同じになってしまう資質の娘だった。優れた文化・教養の環境で育った素養ある彼女は、恋人が、様式を様式として表現する、その同じ様式を、自分自身のものとして、ごく自然に、表情豊かに表現した。それだけのセンスと描写力とを、彼女のほうは持ち合わせていた。

 ラリオノフは芸術家タイプには見えないが、ゴンチャロワは芸術家だった。その彼女が、夫の芸術理論を本物にし、豊かな、生命あるものにした、ということだろうか。もしそうなら、ラリオノフもそれくらいの自覚はあったに違いない。

 レイヨニズム宣言の後、二人はロシアを去ってパリに移り、ディアギレフ率いるバレエ・リュスのための舞台美術を手がける。故国ロシアには二度と戻らず、さらなる絵画表現も追求しなかった。

 長いあいだ事実婚にあった二人は、お互い最晩年の74歳で、正式に結婚する。……なんでわざわざ結婚したかな? 謎は尽きない。

 画像は、ゴンチャロワ「自転車乗り」。
  ナターリア・ゴンチャロワ(Natalia Goncharova, 1881-1962, Russian)
 他、左から、
  「馬鍬を持った農婦たち」
  「聖母子」
  「スペインの踊り子」
  「レイヨニスム、青緑の森」
  「聖餐式」

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魔の国境越え、再び(続々々々々々)

 
 徐々に鬼のような坂道になってくる。イタリアらしい白壁と赤茶い瓦屋根の家々。庭には白樺や、モミだかトウヒだかの針葉樹に混じって、棕櫚がニョキッと植わっていたりする。
 坂を上るごとに、振り返ると眼下に海が青く開けてくる。慰み程度だが潮風が吹いてくれるのが、ありがたい。

 丘への道が一本化してきて、品のよいお婆さんと一緒になる。ボンジョルノ。どこから来たの? ジャッポーネ?
「この道はスロヴェニアに通じていますよね?」
「ヨー、通じてますよ。スロヴェニアのどこまで行くの? カポディストリア!? オ~ッ……」
 お婆さん、それは犯罪的だわ、と言わんばかりに、眼球をぐりぐりとまわして呻いてみせる。

 坂だし、陽が照ってて暑いしで、あとは互いにゼーゼー喘ぎながら、言葉少なに歩き続ける。そのうちにお婆さんが遅れ始めた。
 お婆さんはこの辺に住んでるんだろうから、ゆっくり歩いたって別に何も問題ないんだろうけど、置いてけぼりにするのは気が引けて、私たちもペースを落とす。
 で、相棒、単語をちょっと知っているだけのイタリア語で、海を振り返って、婆さんに唐突に言ったことには……
「ベリッシマ(=最高に美しい)!」

 これは多分、「海」の名詞の性に間違った語尾変化をしたんだと思う。婆さんは一瞬、自分のことを言われたと思ったに違いない。パアッ! と若々しく顔を輝かせ、それから、苦笑気味の照れ笑いを浮かべて、内省するように自分に向かってしきりにうなずいていた。

 とうとう婆さんが、息を切らして立ち止まる。そして、先を行く私たちに、後ろから声をかけた。
「もうほんの何メートルか先ですよ。そこが国境よ」
「グラツェ、チャオ!」

 お婆さんに手を振って別れ、さらに坂を上ると、国境に来た。

 To be continued...

 画像は、ムッジャ、旧国境検問所(多分)。

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ダイヤのジャックとロバのしっぽ

 

 ロシア絵画史において、20世紀初頭、耽美な象徴主義のいわゆる“銀の時代”に続いて、アヴァンギャルドと総称される運動がボコボコと現われる。西欧のモダニズムと連動しつつも、ロシアに特有の運動として展開したので、“ロシア・アヴァンギャルド”なる名称で呼ばれている。
 これがまた活発なもので、革命以降もソ連画壇を席巻する勢いで突き進む。モダニズムの苦手な私には、こうなるともう何が何やら混迷状態。
 が、1930年代、スターリンによるアヴァンギャルド批判をもって、運動は一気に終息する。

 このロシア・アヴァンギャルドの最初期に現われた画家に、ミハイル・ラリオノフ(Mikhail Larionov)がいる。
 新しい絵画を模索するなか、画風を何度も転向している。その転向を、モスクワ美術学校時代に出会い、生涯の伴侶となり、ともに74歳となった老境で結婚した、女流画家ナターリア・ゴンチャロワが、ぴったりと付き従っている。

 セミポルノへの偏好、サボタージュやスタンドプレーのラジカルな言動などで、三度の停学処分を食らって、美術学校卒業までに実に12年も費やした問題児。彼に限らず、新しい絵画を目指す若者たちは、挑発的に、喜劇的奇行を繰り返していたらしい。
 コロヴィンに強く影響されて、まずはロシア印象派として出発したラリオノフだが、青バラ派に加われば遠洋のような青を用い、ナビ派に染まれば燃えるような赤や黄を用い、……

 が、やがて「ネオ・プリミティズム(Neo-primitivism、新原始主義)」というスタイルを見出す。この概念は、のちにアレクサンドル・シェフチェンコ(Aleksandr Shevchenko)という画家によって新しいモダニズムとして提唱されるのだが、西欧のセザンニズム(セザンヌ主義)、キュビズム(立体主義)とフュチュリズム(未来主義)と、イコンやルボークなどのロシアの伝統的な民俗芸術との融合を目指すというものだった。
 他にシャガールやマレーヴィチも影響を受けたという、このネオ・プリミティズムに、ラリオノフとゴンチャロワの二人も早くから熱中する。1908年、モスクワの「金羊(Golden Fleece)展」に出品。初めはマティスら、同時代フランス・アヴァンギャルドも出品された同展は、回を追って、それらを排除する勢いで二人の作品に埋め尽くされた。

 ラリオノフは、1909年、モスクワにて「ダイヤのジャック(Jack of Diamonds)」を結成、“ロシア・プリミティズム”とも“ロシア・セザンニズム”とも呼ばれる、西欧芸術とロシア民俗芸術とを融合させた作品群で展覧会を開催する。
 その後「ダイヤのジャック」が、エートス(=気風)の相違から確執が生じ、分裂すると、1912年、より急進的なメンバー、つまり、「クボ=フトゥリズム(Cubo-Futurism、立体未来主義)」を標榜するメンバーを結集し、「ロバのしっぽ(Donkey's Tail)」を結成する。

 この「ロバのしっぽ」の延長の上に、1913年、「標的(Target)展」にて、絵画の純化は物体に反射する光線の交錯の表現に行き着く、とする「レイヨニズム(Rayonism、光線主義)」を提唱。ロシアにおける最初の抽象主義の誕生となった。

 飛躍の進化を遂げたレイヨニズムだが、それが到達点だった。レイヨニズムは次へと継承されることはなく、ラリオノフとゴンチャロワがロシアを去ることで終焉を迎える。ラリオノフ自身、まもなく絵画表現の追求を捨ててしまった。
 この一連の流れを見ていると、独自に飛躍の進化を遂げすぎて滅んでいった、奇態なアノマロカリスを思い出す。

 ところで、スターリン独裁以降、ソビエト美術界には長らく社会主義リアリズムしか存在しなかった。が、スターリン死後、フルシチョフのスターリン批判によって、「雪解け」の時代が到来する。
 同時代の欧米モダニズム美術がソ連に流入し、フルシチョフは、ある抽象画を酷評してこう言ったという。
「何たる下手糞! ロバのしっぽで描いたようなくだらぬ絵だ」

 この“ロバのしっぽ”という形容は、どうやってフルシチョフの頭に入ってきたのだろう。とにかくこの事件以来、ロシア・アヴァンギャルドの再評価が進み、ラリオノフが立ち上げた二つのグループも、再び注目されるようになった。

 画像は、ラリオノフ「牛、レイヨニスム」。
  ミハイル・ラリオノフ(Mikhail Larionov, 1881-1964, Russian)
 他、左から、
  「理髪師と将校」
  「死んだザリガニのある静物」
  「休息する兵士」
  「自画像」
  「レイヨニズム、赤」

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