気まぐれ徒然かすみ草

近藤かすみ 

京都に生きて 短歌と遊ぶ

箸先にひとつぶひとつぶ摘みたる煮豆それぞれ照る光もつ

今日の朝日歌壇

2007-02-19 21:30:09 | 朝日歌壇
縄文のひとのごとくに木に祈り空師(そらし)は太き木を伐りそむる
(松戸市 猪野富子)

待つものはならぬでんわとこぬひととみゆきのしたのはるのくさのめ
(夕張市 美原凍子)

くるくると回転させて楽器より唾を抜きたりホルン奏者は
(八尾市 水野一也)

***********************

一首目。空師という言葉をはじめて知った。巨木を伐りたおす人のことらしい。縄文のひとはどんな暮らしをしていたのか、想像するだけだが自然に対する畏れは今とは比較できないほど強かっただろう。新しい言葉を知ることが出来た喜び、遠くへ思いを馳せる楽しみのある歌。
二首目。朝日歌壇の常連の美原凍子さんは、夕張市への思いを粘り強く詠っている方。「待」だけを漢字にして、あとはひらがなにすることで、「待」を強調している。
三首目。楽器は音色や形に注目するが、その手入れについてはあまり歌にしているのを知らない。このホルン奏者は、もう当たり前のこととして、楽器を回転させて唾を抜いている。軽やかな感じが伝わる。くるくる、ホルンの音の響き合いも良い。

新聞歌壇に載る歌は、比較的わかりやすく、そのまま作者の思いが伝わってくる。一方、結社誌や歌集で読む歌には、なかなか手強い歌が多い。上句と下句の連絡の良すぎるのは、深みが足りないと言われる。こうして、考えれば考えるほど、歌がアタマの中でぐるぐるまわる。どこかでエイっと出してしまうしかないのである。