生涯学習の部屋

資格取得数238。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

院生つながり

2009年06月21日 09時11分49秒 | ちょっと立ち止まって・・・
拙ブログがターゲットにしているのは生涯学習者の一歩手前の人である。

だから、常に「踏み出せ」「勇気を出せ」「申し込め」「トライせよ」場合によっては「命を刻め」等々、過激な言葉で読者を煽っている。

一種の洗脳にも、あるいは、脅しにも近い言動・・・しかし、「初めの第一歩」を踏み出さないかぎり、生涯学習は始まらないのだ。それは、どんな些細なきっかけでもかまわないが、一歩を踏み出すと、多くの方々は、そのまま生涯学習にのめりこむこととなる。

なんせ、人間は知的好奇心の旺盛な動物だし、第三者に認められたいという、マズローの言うところの「承認欲求」を持っているし、マニアという言葉が示すように集めることも好きな生き物だから。

本当は、「資格が取れました」とか「入学しました」という報告がたくさんあってしかるべきかと思っているが、その手のコメントは些少であり、めずらしく、たまにあると、非常に喜ばしく、時に感激のあまり涙する(喜怒哀楽が激しいのです)。

ただ、最近の傾向として、現役院生あるはその修了生の方々に、コメントをよせていただくことが多くなってきた。これはこれで、本当にありがたいことである。

特に、私の知らない情報なんぞを賜ると、感謝の念で一杯になる。彼ら、彼女らは、自分の貴重な時間を投下して、わざわざ調べ、コメントを書き、送ってくれるわけだから。画面いっぱいの情報を記したメールをいただいたりすると、時間泥棒のような気がして、申し訳なく思うことすらある。

でも、それはそれ、いつの日か、何か、この拙ブログにおいてお返しできればいいのかな~と、暢気に考えたりもする。

また、現役院生の方、あるいはその修了生の方のモチベーションの高さに、自分のグウタラな状況を反省することもある。何度も言うように、人は易きに流される。これは、自然の摂理でもある。しかし、それを跳ね除けるくらいのモチベーションがなければ、今の自分は変わらない。

呪うが如く、今の自分の不甲斐なさをさげすむ人もいる。しかし、その多くが、自分の不運や不条理な状況を恨むだけで、それを変えていこうという努力を怠っている。本当は、そういう人に、このブログを見ていただいて、一緒に、変化のために何かに取り組んでもらいたいのだ。

ひょっとしたら、何も変わらないかもしれない。しかし、何せず待っているだけなら、確実に何も変わらない。変化のための、ちょっとした触媒、それを私は生涯学習と考えている。ただ、それだけである。そして、院生つながりの友人達は、巧みに、変化のための準備を完了させつつある。
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要約すると・・・

2009年06月21日 05時12分07秒 | 生涯学習
先の記事で長々と1500字も書いてしまった。

言いたいことを要約すると

1.学ぶことは大切
2.知識は常に陳腐化し、劣化していく
3.昨日正しいとされたことが、今、正しくないことも多々ある
4.学習を継続して、自分に自信を持とう
5.学ばなければならないことはたくさんある。だから、何でもいいからスタートしよう

こんな感じかしら?
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学ばないことに対する恐怖心

2009年06月21日 04時23分03秒 | 生涯学習
久々に熱くなって、コメントに1,000字近く費やしてしまった。

もし、今、東京ではなく、地方に住んでいたら、本当に学習していただろうか・・・という思いである。事実、奈良に住んでいたときは、資格ばかり取得して、大学といった教育機関では学習していなかった。

されど、その資格取得自体、学習であり、本格的に大学通信教育に身を投じるまでは、一般の通信教育を経験した。今、数えたら、ビジネス・キャリアだけでも通信講座のテキストが64冊あったから、100講座は下らない。

そもそも、産能大学に入ったきっかけが、「20年前に産業能率短期大学に在籍していたこと」「東京に転勤になったこと」「通信教育にかなりの自己資金を投下していたこと」の3点であり、大学ではなかったが、読書と通教は昔からやっていたのである。

それにしても、20年前、大阪に在住なのに、産業能率短期大学の科目履修生だったのは、偶然としかいいようがない。これが、生涯学習の縁というものであろう。

さて、このように、やってきたことを振り返ると、相応に学習してきたつもりであるが、ならもう十分学んだので、学習を終わりにできるかといえば、それはムリである。

なんせ、何かしら学んでいないと「バカ」あるいは「アホ」になってしまうという恐怖心があるからである。

関西では「アホ」は褒め言葉であるため、「バカ」「アホ」と並列に書いたが、常に「知識」というガソリンを補充し続けないと、いずれ、人間の成長は止まってしまうと怯えている。

普段、学ばなくても生きていけるのは、過去に学習したガソリンを消費するとともに、日常生活の惰性である程度、やっていけるからである。しかし、そのような形で生活を続けると、いずれ、己の保有する知識やスキルは陳腐化し、仕事の中で取得した「ノウハウ」や「対応力」だけで世渡りをする人間になってしまう。

それでも、器用な人はうまくやっていけるのだが、私のように、生き方が不器用な人間は、学習し続けて、常に新しい知識を吸収しておかないと、使いものにならないわけだ。

そう、私は「社畜になりたくない」から、学んでいるといっていいかもしれない。「社畜」という言葉はなんとなくきつい言葉であるが、要は、上司の言ったことに対して、何も考えず、全て「YES」というような人間に成り下がるなということである。

「YES、NOをはっきり言えるだけの知識、能力、スキル等を身につける」

「YES」というのは簡単だが、「NO」というのは、その理由を証明しなければならない。これは結構難しいことなのだ。理由なく、「NO」というのはただの「駄々っ子」である。とはいえ、自分が間違っていると確信していることを「YES」というのは、会社にとってもマイナスであり、それをそのまま「YES」としてやってしまうのは、会社に対する「裏切り行為」であり「逆臣」といわれても仕方がない。

自分に自信を持つために、何かしら学び続ける。学ばずに、陳腐化した過去の知識を大上段に振りかざすのは、滑稽であり、それこそ「アホ」「バカ」と罵られる悪行である。

昨日学んだことが、今日も正しいとは限らない。それだけ、急速に時代は変化してきている。その陳腐化した知識で生きていくことが、私にとって、どれだけ恐ろしいことか。ましてや、部下や、第三者に誤ったまま伝えてしまうことがどれほど重大な責任になるか。

無論、学習することで学位が取得できたり、人脈ができたり、新しい未来が拓けるといった効果もある。しかし、それ以前に、知らないことを学ぶこと、自己の誤った知識の修正をかけること、自分がいかに無知であるかを思い知ることの方が、先に出てくるテーマである。
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