今日で名古屋に来てから633日目。
日本福祉大学に入学し、鶴舞中央図書館で本を借り始めたのが2016年6月13日。ようやく、200冊の本を読み終え、201冊目の本が表題の本。タイトルはインパクトがあるのですが、やはりこの著者の書いた本は軽いですね。残念ながら、15分ほどで読み終えました。私の特殊能力?として、労が少なく書いた本はすぐ読めて、人生を掛けるような渾身の1冊は何日たっても読めないというものがあります。ひどい本になると、10分もかからず読めてしまうのだから、本が嫌いになる人が多くなるのも首肯せざるをえません。まさに、玉石混交の時代。
さて、この著者の書いた内容ですが、賛同できるのは5割程度。というか、タイトルの「日本人は学ばなくなった」は「正」ですか?「誤」ですか?どう思われます?
一体、著者は何と何を比較して「日本人は学ばなくなった」と断定しているのでしょう?著者は大学の先生。「学生は本を読まなくなった」とか「飲み会にも参加しなくなった」とか仰せなのですが、そもそも、昔の人は本を読んでいたのでしょうか?
まず「平安時代」を考えてみましょう。人々は読んでいるでしょうか?というか、考える以前に、どれだけの本が日本に存在していたでしょう?次に「鎌倉時代」。日本人のうち、何割が文字を読めたのでしょう。あるいは「明治時代」。何割の日本人が「大学」に行っていたでしょう。明治時代といわず、昭和時代でもいいです。進学率はどれくらいでしょう。
そう、誰が考えてもわかることですが、大学進学率が高くなり、第三次産業に労働がシフトしている以上、昔以上に学ばないと仕事を得ることができないのです。加えて、日進月歩の技術革新や新しい学問が生まれている現代は、昔と比べて学んでいかないと生きてはいけないのです。
本当に、数十年前の人々と比べ、我々日本人はIT技術を学び、誰でもスマホや携帯で情報を湯水のごとく吸収しています。現代人は「教養がなくなった」と著者は嘆いておられますが、その昔、教養があったのはごく一部の文化人で、当時は「ブルーカラー」が大勢を占め、教養を持ち合わせてもいない、「肉体労働者」としての日本人がいた訳です。
この著者が書いたところで残念なのが「大学教授を引きずり下ろすテレビ」(pp.22-23)ってところ。バラエティ番組で大学の先生が失敗したところばかりが編集で残され、大学の先生がリスペクトされなくなったという感じのことが書かれているのですが、「おいおい、教養があるなら間違えるなよ!」って突っ込んでしまいます。編集されても失敗されたところが残る程度の、「ちんけな教養」であれば、そもそも、テレビ番組に出ることをお断りするのが、一般教養というか、社会人の身だしなみだろう!って思ってしまいます。
あるいは「東大生の蔵書の変遷」(P.89)ってのも残念。東大生に「読み捨てにするものを除いてあなたがいまもている本の冊数」を聞いたものがあるのですが、100冊以下のクラスが1974年の15%から2000年には37.1%に倍増しているとのこと。それを「少なくなった」と指摘しているわけです。
本当にそれが教養低下の証拠になると思います?
1974年と2000年では何が違うか?そう、インターネットの普及です。本を読まなくても、文字は読んでいるのです。加えて、ネット環境や娯楽の高度化が進み、色々なIT関連や娯楽関連のグッズが部屋を占拠していきます。本を置いておくスペースも縮小されます。あるいは、不動産が高騰し、そもそも部屋のスペースが狭くなっていき、本の置き場がなくなったのかもしれません。
ちなみに・・・著者は指摘していませんが、1974年と1989年の比較でも100冊以下は15%⇒34.8%となっております。34.8%と37.1%ならそんなに変化がありません。その前提条件において・・・2000年では201冊以上と集計基準が変わっており比較できないのですが、1974年で601冊以上蔵書のある人は7%、1989年は6.3%とほとんど変わっていません。著者は、このことをどう説明するのでしょうか?自分に都合のいいデータは取り上げ、都合の悪いデータは黙殺するのでしょうか?
人類が進化している以上、旧石器人より縄文人、縄文人より弥生人・・・といった感じで、時代が進むにつれ、文化は進展し、熟していきます。当然のごとく、平均的な個体を比較すれば、時代が進んでいくにつれ「知識」をはじめ「文化性」は高度化していきます。高度化していく過程において、学習しなければなりません。強制的かもしれませんが、中には自発的に学ぶ者もいるはずです。だからこそ、高校進学率は100%近くなり、大学進学率も右上がりになっているわけです。
その背景を無視して、昔の立派な人と、今の凡人を比較して、「学ばなくなった・・・」とまで言い切るのは、結構、勇気がいることだと思うのですが・・・
日本福祉大学に入学し、鶴舞中央図書館で本を借り始めたのが2016年6月13日。ようやく、200冊の本を読み終え、201冊目の本が表題の本。タイトルはインパクトがあるのですが、やはりこの著者の書いた本は軽いですね。残念ながら、15分ほどで読み終えました。私の特殊能力?として、労が少なく書いた本はすぐ読めて、人生を掛けるような渾身の1冊は何日たっても読めないというものがあります。ひどい本になると、10分もかからず読めてしまうのだから、本が嫌いになる人が多くなるのも首肯せざるをえません。まさに、玉石混交の時代。
さて、この著者の書いた内容ですが、賛同できるのは5割程度。というか、タイトルの「日本人は学ばなくなった」は「正」ですか?「誤」ですか?どう思われます?
一体、著者は何と何を比較して「日本人は学ばなくなった」と断定しているのでしょう?著者は大学の先生。「学生は本を読まなくなった」とか「飲み会にも参加しなくなった」とか仰せなのですが、そもそも、昔の人は本を読んでいたのでしょうか?
まず「平安時代」を考えてみましょう。人々は読んでいるでしょうか?というか、考える以前に、どれだけの本が日本に存在していたでしょう?次に「鎌倉時代」。日本人のうち、何割が文字を読めたのでしょう。あるいは「明治時代」。何割の日本人が「大学」に行っていたでしょう。明治時代といわず、昭和時代でもいいです。進学率はどれくらいでしょう。
そう、誰が考えてもわかることですが、大学進学率が高くなり、第三次産業に労働がシフトしている以上、昔以上に学ばないと仕事を得ることができないのです。加えて、日進月歩の技術革新や新しい学問が生まれている現代は、昔と比べて学んでいかないと生きてはいけないのです。
本当に、数十年前の人々と比べ、我々日本人はIT技術を学び、誰でもスマホや携帯で情報を湯水のごとく吸収しています。現代人は「教養がなくなった」と著者は嘆いておられますが、その昔、教養があったのはごく一部の文化人で、当時は「ブルーカラー」が大勢を占め、教養を持ち合わせてもいない、「肉体労働者」としての日本人がいた訳です。
この著者が書いたところで残念なのが「大学教授を引きずり下ろすテレビ」(pp.22-23)ってところ。バラエティ番組で大学の先生が失敗したところばかりが編集で残され、大学の先生がリスペクトされなくなったという感じのことが書かれているのですが、「おいおい、教養があるなら間違えるなよ!」って突っ込んでしまいます。編集されても失敗されたところが残る程度の、「ちんけな教養」であれば、そもそも、テレビ番組に出ることをお断りするのが、一般教養というか、社会人の身だしなみだろう!って思ってしまいます。
あるいは「東大生の蔵書の変遷」(P.89)ってのも残念。東大生に「読み捨てにするものを除いてあなたがいまもている本の冊数」を聞いたものがあるのですが、100冊以下のクラスが1974年の15%から2000年には37.1%に倍増しているとのこと。それを「少なくなった」と指摘しているわけです。
本当にそれが教養低下の証拠になると思います?
1974年と2000年では何が違うか?そう、インターネットの普及です。本を読まなくても、文字は読んでいるのです。加えて、ネット環境や娯楽の高度化が進み、色々なIT関連や娯楽関連のグッズが部屋を占拠していきます。本を置いておくスペースも縮小されます。あるいは、不動産が高騰し、そもそも部屋のスペースが狭くなっていき、本の置き場がなくなったのかもしれません。
ちなみに・・・著者は指摘していませんが、1974年と1989年の比較でも100冊以下は15%⇒34.8%となっております。34.8%と37.1%ならそんなに変化がありません。その前提条件において・・・2000年では201冊以上と集計基準が変わっており比較できないのですが、1974年で601冊以上蔵書のある人は7%、1989年は6.3%とほとんど変わっていません。著者は、このことをどう説明するのでしょうか?自分に都合のいいデータは取り上げ、都合の悪いデータは黙殺するのでしょうか?
人類が進化している以上、旧石器人より縄文人、縄文人より弥生人・・・といった感じで、時代が進むにつれ、文化は進展し、熟していきます。当然のごとく、平均的な個体を比較すれば、時代が進んでいくにつれ「知識」をはじめ「文化性」は高度化していきます。高度化していく過程において、学習しなければなりません。強制的かもしれませんが、中には自発的に学ぶ者もいるはずです。だからこそ、高校進学率は100%近くなり、大学進学率も右上がりになっているわけです。
その背景を無視して、昔の立派な人と、今の凡人を比較して、「学ばなくなった・・・」とまで言い切るのは、結構、勇気がいることだと思うのですが・・・