生涯学習の部屋

資格取得数238。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

学びがどんどん楽しくなる?

2022年11月01日 06時43分48秒 | 勉強法
中央線の中で見つけた広告。


「勉強法のベストセラー100冊のポイントを1冊にまとめてみた」とのこと。「入試」「資格試験」「成績アップ」「教養」がどうなるのかよくわからない。楽しくなるだけなのか、即効性のある効果が認められるのか?

「学び方・インプット法の決定版!」だそうなので暗記物なのか。読まないと分からないが、読みたいとも思わない。

「みんなが認めた頭のいい人の絶対ルール」だそうだが、そもそも、そんな頭のいい人のモノマネが凡人の私にできるのかわからない。私も、凡人なりに、そこそこ学んできたつもりだが、誰かのモノマネをしたわけではなく、我流そのもの。その積み重ねが資格200超・学位20超となっている。

常々、このブログでも書いているし、ひょっとしたら当該書籍にも書いてあるのかもしれないが、「勉強法の本を読んでいる暇があるのなら目標の学習のテキストを読むべき」である。勉強法の本を読んだだけで「入試」や「資格試験」に合格した人はいない。無論、勉強法の本を読んだだけで「成績アップ」した人もいなければ、「教養」を身につけた人もおるまい。

教養も含めた全ての学問は、徹底した実践の中で培われる。だから、そんなに楽しいものでもないし、ましてやどんどん楽しくなったという経験は乏しい。できないことができたり、わからなかったことが理解できるのは、それなりに知的好奇心を刺激するが、その対価となる訓練や学習は結構つらいのだ。

苦しいことをそっちのけで「どんどん楽しく」とか易い方を強調する本は苦手である。いにしえより「学問に王道なし」とされ、王様でさえ苦しまなければならない学習を、どうして、そう易々と「どんどん楽しく」とか言い放てるのだろう。

まあ、私の基本的な考えは「人生全て等価交換」ということ。苦しんだ結果得るものがある。楽した上に成果も得るということは世の理に反しているため、どこかでその代償を払わなければならない。そんな考えだから、勉強法の本100冊って言われても、テキスト1冊頑張ろうよって思ってしまう。
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『偏差値29の私が東大に合格した超独学勉強法』

2015年06月21日 10時55分57秒 | 勉強法
「ビリギャル」よりこちらの方が信憑性があると思うのだが・・・

本人が進学したのは静岡県内の偏差値56ぐらい?のレベルの高校。そして、このショッキングな「偏差値29」は高3秋の模試での数学の成績らしい。一浪して東大薬学部へ。ゆえに、数学は必須であり、偏差値29からの東大合格は妥当性のあるものと考えられる。

一浪して東大だが、独学というのが凄い!著者の考え方からすれば、「予備校では効率的な勉強ができない」(p.39)上に、「予備校の費用対効果は低い」(p.41)そうである。やり方は過去問からスタートし問題集を解いていくようである。

「脳科学に基づいた超効率的暗記法」が第4章に書かれている。私は脳科学が嫌いなので参考程度に読むくらい。独学の著者だから、最後に「最新版 おすすめ参考書&問題集」なるものが掲載されている。2013年に発行された本である上、著者が東大に入学したのは2001年ごろのはずなのだが・・・

正直、この書籍の通り学習して東大に入学できる人は概ね0%だろう。この本を実践して合格することは「必死に勉強すれば東大に合格できるよ!」というのと概ね同値である。そう、「学習すること」が書かれているのであり、我々、試験のスペシャリストからすれば、特段、目新しいこは何もない。無論、学習をしたことがない人や、学習しているが方向を見失っている人には、なんらかの福音になるかもしれない。でも、「勉強法」の書籍としての、この本の構成は、私としてはあまり好きではないものである。

とはいえ、高校が進学校であるというトリックや、偏差値のトリックや、受験科目数のトリックがない分、まだ、この本の方が咲きに述べた本より、わたし的には好感がもてる。

されど・・・残念なのが、wikiによれば、著者は東大の薬学部を卒業したにもかかわらず、就職せず、作家として活動しているとのこと。著書には、東京の、国立の、薬学部に進学すると決めたが、その結果、選択は東大しかなかったとされているのに、薬剤師で働かないのなら、別に東大でなくてもよかったのでは・・・と思えてしまうのだ。

著者の人生をすべてウォッチしているわけではないため、不確かなことを言うのは危険なのだが、あえて、恐れずに言及すれば、著者の勉強法では、社会人として通用するために必要な、最低限のスキルを獲得できないのではと思ってしまう。

著者が東大を目指す理由として、p.4に「出版社がある東京に行って、医療啓発の本を書きたい」というものがあった。悩んだ挙句、「大学に行ったらどうだろう」という選択肢が出てきた。母親に相談したところ「大学に行くなら、生活費を出してもいい。ただし、地元以外なら国立に限る」との返答を得、「大学に行くなら、薬学部がいい。薬剤師免許があったら給料もよくなって本を書く時間が取れる。医療の知識も身につくし、うつに関しての晩今日もできる」と思った結果、東大しかないとなったわけだ。

wikiによると、中学校時代から鬱を患い、拒食症、リストカットを繰り返していたとされる著者。東大に行くという選択をする前に、何か、もっと大切なものがあったのではないか?そんなことを考えてしまうわけで。

現状、大学全入時代である。選り好みをしなければ、人数的には誰でも大学に入れてしまう。しかし、少しでも偏差値が高い大学、有名な大学、就職のいい大学、学費の安い大学・・・といった自己都合が加算されるため、人気の高い大学では競争が生じ、人気の低い大学では欠員が生じているのである。

社会人になって、振り返って見れば、受験戦争に投下したエネルギーを、もっと、人生にとって有益なものに投下していれば・・・と思ってしまうのは、私だけだろうか。
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忙しい社会人の学習術

2015年02月10日 21時59分29秒 | 勉強法

昨日の日経新聞夕刊7面の記事。

「忙しい社会人の学習術」ということで、ある意味、勉強法といえるのかもしれない。で、この記事は「通信教育を手掛けるユーキャン(東京・新宿)の講座企画1部部長」の話から始まるのである。

ユーキャンの部長曰く「いつか役立つだろうといった曖昧な動機だと長続きしにくい」らしい。そして、「キャリアアップの目標は例えば2年以内に海外駐在をする、宅建の資格を取って転職するなど具体的に決めることが大切」とも書かれている・・・

うっ、「2年で駐在」とか「宅建で転職」ですか・・・正直、勤務先で「入社2年目で海外赴任」って話あります?あるいは、「宅建で転職」って、合格率17.5%で年3万人超の合格者が生まれる「比較的容易な試験」に合格することで、何に転職するのだろう?そう悲観的に考えるのは私だけだろうか。

とはいえ、この新聞記事によれば、「目標・時間・自己」の「3つを管理」することが肝要らしい。

始める前に
①目標を決める
・勉強や資格取得の目的を具体的にする
・目標を達成した自分を想像し「心が躍るか」をチェック
②2つの締め切りを決める
・始める時期と目標達成の時期の2つを設定
③計画を複数用意する
・予定より遅れたり、勉強が中断したりした場合も想定する

始めたら
①最小限の努力で目標達成を目指す
・時間のある学生時代とは違うと認識
・資格取得なら合格に必要な得点だけを目指す
②工夫して時間をつくる
・通勤や家事など「すきま時間」を活用
・「まとまった時間」は好きなこととセットにして捻出
③やる気はこう維持
・やるべきことを細かく分け、小さな成功を積み重ねる
・できたことに目を向け、自分をほめる
・アメとムチを使い分ける

さて、どうだろう?これで資格や語学を修得できそうだろうか。「達成、具体的にイメージ」「完璧を求めず、効率優先」という見出しも躍る。

まあ、これでできる人もいるだろうが、できない人が9割超と断言することができる。そう、独学による自学自習はそれほど困難極まりないものなのである。

私が資格(職業資格)を取得できた理由は「日本一」を目指したからである。日本一を目指したおかげで、それなりに日本一に近づくことができた。日本百ぐらいにはなっているのではないだろうか。また、資格で論文を書き、教育学修士にもなっている。一方、語学についても、英語・中国語・韓国語と、片言ぐらいなら話せるし、極短期ではあるが、中国でも働いていた。

今は学位(教育資格)に特化しており、いつの間にか学位の数は19である。これも、日本一は無理でも、日本十ぐらいにはなっているのではないかと感じている。

では、このレベルに達するために、ユーキャンのごとくであったかというと、そうでもあり、そうでもなし・・・って感じ。あまり考えずに突っ走っているのが私。走りながら考える。「9割超のできない人」は、概ね、走る前に考え過ぎてしまい、そこで潰えてしまう。ゆえに、走れないし、演じることもできない。だから、慣性の法則のごとく、そのままの自分が、いつまでも、同じところで微動だにせず、佇んでしまうのである。

「最初の一歩を踏み出せ!」と、何度、このブログで叫び続けてきただろう。その一歩さえ踏み出せば、あとは、加速度的に事態は展開していくのである。それこそ、2年前にこのブログで武蔵野大学大学院に挑戦を宣言した方々が、そう、わずか2年で何人も修士となられたことが、すべてを顕著に証明しつくしているのである。

「わずか一歩の挑戦」が、簡単に出来そうで、実は、最大の生涯学習のネックなのである。諦めることはこんなに簡単なのに、勇気を出して申し込むことが、どれほど困難で、どれほど高いハードルなのかを私は知っている。だから、結果はともあれ、その勇猛果敢な挑戦者を私はリスペクトし、可能な範囲でサポートしてきたのである。

時に、その挑戦者たちは、部外者である傍観者達から「身の程知らず」とか「無茶」とか「絶対ムリ」とか、嫉妬からくる罵声を浴びせられることもある。でも、きっと近い将来、自分自身が「ムリ」でも「無茶」でも「身の程知らず」でもないことを知るはずである。

「最初の一歩を踏み出し、やり始めれば何とかなるものである」それこそが、最大の勉強法といえるのかもしれない。

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学ぶ方法があったとしても・・・

2014年04月27日 09時21分25秒 | 勉強法
GW前半?も、今日でおしまい。

何もしないうちに時間だけが刻一刻と過ぎ去っていく。得てして、人生とはそんなものである。「時間さえあれば、もっと勉強するのに!」とか言っている人に限って、時間が出来てもムダに時間を浪費して、なんら成果は上がらないものなのだから。

自分の周りを振り返ってみればよい。テレビをつければ「放送大学」や「NHK講座」等々学習プログラムが放送されているし二ヶ国語の番組もある。ラジオを付けても、同様の講座が放送されているし、「FEN」と言った英語の放送もある。地域次第であるが、韓国語の放送も聞き取れるところもある。インターネットで英語を拾うこともできるし、大学の講座の資料もダウンロードできる。図書館もたくさんあるし、公民館では廉価な講習などもある。カルチャーセンターや大学公開講座もある。

生涯学習社会ということで、これほどまでに学ぶチャンスが身近にあるにもかかわらず、正直、使いこなしている人は多くない。にもかかわらず、「時間がない」とか「お金がない」とか「キャンパスが遠い」とか・・・言い訳ばかりで何もしない人が大勢を占めるのである。

自分を正当化するために、小賢しい言い訳をする。しかし、そんなことをしても、何の意味も無いことは自分自身が良く知っているはずである。

そもそも、人間とは24時間学習し続けるようにはできていない。そこが、機械と違うところである。時に眠り、時に休み、時に働き、時に遊び、時に食事を取り・・・そして、その日常不可欠のイベントの残骸の時間を使って学習するのである。24時間の円グラフを作成する場合、最初にドカンと学習の時間をキープすることは、所詮、ムリな話なのである。

だから、必要不可欠の時間の隙間に学習時間を入れるとか、あるいは、通勤時間に学習時間を噛ませるとかしないことには、なかなか時間は捻出できない。そうやって作り出した時間は、短い上に、学習一本に専念できないにもかかわらず、意外と学習にとって効果的な働きをもたらす。

一方で、こんなにまとまった時間にもかかわらず、その大量さゆえに気を抜いてしまい、テレビを見たり、外出したり、グーグー寝たりと、本当、ムダに浪費してしまうものである。

そういう、無駄な時間が発生することも見越して、学習時間のキープすることが、少しでも自分を前進させる秘訣でもある。欲張っても仕方が無い。ゆめゆめ、時間の長さに支配されることなく、学習の密度で勝負するような気持ちでいる方が、すべて共倒れで学習ゼロにならないはずである。

無論、自律心が強く、今まで計画をたがえたことのない人には無用の話ではあるが。
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書店にて

2012年01月02日 03時26分00秒 | 勉強法
昨日、元旦にもかかわらず外出し、書店にいったのだが、やはり、資格関連の図書を見ると「楽して資格が取れる法」やら「最強の勉強法」といった風なタイトルが多い。

無論、作家がそのようなタイトルを欲したわけではなく、セールスの都合、そのようなタイトルに決まってしまったケースもあるのだろうが、私は、その手のタイトルがあまり好きではない。

世の活字離れを考えれば、たとえ、そのようなタイトルであったとしても、「読まないよりまし」なのかもしれないが、この手の本には大きな落とし穴が待ち受けている。

そう、その本を読んだだけでは、絶対に、お望みの資格も、達成したい目標も、永遠に手が届かないということである。

どの本で読んだのかは分からないが、「東京から大阪に行くのに、山手線に乗っていたら永遠に到着しない。だから、勉強法も間違えれば、永遠に合格しないのだ」って感じの、気の利いた一文を読んだことがある。きっと、読者は「なるほど~、今までの勉強法が間違っていたから、合格していなかったんだ!」と、己の不合格の原因を勉強法に結論付けるであろう。

そして・・・「不合格の原因は、絶対的な学習量の不足である」という、単純明快な敗因に目を背けてしまう。。。

挙句、本当に必要な学習もせずに、勉強法の本だけ読んだだけで、「今日は、結構学習したな~!」と悦に入ってしまう。効率の悪い学習をしていても、最後に合格する愚直な人は、何人か見たことはあるが、マニュアル本の読破だけで合格した人は、残念ながら、お目にかかったことがない。

むしろ、マニュアル本の読破だけで終わってしまう人が、いかに多いことか・・・

その1冊が、夢の実現、あるいは自己実現に結びついて欲しいと思いつつも、そういったたぐいの本に釘付けになっている人を見ると、どうも、残念な人に見えてしまう。

そして、心の中で「手に取るのはその本じゃない、向こうの問題集だろう!」と叫んでしまうのである。
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資格・学位のトラップ

2011年11月05日 06時20分05秒 | 勉強法
昨日、勉強法の本を読んだことを書いたのだが、資格や学位のトラップに気がついている方も多いだろう。

資格・学位には、受験者を混乱させる大きな二つのトラップが存在する。「実力未達成での合格」と「実力不明瞭な合格」である。

「実力未達成での合格」とは、「思いつきでマークしたところが偶然当たった」とか、「たまたま勉強したところがそのまま出題された」とか、「AO入試で上手く入学できた」とか、本来、想定されるレベル未満にもかかわらず、合格してしまうケースである。

「実力不明瞭な合格」とは、「ギリギリのレベルで合格した人と満点で合格した人の差」とか、「お情けで卒業させてもらった人と、首席で卒業した人の差」といったものである。

さて・・・注意してもらいたいのが、合格体験記とか、奇跡の勉強法とかを吹聴するタイプの人は、「実力未達成での合格者」、あるいは、「実力不明瞭な合格者のうち、ギリギリボーダーラインの人」が多いという点である。

そもそも、合格できない、あるいは合格ギリギリの人が合格するから「奇跡の合格」なのである。そういう人が合格すると、「本人は大変うれしい」し、「話題性がある」し、「神話性や神懸かっている」ため、メディアに登場するケースが多くなる。

どんな大学や、あるいは資格でも、合格者は年1000人ぐらいはいる。そんな中で、1人あるいは数人にスポットライトを当てるとしたら、やっぱり、「奇跡の大逆転」とか「底辺から最後に栄冠を勝ち取った」とか「偏差値30台からの挑戦」といったほうがおもしろい。「普通にコツコツ勉強して、計画通り合格しました」な~んて書かれても、おもしろくもなんともない。

で、ここでトラップ発動なのだが、本来合格できないレベルの人の、奇跡の合格体験記を読んで、その通りにしても、奇跡は何度も起こらないということである。あるいは、ギリギリで合格した人の体験記を読んで、その通りにしたら、合格可能性もギリギリということである。

勉強法の本の1冊には、「多くの合格体験記を読め」という感じのものがあったが、合格体験記を鵜呑みにするのは、危険極まりない。おもしろい読み物として読むのならいいが、それをバイブルとして、その通り実行することで合格を勝ち取ろうと考えるのはリスクが大きすぎる。

「学問に王道なし」

合格体験記や勉強法を研究するくらいなら、地道に勉強するほうがいいに決まっている。少なくとも、勉強ゼロで合格できるような試験はない。あったとしても、その程度の試験では、一般社会では通用しない。なんせ、受けさえすれば誰でも受かる試験なのだから。

「楽して合格」というのは魅力的な言葉だが、その術中にはまってはならない。楽をしたら、した分だけ、その合格の価値は薄れてしまうのだから。傍目では、同じ学位やMBAであったとしても、その価値を上げるのも、下げるのも、大学・大学院で学んできた履歴なのである。楽したら楽した分だけ、その報いを受けることを、学位取得者自身が一番よく知っているはずなのである。

履歴書を飾りたいだけなら、分不相応の資格や学位もそれなりの評価を受けることができるだろう。しかし、実際、それで採用されてしまったら、それ以上の働きをしないと、「詐欺」とか「だまされた」と指弾され、窮地に陥ってしまう。きついようだが、それが、楽した分の報いといえるのかもしれない。
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勉強法・・・

2011年11月04日 21時48分07秒 | 勉強法
本を整理するついでに家にあった「勉強法」と名のつく本を5冊ほど読んでみた。

くだらぬ・・・

勉強法といいつつ、その目標は「カネ」ということらしい。

勉強⇒キャリアアップ⇒高リターン(カネ)⇒幸せ

・・・といった感じの流れ。何か、まちがっていないだろうか?「⇒」は、本当に、その結果を担保するものであろうか?

確かに、学びは幸せをもたらしてくれるだろう。知らないことを知る幸せ、あるいは、ともに学びを競い合う友、教えを請うべき師。すなわち、学習は「知」への遭遇、「友」への遭遇、「師」への遭遇という、新たな3つの出会いを生む、尊い遭遇機能を持ち合わせる「神の見えざる手」なのである。

自分のキャリアをアップさせるって何なのだ?キャリアは自分の人生の軌跡であり、アップもダウンもない。では、キャリアアップしない、己の人生は、その存在さえ忌むべき、不幸な存在なのか?消し去るべき、悪夢なのか?いや、違うはずだ。生きてきた、その時間は、遡ることはできず、修正することも、変えることも、消し去ることもできない、ありのままの存在である。否定するくらいの「意志」があるなら、残りの人生を意味のあると信ずる何かに等価交換すればいい。

で、その等価交換の対象が「カネ」でいいのか・・・あるいは、地位や名誉、羨望される生活が、自分の、わずか、100年もありはしない人生と、信念を持って等価交換すべきものなのか?

全くもって、この勉強法という本には、「失望」を通り越して「絶望」すら感じてしまう。ましてや、「脳にいい食べ物」や「残業を回避して勉強する時間を確保」、「悔しさをバネにしてリベンジ」とか書かれているのを見ると、無念さが、全身を覆い尽くしてしまう・・・

これが、「勉強」と「学習」の違いなのだろうか・・・いや、そうじゃない、これは「勉強」に対する冒涜であり、どのような形でも「勉強すれば勝ち」という誤った認識から派生する悪意であろう。

勉強とは、自己実現の方法であり、手段であり、そのとるべき工程である。そう、残念ながら、勉強しない限り、自己実現はできないのである。だから、義務教育があり、その中で、自分の進むべき指針を掴み取り、そのベクトルに沿った「学習」を開始する必要があるのだ。その勉強が、余りにないがしろにされるからこそ、今の、ニートや、3年で退職する膨大な数の若者を生み出しているのではないのだろうか。

「勉強」の進化形が「学習」と思っている。そして、「勉強」も「学習」も自己実現のために必要不可欠のものである。「勉強」のやらされ感は、ある意味辛いものかもしれないが、新しい知識を得るため、半ば強制的に知識を詰め込まされることは、仕方がないことなのである。「勉強、、、ありがたや、ありがたや~」という奇特な人がいれば別だが、我々人間は、好奇心がある反面、未知の出来事に対しては臆病なのだから仕方がない。

でも、勉強で知識を詰め込むことで、ジグソーパズルのパーツが繋がり始め、それが、楽しくなってくる。そして、そのやり方や考え方を教えられるレベルにまで到達すれば、自己実現は目前である。そうやって、人類は、先人達の知識を教わり、教えることで発達してきた。その工程こそが、人類を人類として支える、尊い「学びの連鎖」なのである。それが途切れれば、人類はサルに逆戻りしてしまうからこそ、本能的に「学ぶ」のではないだろうか。

なら、学ぶことが人類が人類であるための使命なのである。辛いとか、苦しいとか、弱音を吐くのは仕方がないが、人類に生まれてきたことを宿命と思い、何かしら学び続けるしかないのだろう。
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勉強法(その11)

2010年11月23日 12時41分50秒 | 勉強法
なかなか続かないこのカテゴリー・・・

そもそも、我流の勉強法なので、どこがどう「勉強法」なのかがよくわからない。でも、それほど、他の方と違った勉強法で闘っているわけではないと思うのだが・・・

で、今回は「勉強法」というより「根性論」ってところか。

資格試験の3大原則は以下の通りだと思っている。

1.受験を申し込まないと絶対合格できない。
2.試験を受験しないと絶対合格できない。
3.合格のためには「適切な学習」もしくは、過去の経験に基づく「スキルの定着」、あるいは「最強の運」が必要である。

無論、この3大原則(っても、私が勝手に命名しただけだが)を満たさない資格も多数ある。大学を卒業するだけで取れてしまう資格とか、書いたものを事務局に送るだけで取れてしまう資格とか、名前を書くだけで全員合格してしまう資格とか!

しかし、ここで立ち止まって考えると、大学を卒業しただけで取得できる資格なら、その大学卒業の経歴だけで十分ではないだろうか(一部の国家資格等を除く)。あるいは、書いたものを事務局に送るだけで取れてしまう資格や、全員合格の資格は意味があるのだろうか(一部国家資格、公的資格、民間資格を除く)。

されど、この記事で述べたいポイントはそこではないので、ぼやきはこれぐらいにしておいて・・・

で、3大原則の項番1について、受験を申し込まないと絶対合格はありえない。だから、不合格でも、次の試験で再起を誓う。それでダメでもまた受験を申し込む。何度落とされても、トライし続けることでいつの日にか合格を勝ち取ることができるはずだ。

私自身、3回目、4回目で合格した試験もあるし、未だに挑戦し続けている資格もある。忙しくて、受験を見送ることもあるが、かならず取得するつもりで、再起を虎視眈々と狙っている。さすがに、受験できないのに申し込むような愚かなことはしないが、いずれは、合格を勝ち取るつもりでいる。

その不屈の精神こそが、合格には必要だと感じている。
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勉強法(その10)

2010年11月16日 21時24分44秒 | 勉強法
時には書かねば勉強法。とはいえ、この勉強法が役に立つのかは不明であるが・・・

今回は、勉強の必要性について書きたい。というか、勉強って本当に必要なのだろうか?仕事に猪突猛進で実績をバリバリあげている人と、仕事は適当で趣味の勉強をしている人なら、どちらが労働市場で評価されるだろうか?無論、仕事バリバリ人間の方が評価が高いであろう。仕事の中で、それなりの実績を残している人は評価されやすい。


って書くと、やはり、自己啓発なんて不要なんだと思うかもしれないが、本当に、仕事一本槍で実績をあげ続けることができるのだろうか?私の知る限り、優秀で評価される人っていうのは、見えないところで、結構、勉強しているものだ。語学もそこそこできるし、本も読んでいるし、社内の試験でもそつなく高得点をあげている。

押しの一手が強いのもいいが、それだけで評価される時代ではない。限られてた時間で効果的に成果をあげるためには、やはり、学習というもの抜きには達成できない。つまり、勉強しないと評価されないという結論に至る。

また、勉強した内容というのは知識として残るし、資格や学位等、公的に認められる証明を取れば、それだけで、ある程度、他者を納得させることもできる。早め、早めに学習成果を残した方が、効果的である。20代で資格をとれば、かなり長期間資格を活用できるが、80代で資格をとっても、ほとんど仕事では活かせない。

・・・といった戯れ言を書いてきたが、勉強する意味や必要性について、ちょっとは認識いただけたやもしれぬ。勉強法というか、モチベーションを高める方法といった方がいいかもしれぬが、時には書かねばならぬから、このような内容でご勘弁願いたい。
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勉強法(その9)

2010年11月07日 08時43分40秒 | 勉強法
1週間に1件といいながら、久しぶりに勉強法について考えてみる。

その前に、「人間学」「死生学」「グリーフケア」のレポートを書かなければいけないのだが、「書けない」から仕方がない。そう、「書けない病」発動中なのだ!

既に、6,716件の記事を書いているので、重複してしまうことがあればお許し賜りたい。過去の記事をすべて覚えるほど、頭は優れていない。書いたら忘れる方が大半である。

勉強は「コツコツやるべし」という、古くからの民間信仰がある。「コツコツ学習教」というものかもしれぬ。なるほど、その通りである。毎日学習することは尊いし、「継続は力なり」で、「学問に王道なし」である。でも、この論理からすると、長時間勉強しているもの、すなわち、「先発性の有利」「後発性の不利」は、いかんともしがたいものとなる。

ただし、これは、同じ分量の学習を毎日したとした場合である。作業効率(学習効率)が同じとした場合に、上記の「先発性の有利」は覆らないものと言えるのだ。

大学入試だけに限定するものではなく、受験においては「現役1発合格」と「それ以外」に分類される。「それ以外」については、「1回目」「2回目」「3回目」・・・・と回数を増やしていく。しかし、先発性の利益が担保されるなら、先行して学習しているものが不合格になるはずはないのだ。


ここまで、長~く書いてきたのは、自分自身で悟って欲しいからである。「学習は時間である」ということを。毎日コツコツやっていることは素晴らしいのだが、時には、1週間ぶっ通しで毎日15時間学習ってのもありなのだ(できるできないは別にして)。

毎日、30分を200日続けるより、1週間15時間やるほうが勝ることもある。時間の総数からしても、前者は100時間で、後者は105時間である。しかも、コツコツやる際には、意外と、勉強モードに入るロスタイムがかかることに気付いていない人が多い。勉強の環境を整える、以前学習した内容を思い出す、学習モードに切り替える等々のロスタイムが15分もかかってしまえば、実際、1日15分しか学習していないこととなる・・・

以上が、時間だけに限った話。コツコツやったとしても、集中してやったとしても、投下時間の効率が同じと限定した場合、正味投下した時間が勝っている方が強いのだ。



次に、話は大きく変わって、投下時間の効率に関連する話へと切り替える。

「15時間も集中して学習できない!」と言われるかもしれないが、それを支えるのがモチベーションである。「何のために学習しているのか」「何故、自分が学習してるのか」「目標は何か」「将来は何か」等々、人それぞれ、学習の理由がはっきりしているば、学習を続けることは難しいことではない。

逆に、受験に失敗するパターンとしては、予備校や専門学校に行って「時間を潰す」ことを目的にしてしまった場合が多い。とりあえず、時間だけは投下しているので、「やった気分」になってしまうわけだ。

「毎日コツコツ30分」も、毎日継続していることのみに満足し、実際の学習成果をについて「問い掛けない」から、不合格の無限ループに突入し、しかも、学習しているつもりにもかかわらず、不合格になるから、モチベーション低下現象も併発し、ますます、「投下時間」あたりの「成果」が小さくなっていってしまう。

何度も言っているが、学習成果を「時間」で計算するのは非常に危険なことである。特に、目的意識なく学校等教育機関で勉強することは、座っているだけでも「学習2時間」と思えてしまうから特に危うい。「睡眠学習で8時間も勉強しました!」って言うのと同じで、実際の成果はほとんど期待できない。

「1時間学習する」という目標より、「10問問題を解く」といった目標の方が、錯誤を生じさせる可能性が低い。実際、短期で合格している人は、「効果的な問題」を、「可能な限り少なく」マスターして試験に望んでいる。一方で、不合格の無限ループにはまっている人は、「合格には無意味な問題」を中心に、「あやふやな知識を闇雲にたくさん」マスターしたつもりになって、挙句、自滅してしまっている。

「コツコツ時間を掛ける」より、「一気呵成に効果的に」学習する方が、合格という形になることもあるのだ。
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