生涯学習の部屋

資格取得数238。6つの修士と18の学士と2つの短期大学士。MBAサラリーマンの生きがい発見生涯学習奮闘記。

和銅遺跡

2024年01月21日 22時02分15秒 | 歴史
山道を進むと、何やら大きな物体が見えてきました。


そう、教科書にも出ていた和同開珎の巨大なモニュメント!


人が立つとその大きさがわかります。


ここが和銅遺跡。


そして、露天掘り跡もあります。


分かりづらいですが、案内板には2ヵ所「露天掘り跡」の表示がありました。そのうちの1つが上記の画像です。


行くことができてよかったです。
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関ケ原古戦場 東首塚

2021年07月25日 10時02分55秒 | 歴史
関ケ原駅まであと一歩のところで、東首塚に迷い込んでしまいました・・・


こちらにも関ケ原古戦場の石碑がありました。


首塚の石碑があるのですが・・・


この石碑より、後ろの古木の方が、なんだか怖い。


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関ケ原古戦場 徳川家康最後陣地

2021年07月25日 09時43分23秒 | 歴史
決戦地から関ケ原駅に戻る際、遭遇したのが徳川家康最後陣地。


結局、ここが床几場のようです。


ここに家康公がいたのですね。


でも、石碑を見てみると・・・「床几場 徳川家康進旗験馘處」となっています。 



やっぱり、首実検をしていたのですね。
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関ケ原古戦場 決戦地

2021年07月25日 09時19分39秒 | 歴史
石田三成陣跡から歩いて決戦地に向かいます。


こちらが天下分け目の決戦地。


多くの人が決戦地で写真を撮っておられました。


で、決戦地からみた石田三成陣跡。



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関ケ原古戦場 石田三成陣跡

2021年07月24日 23時19分58秒 | 歴史
関ケ原ウォーランドを後にし、関ケ原の古戦場を回ることとしました。

目指すは、以前、豪雨のため、目前で見送ることとなった石田三成陣跡。


あの山の上の幟が立っている場所が石田三成陣跡です。


笹尾山を登ります。


ここが石田三成陣跡です。



石田三成陣跡から決戦地方面を望みます。


ここが天下分け目の関ケ原なのですね。

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喜多町西遺跡公園

2021年07月20日 21時10分03秒 | 歴史
「す奈は」に向かって歩いていると、喜多町西遺跡公園の案内板がありました。


遺跡公園に到着です。


こんな風景です。


高床式倉庫と竪穴式住居があります。



でも、それ以上に、この遺跡公園に来てよかったのがこちら!!


タマムシを拾いました!残念ながら息絶えていたのですが、この美しさは、さすがタマムシ。10年に1回ぐらい遭遇するタマムシ。次回は、是非、生きているタマムシを捕まえたいです。

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伝豊臣秀吉母宅跡

2019年06月24日 06時17分09秒 | 歴史

豊臣秀吉の母を大政所と呼びます。

その大政所ですが、なんと、出生地が、この御器所ということです。

その地がこちら。

御所屋敷跡の石碑があります。

御器所八幡宮から徒歩5分ほどの場所。やはり、歩いてみると、色々発見がありますね!

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伽和羅古戦場

2018年09月26日 21時16分58秒 | 歴史

実家から京田辺駅に向かう途中にあったのが伽和羅古戦場

ここに石碑があります。

「伽和羅」は「かわら」と読むそうです。

案内板の文章は以下の通り。 

『日本書紀』崇神天皇の条 武埴安彦(たけにはやすひこ)が天皇にそむいて輪韓河(わからがわ・木津川)の戦いに敗れ、軍兵は甲を脱ぎすてて逃げたが、後にその甲を脱いだところを「伽和羅」と称したと記されている。 『古事記』応神段 大山守命が宇治の近くでの戦に破れて宇治川に流され、訶和羅之前(かわらのさき・伽和羅)に来て沈んだ。鈎(かぎ)で探したところ、甲がかかり「かわら」と鳴ったという。そこでその地を「かわらのさき」と呼んだという。『和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)』 甲作郷(かわらづくりごう)の名が見え、この付近のことと長く考えられていたが、昭和63年(1988)から行われた八幡市の正法寺文書の調査により現在の八幡市八幡付近が、甲作郷であることが判明した。この付近は、『和名類聚抄』にいう「志摩郷」の地とされる。

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曽根遺跡公園

2018年09月12日 02時51分31秒 | 歴史

偶然なのですが、豊田スタジアムの南に「曽根遺跡公園」を発見しました。

縄文時代から鎌倉時代にかけての遺跡だそうです。

まず、最初に目を引くのが竪穴住居。

登呂遺跡と違って中には入れませんが、遺構から復元されたものです。

実際の遺構はこちら。

遺構と言っても、地面に穴が開いているだけなのですが・・・

縄文時代の住居跡のようです。

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足助陣屋跡

2018年09月10日 05時43分23秒 | 歴史

足助の町並みをブラブラしていると、足助陣屋跡に到着しました。

案内板はこちら。

とはいえ、中に入れないし、外から見られる範囲内では、何もないようなのですが・・・

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