南無煩悩大菩薩

今日是好日也

蝉と蜘蛛の関係。

2010-07-13 | つれづれの風景。

子供たちの夏休みには自由研究という宿題が出されます。

僕は蜘蛛の研究をした。

蜘蛛の足を2本だけ取ってみた。
歩け!・・蜘蛛は歩いた。
もう2本取って言った。
歩け!・・蜘蛛は歩いた。
もう一度2本取ってみた。
歩け!・・蜘蛛は歩かなかった。

それで、僕はこう書いた。
「蜘蛛は、足が6本なくなると、 耳が聞こえなくなる」


すみません、嘘つきました。
そんな笑い話を思い出したのは、
今朝今年初めての蝉の声を聞いたからです。
それで蝉の話を書こうとしたら、蜘蛛の写真しかなくて仕方なく。

蝉の初音・・おお、夏や・・梅雨・・夏本番・・夏休み・・思いは馳せる・・写真写真・・な、無い・・蜘蛛みっけ・・蝉の声・・耳で聞く・・あ、笑い話思い出した・・ま、ええか。

とざっとコンナ感じだったのであります。

でもこの関係、蜘蛛だけにどうもスッパイダー。
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利休ちろり。

2010-07-12 | つれづれの風景。

野外用の酒器であるちろり。

今で言うポットである。

ぽっと出とちがって、歴史ある呼び名がちろりである。


ちろりちろりとやる酒をちろりちろりと夢見ごち。

んー。よい響きだ。

欲しい・・・。

周りには誰もいない・・・。

いかんいかん。

ちろりとしゅきをうかがってしまった。
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メルヘンの桎梏(しっこく)。

2010-07-10 | 有屋無屋の遍路。

鳥が空を飛ぶのは当たり前である。だから鳥といえる。

魚が水を泳ぐのもその通り。だから魚といえる。

魚が空を飛んでいたり、鳥が水中に泳いでいたりすれば、それは、メルヘンである。


したがってこういうことが言える、

ある場面においての「無能さ」とは、「有能ではない」ということではなく、「ある価値的な規範のもとでの劣性」を意味するものといえる。
そして、人は誰でも、「ある価値的な規範のもとでの優性」は持ち合わせているはずだという考えを持つことが、「有能さ」をというものを引き出すのに役立つのではないだろうか。と。

人は誰でも、自分はもしかして無能なんではないかという考えに陥ることがある。

桎梏(しっこく)とは、てかせあしかせ のことを言う。

魚が空を飛ぼうと考えたり、鳥が海を回遊してやろうと考えたら、自分の持っている優位性そのものが、てかせあしかせとなるだろう。つまりは、優性が劣性に作用するわけだ。

メルヘンはその想像力を刺激し、情緒の安寧は約束するが、御伽噺を信じすぎると、幻滅(げんめつ)という桎梏を産むことになる。


ホメロスの悲劇といわれる話がある。
古代ギリシャの詩人ホメロスは、当時ではダントツの賢者と言われた。
ある日二人の漁師が海辺に座っていた。
魚は一匹も取れなかったから、時間つぶしにシラミをつぶしていた。
そこに通りかかったホメロスは二人に漁の具合をたずねた。
「とれたのは捨てて、とれなかったのはここにいるよ」と二人は答えた。
それはシラミのことだったがホメロスにはわからなかった。
彼はその謎を解こうと考えこみながら遠ざかった。
しかし謎は解けなかった。
そこで彼は羞恥のあまり命を絶った。


彼は、メルヘンを信じ込みすぎたのだ。

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肝試し。

2010-07-09 | つれづれの風景。

誰でも恐怖を感じたり、不安にさいなまされたりした経験があるものです。

恐怖は、明確な対象に-つまり「なにものか」に-向けられた情緒であるとされています。
それに対して、不安は対象をもたない情緒であるといわれます。

だから、幼児なんかは、経験智としての対象がないので、恐怖は感じていないとも言われます。
つまり泣く子はオムツの不快や空腹でなければ、
あたたかく抱きしめてやれば、泣くのはオシメぇになるわけですね。

おのずと、自分のこれは恐怖なのか不安なのかということがわかれば、対処方法や意識の持ちようが改善されるわけです。


その昔、口裂け女、というものが流行りました。
こういうのは、恐怖と不安の入り混じったものといえるのでしょうかね。
こんな話があります。

口裂け女が警察につかまって尋問を受けたそうです。
「なぜなんだ。なぜそんなことをしたんだ、どういうつもりなんだ、理由は何だ」
すると口裂け女はこう答えたそうです。
「そのことは、口が裂けてもいえません」

恐怖も不安もどこかへいってしまいますよね。
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思慮に際して。

2010-07-08 | つれづれの風景。

見えないのと、存在しないのは、よく似ている。


光の後ろにある黒い背景は何も見えないけれど、そこに何も存在しないわけではないのです。

見えている、知っている、覚えている、経験したこと以外が、無いわけではないのです。


なにかがある、ということが思慮深さにつながるのではないでしょうか。


よく似ているけど、ちがうものも、きっとたくさんあるに違いない。
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相互関係。

2010-07-07 | つれづれの風景。

おまえのかあちゃんで~べそ。

おまえのかあちゃんこそで~べそ。

こら!

兄弟げんかはやめなさい。

・・・。


子供の喧嘩は他愛もないが、大人の喧嘩はみにくかったりする。

特に身内同士のそれは、その家や共同体を滅ぼすようなことにもなるほどこじれたりする。

天国と地獄の話にこういうのがある。
どちらのテーブルにもおいしいご馳走が並んでいるが、数メートルはあろうかという長い箸がおかれている。
地獄では、自分だけがご馳走にありつこうとするが、その箸ではなかなか食べることが出来ず、全員が人の邪魔をし、いがみ合い、ご馳走を床に落としてだいなしにしてしまう。

一方天国では、自分の箸でご馳走をつまみ、反対側の人の口に入れてやり、みんなでおいしく楽しくご馳走を食べている。

・・・。

普段は強(こわ)い形相の毘沙門天だが、こんなぽりぽりと、腕をかくチャーミングな毘沙門天の彫像もある。

本当に大切なものを守るときだけ強くなるのである。
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セイ イエス。

2010-07-06 | 壹弍の賛詩悟録句樂帳。

植物の幸福は光にある。

人の生命の幸福は愛にある。

だから、何によっても覆われていない植物が、どっちの方に伸びるべきかだの、光はいいものだろうかだの、もっとよい別の光を待つべきではなかろうかだのと訊ねることなく(訊ねるはずもないが)、世界にある唯一の光を選んで、ぐんぐんその方向に伸びてく。・・・この愛よりもっと立派な愛がありはしないかだのと詮索することなく、自分に可能な目の前の愛に自分自身を、自分の生存を委ねるのである。このような愛だけが、人間の理性的な本性に完全な満足を与えるのである。-トルストイ-


僕のよく行くバーには、こういう言葉が掲げられている。
[酒は人類にとっては偉大なる敵である。しかし聖書にはこうも書かれている、「汝(なんじ)敵を愛せよ」]と。


生命とはなんでろうか。幸福とはなんであろうか。果たして愛とはどのようなものをさすのであろうか。


幸福は植物にとっての光にある。

身を焼き尽くすかもしれない光にある。

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審美眼と価値ある仕事。

2010-07-05 | 有屋無屋の遍路。

一見、枝がからまっているようにも見えるマツだが、カラマツではない。


一見複雑に見えるものも、よく見ればあるシンプルな法則にしたがっている事はよくある。

ものごとをよく理解できる人と、混乱する人の違いは「複雑なもの」と「複雑そうなもの」を同一視し、「考えること」と「考えられること」を、行ってみるか、放棄するかの違いでしかなさそうだ。

つまり、ちゃんと見て気長に追っていけばなんでも大抵のことは、誰でも理解できるようにこの世はなっている。

審美眼とはそういうもののようだ。

その際に大事なのは、そう自分を信じることと、努力することと、簡単にあきらめない事と、素直な視点を忘れないことだろうと思う。

はしょっていっちゃえば、好奇心と興味の持続力の問題だ。


庭園に一本の松を置くにしても、超一流の庭師は、枝ぶり立ちぶり色ぶりはぶり、延びしろから経年の変化までを考え、その選択には膨大な時間を費やすという。

植樹は一時間にしても、その裏には選択眼を養うためのはかりきれない時間が存在している。それがその庭師の価値であり、もちろん報酬もべらぼうに高い。

時給だけを聞けば、目ん玉が飛び出るだろうが、それは実働であって、それで価値は測れない。

好きこそ物の上手なれ。

高付加価値の仕事をする人たちは皆、好奇心と興味の持続において、その分野では飛びぬけて気長に没頭することができる。

審美眼を鍛えること、それがひとやまなんぼで買い叩かれず、「それでいい」ではなく「それがいい」と言われるような仕事ぶりにつながっているような気がする。


話は変わるが、
歯を抜きに行って痛いおもいで、5分で1万円の治療を受けたとしよう。
時給にすればぼったくりにも思えるが、でもだからといって、だれも同じ痛い治療を30分1万円の所が安いと思ったりはしない。

提供するだけではなく選ぶためにも、審美眼をわれわれは磨く必要がある。

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雨の日に薫る思い。

2010-07-03 | 有屋無屋の遍路。

四畳半の部屋で独り、

フレッシュな炒り立てのキリマンジャロとモカとサントスを5:3:2でミルに入れ手挽く。

その配分が美味いかどうかは解らないが、なぜかそうしていた。

部屋中に満ちていく珈琲の香りが、足りない何もかもは隅に押しやる。

あまったミックスナッツは、夜のウィスキーの友とする。

やがてピーピーと薬缶の蒸気機関車がご到着する。

ドリップは、・・・どうしたっけ、想い出せない。


ただ、豊かではないがスローで落ち着いた時間をすごした記憶が蘇る。

そういえば、あんな繭にこもったような時間を過ごすことを忘れて幾月日。

おんぼろアパートも気にならず、食いもんがなくても、金がなくても、人の目も、寒さ暑さも無頓着に過ごせたのはいつまでだったろうか。

霞んではいるが、確かに生命というものを自覚していたようなときがあった。

もういちどやってみたら、私は納得するだろうか、それとも途方にくれるだろうか。


今はそんな甘ちゃんを言ってられるような立場ではないことは重々承知の助ではあるが。

でも、私にも還暦が来ることがあれば、是非にやってやろうと思う。


忘れたらいけないのでここに書いておこうと思いました。

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明日なる。

2010-07-02 | つれづれの風景。

金梅という花である。

梅じゃないが金梅、黄色でも金梅。

それと知るは、名にあらず。

実を知ればこその名の妙なるを知る。

梅にあすなろ、金にあすなろ、


座っても金梅、寝ても立っても金梅。

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涼をとる。

2010-07-01 | つれづれの風景。

しかし蒸せますなぁ。

こう暑いと涼しい風景が欲しくなります。

涼しい会話に、涼しい思想を心がければ、少しは涼しい気持ちになります。

ま。資金繰りのことなんかは、考えるだけで背筋や首筋が涼しくなるので、うってつけです。

そういえば、スイーツなるものが流行で、どんな酢の物かとおもったら、甘いもの全般を言ういまどきの言葉だそうで、酸いも甘いも苦手で酸いも甘いも知らない小生としてはどうでもいいことですが、アイスクリームなんかもスイーツと呼ばれるのだろうか。

だとすれば少しは関係してくるわけで、冷え込んだケーキは、商売人としてはふところ具合が涼しくなるわけです。


しかし蒸せますなぁ。

ここ京阪奈あたりではコンチキチンの祇園さんのお祭りまではこの蒸し暑さは増すばかり。

長刀鉾の藁ちまき吊るして、無病息災を祈っております。


どちらさんもおかわりなく、暑中お見舞い申し上げます。

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