しろつめ草に、たまたま蝶が止まっている。
蝶が止まったところは、たまたましろつめ草であった。
どちらも主客をどう見取るかは、本人の自由で誤ってはいない。
私が愛したのはたまたまこの人である。
と、この人が愛したのはたまたま私である。
の主客の転倒は、おいおいなる不和を起こす可能性があるものの、あながち間違いとも言い切れない。
しかし。
たまたまのことに、理由を見つけようとすれば、それは、狭い思い込みの罠にはまる。
しろつめぐさには蝶が止まるものだ。
蝶はしろつめぐさに止まるものだ。
私はこの人しか愛せない。
この人は私だけを愛す。
上手くいったのは、私の行いのよさだ。
まずいことになったのは、相手が悪いからだ。
と、人は自己防衛のために、重荷を背負うようなバイヤスを自らにかけやすい生き物だ。
そもそも、蝶はなんにでも止まる。
そもそも、人は常に愛を切望する。
必然をたまたまと捉え、たまたまを必然と捉えるトラップと私たちは常に対峙している。
たまたまとたまたまではないことの主客を捕らえるのは、かなりの度量を要すのだ。
度量がなければ、「たまたま」は少しの不安で、すぐに縮こまるものである。