たたずまい

2013-06-30 | 日記

今日の画廊も静かだった。午後、3年前に住宅を新築されたというご夫妻が見えた。市内学校町に “ 小さな家 ” というコンセプトで長野県松本市の建築家にデザインを依頼されたそうである。完成写真をその設計事務所のHPで拝見させていただいた。外壁に越後杉をタテ使いに張った平屋の直線が美しい。家は低いほど自然に溶け込み、フランク・ロイド・ライトのプレーリー・ハウスをイメージさせてくれる。また外壁からはルイス・カーンのフィッシャー邸のたたずまいを思わせて、建築家の本を読んだあれこれの勝手な想像を、僕に愉しましてくれるのである。今度、お宅に伺う約束をした。これも画廊がもたらす、 「 出会い 」 という最も大切な “ 利益 ” の一つなのである。

ここに紹介した本は、僕が4日前に購入した中村好文著 『 建築家のすまいぶり 』 ( 2013年 ㈱エクスナレッジ刊 ) である。建築家自身が自分で建てた家に自分で住まうその住まい方を、建築家である著者自身が直接ご自宅に訪問し取材した本である。下の写真は札幌市にある上遠野徹氏の住まい “ 札幌の家 ” のリビング。外に壷が置いてあるテラスは、桂離宮の月見台を引用したそうである。コールテン鋼S造平屋の外壁レンガの、既にこのリビングからでも想像できる、実にシンプルな美しい住まいである。こういう本は掲載写真を見ているだけでも見飽きるということはない。上遠野徹氏はアントニン・レイモンドをとても尊敬されていたそうで、今では希覯本となった “ ANTONIN RAYMOND ARCHITECTURAL DETAILS ” ( 1938年 国際建築協会 ) を非常に大切にして来たそうである。そうなんですね! 正に “ DETAILS ” ( 細部 ) だったんですね! 「 神は細部に宿る 」 という。住まいには、住まい方には、 「 生き方 」 そのものが表現されるのである。

 


午後のギャラリー

2013-06-29 | 日記

今朝8時から 第14回目の 『 朝活 』 が当ギャラリーで開催された。12名の参加者があった。今回のテーマは 「 やってみたいことをシェアしよう 」 で、A4用紙に書いて発表していただき、皆さんそれぞれに目標があって、とても参考になった。例えば僕の場合は二つあって、一つは 「 絵画観照学 」 というものと、二つは 「 プライベート・ライブラリーの勧め 」 である。二つともいろいろ説明が必要なのだが、皆さんからヘンに納得賛同していただいたのである。近々、この発想と実現に関してのレジュメを作成し、個人、企業などにプレゼンをかけたいと思っている。散会は10時予定であったが、お昼頃まで歓談が続いた。

 『 朝活 』 が、今日、長岡ケーブルテレビ局の取材を受けた。7月3日放映予定ということである。 『 朝活 』 を主宰する佐藤君と棚橋君という二人の若者の無償の活動がピックアップされて、市民に知っていただくことは嬉しいことである。

夕方、外に出ると風が気持ち良くそよいでいた。写真のように緑濃い田んぼに長い日影がクッキリであった。この写真、ちょっと児島善三郎 ( 1893-1962 ) の絵画を彷彿とさせないだろうか? 色彩が鮮明である。 「 風立ちぬ、いざ生きめやも 」 、もうすぐ夏がくる。

 


デザイナーの家

2013-06-28 | 日記

世界的なフランスの女性インテリアデザイナー、アンドレ・プットマン ( 1925-2013 ) のアパルトマンを撮った写真集。本書は1990年、リツォーリ・ニューヨーク社から出版された。また、彼女はモダン・アートのコレクターである。特にヴラン・ヴァン・ヴェルデ ( 1895-1981 ) のよき理解者でもあった。ネットで彼女のことを調べていたら今年1月に亡くなったのだった。これは驚きだった … ご冥福を祈ります。

 


深夜の月光

2013-06-27 | 日記

今夜、同級生が我が家に来た。彼は今回の 「 県展 」 写真部門で奨励賞を受賞した。僕も嬉しかった。聞くところによると写真部門の審査委員長は鬼海弘雄 ( 1945生 ) という、僕の好きな写真家のひとりである。そして、受賞した彼もその人の写真を好んでいたのだった。好きな写真家が偶然同じとは、面白いものである。 “ アサヒスーパードライ生ビール ” 大瓶一本と、 “ JINRO ” 少々と、銘柄は聞かなかったが 彼持参の焼酎数杯を飲んだ。肴はあぶったイカだった。茜色の雲がまだ棚引いている時間から、いつかしらこの写真のような月光清かな深更になってしまった。話は尽きないのである。

 


長岡造形大学にて、思うことがある。

2013-06-26 | 日記

所用で長岡造形大学に行った。ついでに今月1日に開館した 「 丸山正三絵画館 」 に伺ったが、その隣に 「 浄土堂・宮澤文庫 」 なる小屋のような建物があった。これがよかった。写真はその内部を撮ったもので、四方造り付けの書棚に囲まれた空間は、古材を利用しているだけにとても心地いい空間であった。既にこの大学を退官された古民家研究家の宮澤教授の記念館だという。かつての先生の研究書や蔵書が大学に寄贈されたということで、この文庫が作られたそうである。普段は一般には閉鎖されているそうで、時には学生たちの教室になるということだった。今日、ご好意で見せていただいた。

ところで 「 丸山正三絵画館 」 のことだけど、どうなんだろう ? 壁に掛けられた大小の絵画が何とはなしに沈んで行くのである。タブローが生きていないのである。変形の室内のためか、空間性が欠如しているためか、あるいは絵がビッシリ掛けられたためか判断できないが、いわゆる美術館としての絵の見え方が、絵に見えないのである。それはどう考えても僕は、空間設計にどうも問題があると思わざるを得ないのである。それぞれの部屋に立って見れば、通常のセンスさえあれば誰にでも分かることだろう、と思う。この建築物の建築としての目的は一体全体那辺にあるのか、大いなる疑問だけが残ったのである。つまり、この建築物のデザイナーは丸山正三という芸術家に対して敬意を持っていたのだろうか。または、単に自身の作品としてだけ設計したのではないだろうか、という基本的な疑問である。

 「 丸山正三絵画館 」 は別名 「 MaRou の杜 」 ということである。 “ MaRou ” とは画家の雅号という。 “ 杜 ” とは? パンフレットによれば 「 いつも学ぶことの意味と意義に触れあう場、深い思索と創造の源の場を育む豊かな杜 」 という説明がある。従って、この絵画館あるいは展示館は、僕らに、具体的に何を言っているのだろうか。そして僕らに、具体的に何を見せたいのだろうか。丸山正三という一芸術家の何を、長岡の地で、後世に伝えて行きたいのか。 “ 杜 ” が何を意味するのか、その意味がどうも不鮮明で具体的ならざるものであるように思う。だから、どう考えても展示コンセプトはズレているのである、一つのアナクロニズムではないか、と失礼ながら僕は思う。ここは、丸山正三 ( 1912-2013 ) という第一級の造形芸術家との出会いの場なのである。出会いの場では atmosphere がいかに大切か! ということを痛感するのである。