Galerie412 “ 新井美紀 ” 展 

2019-05-25 | 日記

                 

来週から、表参道ヒルズ同潤館・ギャラリー412で 新井美紀展 ー ガラス絵とドローイング ー が始まる。5月30日(木)から6月4日(火)までの開催。僕も展示のお手伝いに参加し、30日の初日まで東京に遊ぶ。といっても2日あるか無いかの時間であるが、久し振りの江戸詣りということになる。412にもごぶさたしていて、懐かしい。画家も新潟の人で、僕は彼女の絵と出会ってもう4年くらいになるだろうか。今回は “ ガラス絵 ” ということで、彼女の本来の大きな油彩作品とはまた違った世界を見せてくれるだろうから、それに東京の老舗画廊にして表参道というモダンストリートで展示されるのだから、とても楽しみである。参道のケヤキ並木は季節も季節で、その青葉の美しさも “ ガラス ” にリフレクションされるだろうから、ここにまた新しい「美学」をもたらしてくれそうな予感がする。

         

              「 ガラス張りの船底を持った小型のヨットをセーヌ河に浮べた

              マリー・ローランサンは、月のよい晩が来ると幻想の旅に出る 」

              という話を読んだことがある。

              昨年、作家名を佐藤美紀から新井美紀に改名。

              油彩を愛し、一途に油彩画を描き続ける旅の途中、ガラス絵という

              小さな船底に出現するアルテミス。

 


「青い頬のひと」

2019-05-22 | 日記

             

スケッチブックに描いたデッサンをここに掲載したはしたものの、今夜も、星空の下で風呂上がりのストレッチはしたものの …… 。という訳でここに、このデッサンとストレッチの関係性が生まれてくるのだった。「 …… はしたものの」という共通項である。どちらが上位にあるとか下位であるとか、ではない並列の関係である。従って、デッサンという言葉も、ストレッチという言葉も単に発音に過ぎなくて、それらの意味はここでは意味をはく奪されて無意味である、とするのである。デッサンすることはストレッチすることと同じであり、また、ストレッチすることはデッサンすることであるから、実際のところ意味の通じない ( 無意味 )「する」である。だから僕は、日々を無意味に過ごして見たい、という希望があって、悩みや苦しみも無意味になってしまうことを「する」のを考えて見たいと思う。「 …… はしたものの」結果、結局は意味がなかった、ということ。こういうことは僕の日々には、たくさんあるのである。ものごとの意味のあることを、無意味であることに変えることは、それはどうせだったら面白いことだ、と思ってもいいかも知れない。意味の世界と無意味の世界があるんだったら、その両方の世界を自由に往来することができれば、そのことだけでもそれはそれで僕の人生をもっと豊かにしてくれそうである。何もここに、この絵を掲載することはなかったから、これは無意味である。しかし、僕としては面白いのですから、読者の方々様、悪しからず思っていただきたいのです。

面白い、は無償であって意味がない。ということとすれば、意味がないということは、ひたすらなる献身的な面白さのことである。

 


山開き前の守門岳

2019-05-19 | 日記

          

          

5月26日(日)は守門岳の “ 山開き ” である。前日の25日の夕方には栃堀の巣守神社で安全祈願の神事がある。真っ白だった山の雪も斑になってきた。下の写真は、刈谷田ダムから奥まで車を走らせて撮ったもので、曲がりくねった山道はそよ風の吹く、気持ちいい午後の時間だった。谷底の川の流れる音が結構響くのである。山鳥の鳴く声は余りにも長閑である。僕はこの山の麓で生まれて、この山々に見守られて育った。ここにこうしていることをシミジミと感じ入り、山人であることを感謝しないわけには行かないのである。それは幸福感と同時に悲しみも思い出させて、悲しみはまた同時に喜びに繋がっていることをこれらの風景が実感させてくれるのである。緑の春は来たりけり、遠くの雪さえ春の色である。田んぼも山も、そして僕も緑色に濡れている。

 

            


『 ルイス・バラガン 空間の読解 』

2019-05-12 | 日記

          

一昨日の夕方、この本 (大河内学・廣澤秀眞他編著 彰国社刊) を駅前のド・トールコーヒーで読んでいた。ブログにこのことをその日に上げようと思っていたが、他の用で夜遅くなってしまったからできなかったので、だから昨日が今日になってしまった。写真は、ド・トールで飲んでいたアイスティーと一緒に撮ったものである。この本は2015年6月に初版が出ていて、僕のは2017年6月の二版だから、この手のものでは割と読まれている本だと思う。従って、このメキシコの建築家ルイス・バラガン (1902-1988) は日本では人気があるのだろう。僕もその一人で、何よりも僕が魅かれているのはやっぱり基本的には建築家自邸のリビングルームであることは間違いない。そして何よりこの部屋に掛かるジョセフ・アルバース (1888-1976) の絵画がもたらす雰囲気がいいのである。
バラガンのそれぞれの部屋の写真を見ると、各部屋にはやはり絵画やオブジェや、それに書籍もあって、いい具合にいい雰囲気を作っているのが感じられて、僕のインテリアを考える時のアイディア・ソースになっているのである。ありがたきかな!である。バラガンはそういう意味においても、空間の空気をも創造する “ ATMOSPHERIC DESIGNER ” とでも僕は勝手に思っている。「空気デザイナー」「雰囲気建築家」「空気感創作家」etc. ま、何でもいいけど … 。それにしても、たった一枚の絵が部屋にこんなに溶け込んで、静謐、上質、瞑想、哲学、芳香、感性、知性などと言った言葉が僕の五感に浮上して、さらに五感を刺激してくるのである。これは一体どういうことなのだろう? 面白いな、と思うのである。建築を外部とすれば、絵画は内部であり、建築をハード・ウェアーとして見れば絵画はソフト・ウェアーである。また建築をフィジカルとすれば、絵画はスピリットと言うことになり、フィジカルとスピリットとは渾然するものである、ということをこのバラガンの部屋が教えてくれるのだった。

 


快晴の日に思うこと

2019-05-04 | 日記

          

今日は一日いい天気になった。それで朝から本を読んでる時間がなかった。それで何をしていたかと言えば、車の助手席に座って、セブン・イレブンで缶コーラを買って、それをお供に一日遠出をしていて、頭がほぼスカイブルーに染色されてしまって、少年のような遠足気分で帰宅したのだった。無精髭のゴッホのような麦藁帽子が欲しくなるような、向日葵はまだ咲いていないが菜の花の咲く初夏のような日だった。しかし、遠くウグイスの鳴く菜の花畑は薄黄色の思い出を、季節に託して揺れているのである。

写真は9時ころ撮ったもので、やはり2階の窓から覗いたもので、こんな景色でも一日の記録になって、この一瞬のシャッターの風景に僕の一生が反映されているような気がしてならないのである、田んぼの水と家が数軒あるだけのことではあるけど、ここにも夜になると夜がやって来て、何も見えなくする。何も見えなくなるとカエルの声が喧しくなるのである。そこで今夜はこの水面にも星座が出現するに違いない。また一日が過ぎて行ってしまう。遠出をして来て、今朝撮ったこの写真を見ながらブログを書いているが、目を閉じて今日見て来た海の光を繰り返している。海の中の水たまりにはレストラン “ キーウエスト ” の “ ラヴラヴシーガル ” の看板が映っていて、看板目当てにその “ ラヴラヴ ” を探索して見たが見つからず、柏崎市米山のエリアは僕の体力では理解不能に陥るのだった。ということをここに書いておいてもいいだろう。今日の海はガラスのカケラであった。すでに通称 “ 恋人岬 ” へ行く小道は賑わっていたが小道の先が崖っぷちになっているようで、とてもじゃないが、浜焼きの飯蛸でも食っていた方が身のためと思われるのだったから、それはそれであのカミーユ・コローの絵を彷彿するのである。

『高校教師』のかつてのTVドラマの先生と女生徒のすべてを捨てての逢引の駅は、日本で一番海に接近しているというJR青海川駅で、もう温まってしまった残りの缶コーラの黒いエキタイのすべてを捨ててしまいたいくらいに、展望のいいレストランは早仕舞いだったらしくて、つまらない存在にこそ、またあるいは逢引の駅のように今はひっそりとしていることが、僕に人生を教えているのである。最初の話に戻って「 それで何をしていたかと言えば 」ということの中にも人生性があるのである、ということも確かなことだろう。

ここにまた藤原定家の歌を『 全歌集 上 』から引いて見る。

        こいしなばこけむす塚に柏(かへ)ふりてもとの契りのくちやはてなん

恋死にをしたら、自分が埋められた塚には苔も生えて、植樹した柏の木も老樹になって、契った約束も朽ちて果ててしまうのだろうか、というのである。しかしここで、JR青海川駅の海の契りはかつてのフィクションを考えることも感じることもさせてくれて、日本海の恋愛の海潮音はいつまでも朽ち果てないのである。

いつかの日に、サピアンス夫人の晩餐会に招かれる機会に恵まれたら、上記のようなことを缶コーラのせいにしてしゃべって見ようと思う。アテネの丘ならぬヨネヤマの崖の上から鳥瞰する美しいフィクションのことを、祈祷のようにしゃべって見たい。海潮音、苔むす塚に木は古りても、昔の契りは朽ち果てることはない、と。