再び、晩夏

2011-08-31 | 日記

 

今日も長岡は暑かった、最高気温は35度あったという。残酷な暑さを残して平成23年の8月が去って行く。夜の部屋で、氷をガリガリ齧ると結構大きな音がする。音にも氷の冷たさがして耳がひんやりする。今年は、冷蔵庫の製氷機に感謝しなければならない。とてもじゃないが夜の寝苦しさは圧倒的だったから、夜中、冷蔵庫の製氷機は休み知らずの働きだった。一句出来。

   ガリガリと氷を齧る晩夏なり

写真は角川春樹著 『 魂の一行詩 晩夏のカクテル 』 ( 2007年10月 株式会社角川春樹事務所刊 ) のカバー。装丁デザインと写真はデザイナー・写真家の浅沼剛九。著者によると、彼は著者たちの句会のメンバーだそうです。パリの骨董屋でのスナップ写真。さらにその中に写真が写っている。鍵盤を弾いている二つの手。ウラジミール・ホロビッツの手だという。著者はこの写真に魅せられて、この一冊を作ったそうです。むべなるかな、である。角川春樹 ( 1942年生 ) の 「 一行詩 」 をいくつか紹介します。

  空き缶を蹴って潰して夏終わる

  炎天や少女の腋の暗かりき

  晩夏かな指にのこりし檸檬の香

 「 蹴って潰した空き缶 」 は、もう顧みられることはないだろう。夏とともに逝ったからだ。 「 空き缶 」 の缶には何が入っていたか、 「 炎天 」 だけが知る思い出か。残ったのは、なぜレモンの香りだけだったのだろう。それも指だけに。今日で夏が終わった。明日から秋になる。もう三つ紹介します。

  いっぽんの木の明るさを秋という

  秋風や遠くなりゆく人ばかり

  こほろぎやカフカの青い夜が来る

著者は 「 魂の一行詩 」 をこんなふうに定義している。 「 日本文化の根源にある 「 いのち 」 と 「 たましい 」 を詠う現代抒情詩のことである。古来から山川草木、人間を含めあらゆる自然の中に見出してきた 「 たましい 」 というものを詠うことである 」 と。今夜も寝苦しそうだけど、カフカを読んで寝ようか。さいわい、外ではコオロギが鳴いてる。一句出来。

  コオロギもカフカも夜も鳴きにけり

 

 


現実を幻想する、または幻想を現実する画家論

2011-08-30 | 日記

 箱 ( 表 )     表紙 

瀧口修造著 『 幻想画家論 』 ( 1972年6月 せりか書房刊 ) 。取り上げられている画家の中にパウル・クレーがいるし、マックス・エルンスト、マルセル・デュシャンもいる。箱の表紙はデュシャンのポートレート。撮影は河合イサム。河合は瀧口の友人?本書の 「 あとがき 」 にも瀧口は河合には言及していない。美術に関わっていた方だろうが、それにデュシャンを撮影しているくらいだから、瀧口に近い存在かも知れない。河合イサム、どういう人物だろう?

表紙は瀧口本人のデカルコマニーである。箱に書かれた文は 「 筆者は幻想画家という名で特殊な画家の種族を規定しようというつもりはない。幻想的な芸術家の現実的な物語こそ興味深い物語に値するものであろう 」 。 「 あとがき 」 の一部である。ここで面白いのは 「 幻想的な芸術家の現実的な物語 」 と言っていることである。どんな人間も、魔術師であろうが錬金術師であろうとも、誰でも現実的な部分はあろう、という瀧口の視点がいい。同時代を生きている画家でさえも、彼等の現実を知ることは、特にヨーロッパから遥かの日本にある瀧口には随分困難であったに違いない。ましてや画家それぞれが独特の生き方を生きている。しかしこの本を、 「 あとがき 」 に書かれている意識で読むことは楽しい。画家の何処が 「 幻想的 」 なのか、どの部分が 「 現実的 」 なのか。幻想と現実を分離仕分けしていく読書は楽しいし、それに本番に彼等の作品に向き合う時こそ、いよいよワクワクする。

本書の最後にデュシャンが論じられている。有名な彼の作品に  『  彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも  』  というのがある。大きなガラスの作品である。デュシャンはこれを制作するに当たって、多くのノートを残しているが、しかしノートを読んだからと言ってこの奇妙な作品が理解できる訳でもない。瀧口は次のように書いている。

「 それは以前として謎のような相貌を帯びて、空間に浮かんでいるだろう。これは 「 それを見ても何のことかわからない他の遊星の生存者から見た人間の恋愛なのだろう 」 というアンドレ・ブルトンの言葉が妙にその感じを言いあらわしている。 」

幻想と現実が緊密に織り込まれた彼等の作品を、解読するなんて事は不可能である。謎は謎のままでいいのだ。謎は、人生そのものだ。ブルトンを引用する瀧口の、諦めに似た確信は 「 妙に 」 真実だ。謎があるというのは 「 美 」 の一つの条件かも知れない。 「 人間の恋愛 」 もまた謎であった。

 


初めての体験

2011-08-27 | 日記

長岡市栃尾美術館での 「 体験工房 」 の作品です。薄い銅版を先の尖ったもので強くなぞって、一旦この版を腐食させ、裏の突部分をサンドペーパーで擦ったもの。ペーパーの掛け方によって全体の雰囲気が随分変化するようです。画家・長谷部昇先生のご指導で行われたました。 「 浮き彫り 」 ? ( 正式名称は何ていったかな… )

美術表現の技法には様々あって、個人個人それぞれに適した技法にめぐり合うと、これは幸福なことですね。なので、この銅版を使った技法は、僕にはどうもなじまなかったようです。初めてのワークショップは貴重な経験でした。


晩夏に読む詩集

2011-08-24 | 日記

中西博子著 『 詩集 引力のめぐる夏野 』 ( 1974年 詩学社刊、装丁・かかし座 藤泰隆 ) 。詩人の父は鳥類学者・歌人の中西悟堂 ( 1895-1984 ) 。これに西脇順三郎 ( 1894-1982 ) が序文を書いています。以下、ほとんど全文を引用してみます。

 “ 自然詩人中西悟堂さんの 「 娘の詩 」 は白い石に小鳥の魂が写っていると同時に白い石の魂が小鳥の中に写っている。 「 石は石である 」 と同時に石は石ではない。 ( 略 ) 円錐形の逆転は少女の断続的の崩壊は新しい楽章となってタンポポと桜草の中へもどってくる。だれかが戸をたたく。 「 待て 」 とまただれかがいう。メガネ工場への道標のある平原を横ぎってみよう。階段の上に華麗な七色唐辛子をいれた皿が一つあった。火山爆発の瞬間直前の微笑だ。景色は回転された。カラタチのトゲにつきさされた猫の生贄の上に新しい太陽がさしてきた。復活の連鎖反応の亀裂は夜明けの饗宴の化粧に虎の斑点をにじみさせた。銀河の契約は彼は知らない。夕やけのアスファルトの希望は美しい永遠の絶望であった。めでたき人が旅支度にとりかかるとき芭蕉がゆったりとゆれる。おだやかな呪文は足音となって石はそれを知っている。踏切りのない村でつまづいたがまた近道をかけだした。このように美しくあってはならない。秋が通りすぎた町を斜に通りすぎた。そしてそれを半分見たふりをして背中を向け 「 出発だ 」 と言った。 「 卵を抱く鶏よおまえの卵の如くに今私は湖水を抱いている 」 ”

西脇先生の散文は、通常の語彙のつながりで見ると、意味が分りにくいところがあります。むしろ分けが分らない、と言った方がいいかも知れません。つまり西脇の散文もまた詩であり、深遠なるポエジーなのですね。ポエジーという女神は文章の彼方に深く潜み、その姿かたちは通常では拝むことができないようです。女神に出会しようとするなら 「 近道をかけだし 」 てはならないし、 「 踏切のない村でつまづいた 」 りして 「 美しく 」 ポーズをとってはいけないのですね。

人生の 「 亀裂 」 は、 「 斜 」 でもいい一度は通過しなければならない。アスファルトで整備された 「 希望 」 の前方に、 「 永遠の絶望 」 があるかも知れない。それは 「 石 」 だけが知っていることだ。それでも 「 出発だ 」 。湖の水は人間のあらゆる液体で充たされている、それは新しい生命の発生源。女神は何処に隠れているのだろう、 「 湖水 」 にだろうか?野菊の一輪にだろうか?

 必ず 野菊の一輪を 私は見つけるだろう  ( 詩集中の 「 黒猫または真理について 」 より )

 

 

 


若くして逝ったCOSMOPOLITE・近藤邦雄

2011-08-23 | 日記

 ( 図録表紙 彫刻家近影 )

15年前の1996年 ( 平成8年 ) 10月2日、埼玉で一人の彫刻家が交通事故に遭った。その12日後、彼は死んだ。1949年 ( 昭和24年 ) 新潟県長岡市生まれの彼の名前は、近藤邦雄。47歳の短い生涯であった。

今は無い長岡現代美術館 ( 日本で最初の “ 現代美術館 ” 1964年開館・1979年閉館 ) で、当時僕はエンリコ・カステラーニ ( 1930年イタリア生  ) の鋭い凹凸のあるキャンバスの作品を見て驚いたことがあったが、年譜をみると彼もまたカステラーニの作品を見ているのだった。この美術館には前田寛治や安井曽太郎など日本の良質な近代絵画、そして海外のコンテンポラリーも展示されていた、中でもこのカステラーニは異質であった。ただキャンバスを、裏から鋭い大きな釘のようなもので何本も突いているだけの、表には何も描かれていない作品だった。それはまるで鋭い白い山々が生まれたてのように規則正しく並んでいるだけであったのである。こんなものが芸術であろうか、または美であるのか、そんな感覚で見ていたのだった。僕は未だ何も知らなかった。しかし死んだ彫刻家は違っていた。

その後彼は、愛知県立芸術大学卒業後、個展のかたわら事あるごとに、まるでボヘミアンのように欧米の、特にイタリア中心に各地を周った。巨匠カステラーニ本人にも知遇を得、イタリアには第二の故郷のごとく、何回も訪れている。死の前年にも東欧やイタリアを旅した。かつて彫刻家が17歳の時見たカステラーニの作品は、彼の太陽になっていたのだったナ…。僕が見たのは当時20歳だった。何を見て何を感じていたのか、僕は何も見ていなかった。同じものを見ていて…。精進と努力と情熱と想像力と知性と勇気と…もう後はどういうボキャブラリーを並べればいいか知らないが、雲と泥の差以上の差である、嘆。

作品はほとんどまとめて、遺族の方が大切に保管されているということだ。遅ればせながらではあったが、僕は彼の作品にめぐり合うことが出来た。それは新潟市美術館で開催された  『  木の詩 ( うた ) ― 近藤邦雄展  』 ( 2003年2月8日-3月23日 ) の図録からであった。近代事務機株式会社社長・駒形豊氏のご好意で図録を拝見することができ、近藤邦雄という彫刻家の存在を知ることができた、感謝致します。見るに、彫刻家は新しいフォルムを発見していたのだった!そしてこの新しいフォルムは扉を開いていたのだった!いつかこの扉の中を瞥見できれば僕は嬉しい。時間を越えて 「 アナザーワールド 」 が飛び出してきそうだ。彫刻家がアメリカの友人に宛てた手紙の、メモの中の言葉を、図録から紹介します。

 「 ARTに必要なのは、哲学と思想だと思う。芸術の道を志す者は、つねにいろいろ考えながら、新しく創造的なIDEAをさがし求めなければいけない。けど、ARTは科学じゃない。むしろ JUSTICE といってもいい。前向きに考えて、その道筋を示すように努めるのがARTISTなんだ。僕らはそれを実行しなくちゃいけない。まさにそれが作家の使命であり、義務だからね。 」

今は亡き若き彫刻家の創造遺産を、今在る若き人々に知的遺産として、なんとか引継げないものだろうか!

作品№957 ( 木彫作品 83×85×80㎝  けやき・油性染料・ワックス 1986 )