「 美しい女 」 

2010-09-29 | 日記
夜のシジマに虫の声を聴きながら…昔に読んだ文庫本を再読する。何処へとでもなく、思い出すこともなく、また別の何かがうごめいて、コスモスが揺れて、鳴いているのは虫ばかりではなかった。
下記は就寝前に読んだ寺山修司 ( 1935-1983 ) 著 『 寺山修司少女詩集 』 の一節で、 「 少年時代の私には眠り姫がなぜ美しいのか謎であった 」 という長いタイトルがついている。

美しい女には、どこかわざとらしさが必要である。 化粧、饒舌、技巧、仮面 ― そして、そのかげにひそむ、はっとするほど無垢の心。遊びのきらいな女に、美しい女はいない。詩を解さない女、ベッドのきらいな女にも、美しい女は、いない。
「 美しい女とは、美しい女になろうとする女のことである 」

「 美しいと思う女は、…、つまり、ほんとに眠ってる女じゃなくて、眠ってるふりをしている女だよ 」

少年は夏の別荘地で、ボンネットをかむって寝ている美しい人妻に出合った。そっと頬に触れてみると人妻は眠っているのではなく死んでいたのだった。ミステリアスな散文詩である。


雨のあとに

2010-09-28 | 日記
これも山道を歩いていた時のもの。ススキは群生しているのがいい、風になびいて生きもののように揺れていた。

夜は 『 良寛詩集 』 を読む。

  静夜草堂裏  静夜草堂の裏 ( うち )
  打坐擁衲衣  打坐して 衲衣 ( のうい ) を擁す
  臍與鼻孔對  臍は 鼻孔と対し
  耳當肩頭垂  耳は肩頭に当りて垂る
  窓白月始出  窓白みて 月始めて出で
  雨歇滴尚滋   雨歇 ( や ) んで 滴 ( したたり ) 尚滋し
  可怜此時意  怜 ( あわ ) れむべし 此の時の意
  寥寥只自知  寥寥 ( りょうりょう ) として只 ( ただ ) 自ら知るのみ

  草の庵の静かな夜、衣を抱えて座禅する
  臍は鼻孔と向い合い、耳は肩へと垂れている
  窓の外は白々として、月が出た
  雨は止んで滴を残し、この境地は座った人ではないと分からない
  ( 渡辺秀英著 『 良寛詩集 』 昭和49年木耳社刊 )

現代の今月今夜も雨は止んだが、雨の滴の音がする。しかし月光は黒い雲に覆われていた。深更、このススキを良寛の霊と月光の霊に奉る。


名器

2010-09-26 | 日記
新津の北方文化博物館レストラン 「 ウィステリア 」 を会場にして、若きヴァイオリニストの演奏会が催されたのは今夕であった。トンネルをイメージしたようなカーヴされた室内は心地いい空間であった。両サイドは壁ではなく、全てガラス張りで、夕べのトワイライトが、樹木の陰影を伴って伴奏用の KAWAI PIANO のマホガニーに差しているのだった。

テーブルを取り払い、ピアノと譜面台を中央にライトグリーンの椅子がやはりカーブに沿って整然と並んでいる。僕等は中央の最前列に席を取り 『 鍵富弦太郎ヴァイオリン演奏会 』 プログラムを見ていた。
イザイ、ピアソラ、サラサーテ、休憩、バッハ、モシュコフスキ、グリュック。そして、演奏会終了後懇親パーティー午後5時半より。 「 会場準備の間、屋外テラスにて歓談をお楽しみください。 」 とあった。

最後の Christoph Willibald Gluck ( 1714-1787 ) の曲 Melodie は人生の愁傷を奏でていた。この若きヴァイオリニストの抒情はどこから生まれてきたのだろう、秋の夕暮れの琴線上のアリアであった。参集したオーディエンスのため息は、ヴェルレーヌの 「 秋の日のヴィオロンのため息 」 でもあった。

パーティーの途中、お願いしてヴァイオリニストから 「 名器 」 を拝見させていただいのは嬉しいことであった。曰く 「 僕にとって命のように大切なものです 」 。写真にも撮らせていただき、感謝申し上げます。


みみずくの夕焼け

2010-09-25 | 日記
木菟、みみずくと読むが、この夕焼けの空には木菟が似合いそうだ。理由は何もないけど、大きな瞳を持つ夜の鳥が一羽、夕焼け空を滑空する情景はドキドキする。伝説に MAX ERNST ( 1891-1976 ) の怪鳥ロプロプは満月の夜の、山の端に横向きに巨大出現するのだった。チュウシュウのメイゲツのエルンストのロプロプのミミズクのメタモルフォーゼ。

  影絵の中で君の瞳だけが光っている
  やがて瞳は満月の残闕を孕むだろう

木菟と夕焼けのモチーフは非日常の世界をもたらしてくれそうだ。現実の世界なのに非常にシュールな世界を孕んでいるのだ。そう言えばこんな意味のことを先回書いたような気がする。

シルエットは立体を平面化する癖がある、地球も夕暮れ時には平面を夢見るのだった。僕等は余りに立体である、せめて秋の夕暮れには世界が平面であることを願う。


秋の日の石仏

2010-09-23 | 日記
石は微笑んでいた。

秋の日の山道の誰も顧ない路傍に、それは約束を待っているかのように失われていたのだった。

  「 石は紅差して千年答えず 」

瀧口修造の詩の一節だが、彼の何という詩であったか、今は忘れてしまった。「 石 」 とは石仏のことだろう。「 紅 」 とは口紅が剥がれ落ちてしまって、微かに残る紅のことだろう。紅はまた、慈悲のことでもあるかも知れない。石仏は千年の時を経ても答えられないのだ。あなたの顔が見えないし、あなたの声も聞こえない。問われたことさえ知らないのだ。ただ静かに座して千年の時が巡った。そして、いつか石は微笑んでいた。