春の日は、夕暮れてのむらさき色

2013-04-30 | 日記

                            

              むらさきしきぶのポートレート                

 

                誰にもはばかることなく

                道端の小石の重量は影を長くする

                そこでは風も木々もなにもない

                水平線のガケップチに

                夕陽がひっかかる

                春の日は夕暮れてから

                春は深くむらさきになる。

以前、紫式部の空想のデッサンを描いた。今は思い出せないが何かの歌集を読んでいたのだと思う。歌から喚起する彼女のイメージが、現代の道行く女性のリアルな姿と重なってこんなデッサンになった。紫色はノーブルな色だと言われるが、紫さんは名前に違わず才色兼備でソフィストケイトな女性だったに違いない。

道端に転がる小石にも存在があり、その存在に光が当たるとそれは輝き、存在の陰影を長くするのである。夕暮れは、存在の深さを鮮明にするのだった。春はむらさきに暮れて逝 ( ゆ ) く。

 


塗られた花嫁、のようなもの。

2013-04-28 | 日記

                        

               “ 「 この世の果てまで、そばにいて 」 と、歌う歌手がいて、

                 今日の庭は、風が冷たいのである。”

                         土手の桜が散って、花びらが夜の川面を流れて行く。

                 清らかな夜のヴァージニティ!

 

                 花は盛りに 月は隈なきをのみ 見るものかは。

                 雨に対(むか)ひて月を恋い

                 垂れこめて春の行衛(ゆくへ)知らぬも 

                 なほ あはれに情深し。   ( 『 徒然草 第137段 』 より )

                

                 盛りばかりではない、満月ばかりではない。

                 雨の日にも月の光を思う。去り逝く春の日。

                 散りゆくもの、欠けゆくもの、遠く霞むもの。

                 自然の純潔性は悲しきもの、美しきもの。

                 あるいは人もまた。

 


今日のgallery artbookchair 室内空間

2013-04-27 | 日記

                           ( 写真提供 : 石原洋二郎デザイン室 )

今日午前8時から10時まで、参加者13名になる 『 第12回朝活 ― 私の愛するものを紹介します ― 』 の会場に使っていただきました。最近の週末の天気はどうも悪いようで、キャンセルの方も何人かいましたが、それでも盛会になりました。足元の悪い中、ご来場いただいた皆さんにはくれぐれも感謝致します。それに、心あたたまるお話も伺うことができ、満たされた時間でありました。

 


“ 夫妻のDISTANCE ”

2013-04-26 | 日記

              

   The Dial はアルファ・ベッドで行う夫妻の寝室は明るい。

   S から までの距離は遠いから、ここでは休憩が必要になる。

   海岸は銀色に光り、海はすでに金である。

   K1 から K2 にしたが、突き進んでしまったのはそんなに

      つらくはないのだった。

   主に考えられるのは、真の意味では人は活動々物であることだった。

   前と後、上と下、横もれと縦もれの関係式は未だに未発見である

      のは残念であった。

   T から へは近い。

   目と鼻の先からであるが、しかし、自覚としては無理がある。 ”

僕の絵は、単に思いつきに過ぎない。さらにその画面に思いつきの言葉を投じるのである。これがスパイスになるのかならないのか、勝手な言葉を絵にふりかけるのである。紙の上には、一切のタブーは無い。紙の上の自由! パイロット社製の細いペンは、あらゆる障壁を滑空してその軌跡を僕に見せつけるのだった。点から点への距離は限りなくゼロである。紙上は極大の空間であり極小のコスモである。元来、芸術とはあらゆるタブーを許容するものではなかったか。このことを本当に受け入れるのは … 「 自覚としては無理がある 」 かも知れないが、いつも思うことである。

 


料治幸子個展案内

2013-04-25 | 日記

              

5月12日 ( 日 ) から 20日 ( 月 ) まで新潟市のギャラリー、新潟絵屋にて料治幸子さんの個展が開催されます。彼女は絵を描き始めて20数年、以来、飽くことなくダンサーの踊る裸体を描き続けてきた。家庭の一婦人が描き続けるその持続力といい、日々の切磋琢磨といい、今更のようにその精神力には驚くべきものがある。そして、時に謙虚な、時には鼻っぱしの強い勉強家でもあるのだ。彼女にとって絵を描くとは、ここで僕は小林秀雄の言葉を思うのである。

成る程、己れの世界は狭いものだ、貧しく弱く不完全なものであるが、その不完全なものからひと筋に工夫を凝(こら)すというのが、ものを本当に考える道なのである、生活に即して物を考える唯一つの道なのであります。  ( 「 文学と自分 」 より )

絵を描き続けるということが、自分を知るための一つの方法に過ぎないならば、この 「 一つの方法 」 は彼女の人生そのものである。一枚のドローイングといえども、それは彼女の精神に他ならないのである。描かれたものが美しいか、そうでないか。もはや描いた本人の問題ではなくて、見る人自身の問題である。僕という 「 貧しく弱く不完全な 」 見る人が、彼女のドローイングを見ることによって、少しでも 「 考える 」 があれば嬉しい。僕は期待する。