ブロンズ『春風』

2017-08-30 | 日記

       

母が入院している八階建ての総合病院のコート(中庭)にこの像はある。水田地帯の真っただ中に建っているこの病院は平面的に見ると、東西のウイングを持っていてコートはちょうど翼の中心である。像の真後ろに3台のエレベーターが並んでいて、僕は八階の病棟まで上がる。上がっていく途中、この像をずっと見下ろして行くことになる。しかしなぜ「春風」なのだろうか。または、女性が乗っているこれは何だろう?

こういう彫刻類にはあまり興味がなかったが、しかし、毎日母のところに通う中に、そしてこの像を囲む廊下のガラス・ウィンドウ越しに立止まって見るにつけて、所謂、情がうつって行くのである。つまり恋するのである。僕は『春風』にゾッコンになるのだった。特に先日の大雨の中、“ 彼女 ” が雨に打たれている光景は、実に「マグダラのマリア」である。この病院を往き来する人たちはこのブロンズ像に何を見るのだろう。作者は元井達夫(1936年長岡市生まれ)という彫刻家である。

 


夕陽差す

2017-08-27 | 日記

         

夕方、部屋の中まで夕陽が差し込んでくる。その明るさの彼岸的時間。高さ20センチ前後のこの像は室町時代の木彫と言われるが、真偽のほどは分からない。しかし分からないなりに雰囲気があるから、これはこれで年代が確定できなくても僕自身は面白いのである。家の中の気に入った場所に安置してみては、楽しんでいる。また家の中ではその時間帯によっても光の当り方が大分違うので、木彫はいろいろな相貌を呈す。背景の赤色は畳一枚分の僕のパステル画である。世間で言うところの炎のような色である。夕陽が差したのは、母を見舞って病院から帰宅したばかりの時だった。今夜は「とちお祭」の花火が上がった。

        山里の世間へだつる夕暮れにヴァルター・ベンヤミンを読む

        山里のうきよへだてる夕まぐれ遠く聞える花火の上がる

        暮れて行く山の深きにほそき月きみの目に似て清 (さや) かなりける

 


雨後の朝

2017-08-26 | 日記

   

朝方には猛烈な雨の音に目が覚めて、フトンから立ち上がったのはもう9時に近かった。起きると田んぼの緑が眩しいのだった。前夜は遅かったし途中に目が覚めたから、どうも今朝は数千年の眠りを眠りたいような、目覚めがいまいちなのである。近所の婆さんの朝は早いからオチオチ寝てはいられないからナ … 。

そこで起きがけにCDをかけて見るのである。何を聴くかが問題である。問題は決して小さくはなく、しかしそう大きくもないからこれは気分の問題だった。『複製技術時代の芸術作品』(ヴァルター・ベンヤミン著) の「複製」の恩恵に預かるのである。CDは音楽芸術の複製である。今ここに、と言う音楽演奏の一回性の臨場感という “アウラ” はないが、それに代わるものの恩恵は確かにあるのである。何と言っても、寝起きにさえ一流の演奏が 聴けるのである。僕の生活空間には「複製」が満ち溢れているし、また「複製」がなければ僕の日常生活はきっと殺伐しているだろうし、絵画にしてもそうである。絵画のオリジナルは高価な故、一般にはなかなか手に入れ難いものである。昨夜もこの「複製」によって僕は「一人ディナーショー」という豊かな時間を過ごすことができたのだった。

言うまでもないが文学についても「複製」は嬉しい。ブログにも書いているけど、最近文庫本にもなった『藤原定家全歌集 上下巻 』(ちくま学芸文庫) もそうである。だいたいが書籍関係は「複製」なのである。技術の発達は芸術作品だけに限らず、あらゆるものを「複製」していくのだろうか、人間でさえも! 豊かさの背後にある闇は深い。しかし、今日は暑くなりそうだナ、どうも。『全歌集』より一首。この歌には、樹陰納涼、と言う言葉書きがある。

      すゞみにと道はこのまにふみなれて夏をぞたどる森の下かげ

 


ディナーショー

2017-08-25 | 日記

    

今夜は、図書館から借りているCD版『菅原洋一オリジナル全曲集』(1987年 ポリドール) をTVのステレオで聴く。前日から未だ残っていた自家製辛口カレーを食べながら、そして、ワイングラスに入れた一杯の氷水を傍に置いて、「知りたくないの」から「今日でお別れ」なんかを、音量を上げて聴くのである。“ソフトボイス” が夜の静かさを一層静寂な夜にするのである。その歌詞の卑近な言葉が、男と女の「別れ」のメロディーに乗って人生の哀しき抒情詩である。掲載した写真の右端にブルーラインが写っているのがTVである。僕だけのためのリサイタルである。僕だけのためのディナーショーである。

        あなたの愛がまことなら ただそれだけで嬉しいの …

CDが終わると、窓の外からは虫の音が聞こえてきた。もう秋の音である。もう、秋か。ボードレールの詩の一節から。

        遠くから聞こえる木霊が尾を引いて

        混じり合っては結びつく不思議で深い

        その様は闇にも似て光にも似て広大無辺、

        これと同じく応えあう香りと色とものの音(「照 応」より )

 


緑の微睡と女性写真家

2017-08-22 | 日記

公園の木立の中で、寝そべって陽の零れるのを撮った。夏の緑の太陽の直射を遮って、暑い日の木陰の時間は最良である。時どき、一匹の烏が迷い込んでくるけど、それは烏にとっては場違いなところだろうか、すぐに消えてゆく。黒い色はここでの居住者になれないのだ。アメリカの女性写真家、ベレニス・アボット (1898-1991) の都会的写真にはない色彩だと思う。しかし、ここで何もアボットを登場させることはなかった。つい頭に浮かんだことだった。他にも好きな女性写真家がいて、やはりアメリカのドロシー・ノーマン (1905-1997) である。ポートレートを見ると二人とも美人である。緑の陰に微睡 (まどろ) むと、僕の頭脳は判断停止状態になって、いつか見た写真家の顔が浮かんでくるのだった。

遊戯を好む自由な人間。風と水に親しみ、日焼けしていて、そして新しい、より明るい世界を切り開こうと望んでいる人間。光、空気、日光の、幸福と癒しをもたらす力が認識される。体にくまなく光をあてること。人間存在全体を明るく晴れやかにすること、あらゆる生活形式を変えることが目指される。つまり、みずから進んで直接に自然と結びつくこと。同時に、新しい建築が、暗い石の洞窟に穴をあけ、軽やかなガラス壁を通しての広い視野を開き、家屋と庭とを有機的に結びつける。庭のすばらしい豊かさは、新しい種類の花を育て、意味ある植え方をすることによってはじめて生じえたのである。(ベンヤミン著『写真小史』より)