「太田胃散 〈分包〉」 を飲す

2018-08-28 | 日記

              

最近、胃の調子が良くなかったから生まれて初めて僕はこの胃散を飲んだのだった。初めての経験だったけど、ま、よく効いたような気がしたから、たまにはこういう薬も飲んでみてもいいかと思ったのである。実際のところ、胃酸の出が治まったのである。それでこの日を記念日としてこの絵を描くのだった。「 太田胃散分包を飲んで、女を待つ胃の快調なるヨロコビ 」と、この絵の中に書いてみる。さらに調子に乗って「わがサピアンス夫人の子宮のくらがりに、生薬の芳香を思うのだ!」などと意味不明の歌 ( これも歌のつもりであった ) を挿入するのである。こういうことが世間的に許可されるのかどうか、ま、あまり考えたことはないが、にも拘らずにここに記録するのである。グラスに注がれてストローに突き刺された液体は、僕の ( ここで、他人の、ではまずいだろうから特にことわっておくのである ) 胃の調子がいいから、もうじきおかわりされるのである。サピアンス夫人とは『トリトンの噴水』に登場するサロンの女主人のことである。黄色いテーブル上でさっきまで、グラスと「太田胃散〈分包〉」とが恥ずかしくも激しい遊戯をしていたのだったが、やはり「太田胃散〈分包〉」が寂寞の勝利を収めてしまったから、ここではそれぞれが重要な絵画的演劇の役者になるのである。従って、この絵にはいい加減さばかりではない、心情的には実に高く美しい「噴水」の歌のニュアンスが出ればいい、と思うばかりである。

 


指南書発見

2018-08-26 | 日記

          

昨日、骨董屋さんでこんな手作り本を、ガサゴソしているうちに見つけた。たて12.5cm、よこ10cmの12枚の少し厚目の紙を和綴じにしたもので、タイトル「うらおもて 四十八手(全)」にあるように、これは媾合指南書である。開いて見ると、ペンで描いた自筆本でまだ薄くエスキースの鉛筆の線が残っていて、丁寧に描かれてあるのがいい。裏表紙にはH.Sとサインが書かれてあり、きっと筆者に違いない。このH.Sと言う方は指南書を作るにあたり、媾合絵を描くこと、それに本そのものの造本に興味を持っていたと思われる。写真のように手垢かまたはその古色とでも言うのか、本の表面はそれらで汚れてはいるが、インクの一筆一筆の線が初々しく、時に、説明文ならぬ「取説文」もユーモラスで、作り手のこの本が完成した時の喜びが今も伝わってくるようで、実に手沢本である。その中の最初の一頁だけを紹介してみる。本当は全部紹介したいと思うが、媾合本であるだけに少し遠慮する次第である。

             

             一、綱代本手 女 からめた両足先に力を強くいれる

             二、揚羽本手 男 腰を浮かせて女をつり上げるやうにみちひく

             五、ことぶき本手 チグハグに腰をつかい互にもみ合ふようにする

             七、笹舟本手 抱いた膝をしめつゆるめつ調子をとる

             九、忍び居茶臼 女 両足をつく形なれば腰を浮かせほどよく調子をとる

以下省略するが、絵とともにこの「取説文」がなんとも言えないニュアンスを持って、相手への思いやりに満ちているのがいい。男と女がいだき合うことは何事につけても「ほどよく調子をとる」ことだと、この指南書は言うのである。またこの本には「腰」という字が多用されているが、何事につけても「腰」というものがものをいって、やはり本腰は何事につけても入れなければならないのである。「本手」とは、「勝負事などの、その局面で使うべき本筋の手」「持ち前のてなみ」「三味線などで、型をはずさない基本的な弾き方、ほんで」などと辞書にはある。

     明日は未だ愛さなかつた人達をしても愛を知らしめよ、愛したものも明日は愛せよ。新しい春、歌の春、春は

     再生の世界。春は恋人が結び、小鳥も結ぶ。森は結婚の雨に髪を解く。明日は恋なきものに恋あれ、明日は恋

     あるものにも恋あれ。 (『西脇順三郎詩集』より「ヴィーナス祭の前晩」冒頭)

 


限りなく満月に近い

2018-08-24 | 日記

               

今夜は満月かと思って満月カレンダーを見ると、そうではなくて満月は26日であった。見るからに満月だが、そう思って夜の風に当たりながら見ていても、今夜は満月の夜なのである。この写真では分からないけど、薄い雲の面積が広がって、その雲間から月がかかって来たから、白い海原の雲原 (くもばら) に白い満月が浮かんでいる。そして田んぼの遠くに、提灯の明かりが「忌中」を告げているのが分かる。虫の音も一段と秋の虫であるのが、その月光をより皓皓 (神々) しいものにするのである。皓は白いという意味である。そこで、ここでは神々しいを「かみがみしい」(または、ガミガミしい) と読んでも、そして「皓皓しい」を「しらじらしい」と読んでも面白い、と思う。提灯の明かりは実に輝いていて、眩しさといい、その光の輝度といい、この世に匹敵するものは無いかの如くである。とでも書いておこう。夜の明かりがいつもと違うところに光っていると、それは「何事かある」のである。

 


林道

2018-08-22 | 日記

         

実に今日も暑い一日になった。もう、イヤハヤの暑さだった。山道を車で通って、夏山とその山に出る入道雲の写真を撮りに行った。そしてその写真をブログに掲載しようと思ったのだった。でも、途中の山道のこの写真のような日影に出会って、これが気に入ってこれを掲載することにしたのである。林道、と言ってもいい。林道の木陰のある緩い坂道の夏の終わりの午前。時間がゆっくりと流れているような、でも、静止した時間のようないつか来た少年の頃の道のままである。僕だけが時間を失っているような、藪の陰にも過去がそよいでいるのが分かるのである。車を止めると、光と陰が揺れている林道には静かさが沁みている。ここに机を据えて便箋を広げ、青いインクで午前の静寂の中で、過去の僕に手紙を書くのだ。今となっては高齢者の僕から、中学生になったばかりの僕に書くのだ。「人生は光のように速く、そして陰も付きまとう」と。

 


お墓への道

2018-08-21 | 日記

        

お墓参りをしてなかったから昨日行って来た。森の中の「先祖代々」が眠る奥津城は、写真のように藪の上り坂の小道を分け入って行く。まるでケモノ道である。たどり着くまでは、いかにも「奥津城」という名に相応しいと思う。だけど年老いた母には、こういうところにあると、もうお墓参りに行くことはできない。お墓のロケーションとしては、僕はこういう鬱蒼としたところが似つかわしいと思っているが、僕もいつかは年老いては、もうこんな山奥にはこれないだろうが、永遠の眠り場所としてはいいところだと思う。

今日も暑くなりそうだ。早朝から蝉が懸命に鳴いている。稲穂が日毎に色づいている、見渡す水田の色彩がどんどん黄色になってきた。そして、山の遠近が鮮明になって僕に迫ってくる。